古谷辰四郎

プロフイール

北海道で育った我々年配者にとつて[フルヤのミルクキャラメル・ウインターキャラメル][池田のバンビキャラメル]は、懐かしい思い出のあるネーミングです。このフルヤのキヤラメルなどを始めとする菓子業界で先導的な役割を果たしたのが、古谷辰四郎(ふるやたつしろう)です。彼は、1868年(慶応4年)現在の滋賀県野州町で生まれましたが、後に大阪の乾物卸屋の永井商店に入りました。後年辰四郎は単身北海道に渡り、海産物屋に雇われ商売に励んだ後、独立して乾物類の小売り店を狸小路に開きました。順風満帆の営業活動を展開して事業を拡大し、やがては菓子業界のトップリーダーとして又、各種の公職にも携わり札幌産業の発展に大きな功績を遺しましたが、1930年(昭和5年)8月9日、63才の生涯を終えました。
 所蔵 札幌市公文書館[故古谷辰四郎尋思録]より転載

事業の変遷



狸小路で始めた乾物小売り業も順調に推移したため、1904年(明治37年)には南1条西1丁目に店舗を移転しました写真上図は当時の店舗の様子です。新しい店舗では事業を拡大して、米穀、荒物、雑貨類なども取り扱いました。明治40年札幌に大火が発生しましたが、古谷商店は類焼を免れこの火災を契機として飛躍的な発展を遂げるに至りました。
 所蔵 札幌市公文書館[故古谷辰四郎尋思録]より転載

業績の拡大に伴い同社は小売業から製造業にも手を伸ばし新たな工場を新設しましたが、これがキャラメル製造の原点となりました。
1912年(大正元年)現在の北5条西5丁目(札幌駅の西側で現在はセンチュリーローヤルホテル)に古谷第一工場を設け精米と黒砂糖の精糖加工の工場を新設しました。これを契機に、1917年(大正6年)には、苗穂町には古谷第二工場(製飴工場)を建設し、菓子の製造も開始して翌年にはキヤンデーを発売しています。古谷の名前を高めたのは前述のキヤラメルです。[ミルクキャラメル]は、1925に発売されましたが、先発メーカである中央ブランドの[明治][森永]に伍して大健闘を続けたのです。[古谷製菓]と商号を変更したのは1944年(昭和19年)ですが、札幌の菓子メーカーとしては全国を商圏にした活動が展開されました。その古谷製菓も諸々の事情が原因で1984年(昭和59年)倒産し、札幌のブランドが一つ消える事となりました。

思いでの一齣

ラジオ公開放送風景地元の菓子メーカーとして発展を続けた古谷製菓は、民放が誕生後はメディアを使った宣伝にも多いに力をいれ、地元局の公開放送などにも提供スポンサーとして販売促進の面で大きな業績を残しました。広く知れわたつたキャラメルのブランドは、倒産後他のメーカの生産に委ねられ、現在も店頭で見られますが、このブランドを見る度にかっての栄光に輝いていた会社の躍進時が思い出されます。北海道放送社史より転載