プロフイール
開拓使が招聘した外国の指導者の中で最初に来日したのが[ホーレス・ケプロン]でした。ホーレス・ケプロンは、アメリカ合衆国政府農務長官時代の1871年(明治4年)渡米していた黒田清隆の懇願を受け入れ、現職を辞して招聘を受け入れ同年訪日し1875年(明治8年)5月帰国するまで、開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問として北海道の開発に大きな貢献を果たされました。ケプロンは、道路建設、工業、農業など各分野で建設的な提言を行いこれらの施策が今日の札幌はもとより北海道の開発の基盤造りの原点となつています。(北大付属図書館 原写真所蔵)
ケプロンは、日本に滞在中多くの事業を提案しましたが、中でも札幌農学校、開拓使麦酒醸造所などは本府札幌にとっても大きな事業の一つであり、今日の札幌の発展に多くの足跡を遺しました。大通公園10丁目には、ホーレス・ケプロンと黒田清隆の像が並立して建立され東に向かって発展を続ける道都札幌の未来を見つめ続けています。ケプロンは、札幌の歴史を築いた先人の一人として高く評価されています。
ケプロンと開拓使仮学校
開拓使は、1872年(明治5年)北海道開拓に携わる有能な人材を育成するため、開拓使と同じ増上寺の境内に[開拓使仮学校]を併設しました。生徒の定数は、官費生50名、私費生50名、合計100名で卒業後は官費生は10年、私費生は5年、北海道の開拓に従事することが義務づけられていました。この学校の運営にも黒田清隆とホーレス・ケプロンが大きな役割を果たしていました。その後、[開拓使仮学校]は、1875年(明治8年)に[札幌学校]と改称されて札幌に移りました。開校式は1875年9月7日で、校舎は現在の時計台の側にあった外国人の寄宿舎を改築して使用していたようです。[札幌学校]も、翌年の1976年には[札幌農学校]として開校しています。所蔵 北大付属図書館
ケプロンの献策による殖産事業
開拓使は、北海道の開発を進める一環として官営事業に着手しましたが、その代表的なものは[開拓使麦酒醸造所]です。開拓使麦酒醸造所は、明治9年(1876年)竣工し同年9月23日開業式が行われました。[開拓使麦酒醸造所]は、現在観光スポツトとして脚光を浴びている[サッポロフアクトリー]の場所にありました。現在も構内に大きな煙突と[札幌開拓使麦酒醸造所]の文字が遺され、往事の面影を留めています。当時の札幌の人口は僅かに3,000人で荒涼たる原野だったそうです。このような環境の中で札幌に工場を建設した先人達のご苦労が今日の札幌市の発展に繋がつているのです。
開拓使通からケプロン通へ
北海道開拓の礎を築いた米国人[ホーレス・ケプロン]が亡くなって120年余になります。新聞記事によるとこの没後120年を記念して札幌の中心街である北3条通りをこれまでの[開拓使通り]から[ホーレス・ケプロン通り]にしようという運動が展開され、これまでも幾度となくこの活動を進めるためのフオーラム等も開催されています。ホーレス・ケプロンは1871年に開拓使顧問として来日し、日本滞在の3年10ケ月の間に北海道開拓に関する様々な活動に取り組んだ方です。かってこの北3条通りには市電も走り、札幌の産業の中心となったビール工場を始め醸造、製菓など多くの工場があり、産業の街としても発展を続けたエリアです。今回の構想は道庁赤レンガ広場から永山武四郎記念公園までの約1キロにこの通りの名前を付けようとするものです。札幌も年々都市化して昔の面影が全く感じられない大都市となりましたが、先人の苦労を偲び今日の発展の基礎を築いた功績を忘れない事はこれからも大変大切な事だと思います。(写真は、道庁正門から東方向を俯瞰したものです。このエリアは、札幌出始めて道路の舗装が行われた場所でもあります)。(註)このエリアは2013年から工事が行われ2014年度には新しい広場としてデビューする予定です。