荒井金助・早山清太郎

プロフイール

荒井金助の墓JR学園都市線で札幌を発ち約20分で[篠路]に到着します。篠路は、札幌圏では一番早く開発が進められた村落です。この篠路にある[龍雲寺]の境内に篠路開発の祖である、荒井金助(あらいきんすけ)と早山清太郎(そうやませいたろう)のお墓が建立されています。石狩調役の荒井は、1860年(万延元年)に自費で農民十余戸を募って篠路に入植させ[荒井村]を開村しました。荒井金助は凶作に備えて食料を蓄える倉庫を建築したり、教育にも力を尽くしました。荒井はその後1863年(文久3年)に石狩から函館に異動を命ぜられ、同66年11月五稜郭の堀に落ちて亡くなりました。58才の生涯でしたが、現在の篠路には荒井ゆかりの碑がいくつも見られます。一方荒井金助と並んで篠路開拓の祖と呼ばれているのが、早山清太郎です。早山清太郎は1817年(文化14年)現在の福島県白川郡西郷村に生まれ、1852年(嘉永5年)蝦夷地に渡ってきました。当初は現在の手稲星置で伐木下請けの仕事をしていましたが、幕史の薦めもあつて農夫に転向し琴似に移住しましたがその後1860年(万延元年)篠路に入植しました。

石狩調役時代の荒井金助

当時の石狩浜
荒井が務めた石狩に[石狩役所]が設置されたのは1855年(安政2年)で、行政区域は[積丹]から[増毛]までの広エリアで、この中にはサッポロも支配下に置かれていました。荒井金助が調役に就任したのは1857年(安政4年)で、荒井はこれまでの場所請負制度を改革したため港も活況を呼び石狩の人家も急増したと言われています。又、豊平川の渡守として名高い志村鉄一、吉田茂八を送り込んだのも石狩調役時代の荒井金助でした。(写真は当時の石狩浜 所蔵 北大付属図書館)
篠路神社
篠路駅の近くに[篠路神社]がありますが、この社殿脇に設置されている由来書にも荒井金助による造営の経緯が記されています。荒井は、1857年(安政4年)篠路八幡宮として社殿を造営して村の氏神としました。



篠路の開祖 早山清太郎

札幌村郷土記念館に掲載されているパネルには篠路に入植した早山清太郎の[篠路の開祖]としての位置づけが記載されています。[荒井金助によって開拓された荒井村はその後徳川幕府の崩壊、明治政府の樹立、箱館戦争の勃発などで、全村あげて開拓を放棄して戦争に参加した。そのため開村14年にして一応廃村となつた。しかし、その中で毅然として開拓の鍬を振ったのは早山清太郎で、1871年(明治4年)南部藩士10戸が伏籠川の川沿いに永住したのでその他の移住民を合体して早山が名主となつた。彼はこの地で生涯を終えた]。まさに、早山清太郎は、文字通り篠路村の基礎を築いた先人といえましょう。
明治初期の篠路村の様子です。早山が遺した数々の功績の中でも、道路の開拓はその後の地区の発展に大きく寄与しています。早山の手がけた20本余の道路建設の功績は、彼の法号である[篠路院仁誉寿山徳翁万開道居士]にも如実に示されており遺徳は後世に留められています。所蔵 北大付属図書館

歌舞伎発祥の地[篠路]

歌舞伎発祥の地碑
篠路と言えば[篠路歌舞伎]が有名で、さっぽろふるさと文化百選にも選定されています。この地区にも当時の歌舞伎を伝えている場所、縁の碑などがいくつか存在しています。篠路歌舞伎が始まつたのは1902年(明治35年)で、当初は篠路一帯が烈々布と呼ばれたいた頃、村の青年を中心に演じ競られ最盛期には花道や回り舞台を備えた本格的な歌舞伎で全国農村歌舞伎の中でも特異な存在でしたが1934年(昭和9年)消滅しました。