岩村通俊

プロフイール

岩村通俊は、島義勇の後任として当時函館出張所詰めでしたが1871年(明治4年)札幌本府の建設に携わる事となりました。新任の岩村判官の本府建設は順調に進捗して、開拓使の仮本庁舎、本陣(宿舎)、仮宮、創成橋を始め偕楽園の建設にも着手しましたが、官営工場の建設など積極政策により財政的破綻を来たし、このことが引き金となって1874年(明治7年)免職され、松本十郎判官にバトンタッチすることとなります。
所蔵 北大付属図書館

円山公園の木立の影に静かに佇んでいる[岩村通俊(みちとし)]の像です。

岩村通俊の札幌本府建設


岩村によって進められた街造りの最初は街の基点を決める事でした。岩村は、大友堀(現在の創成川)の南1条を基点としました。ここには1869年(明治2年)架けられた橋がありましたが、丸太を並べその上に板を敷いただけのものでした。岩村はこの橋を木造の桁橋とし[創成橋]と命名しました(写真左図 所蔵 北大付属図書館)。岩村はこの橋の東のたもとを基点として南北に[創成通]東西に[渡島通(現在の南1条通]を設けて東西南北の区画割りを行いました。その後1881年(明治14年)6月に町名を京都に倣って条丁目に改正し現在に至っています。又、札幌本府の建設に当たって本庁舎の建設が急がれましたが、その間仮本庁舎が現在の北4条東1丁目に竣工しました(写真右図 所蔵 北大付属図書館)。

開拓本庁舎の建設

現在の赤レンガ庁舎
開拓使の本庁舎敷地の規模は大きく、東西は現在の西4丁目から西8丁目までの4町、南北は北1条通から北6条通までの5町に及び総面積9万4千坪でした。庁舎は現在の道庁赤れんが庁舎の直ぐ北側に建てられ、現在も史蹟が遺されていますが、1873年(明治6年)10月に落成しました(写真左図 所蔵 北大付属図書館)。この庁舎は、1680坪の三層楼式純洋館で、中央部に設けられた八角座までの高さが28メートルあり、当時としては国内屈指の大建築でした。写真右図は現在の赤れんが庁舎です。1969年國の重要文化財に指定されましたが、歴史の語り部として大変重要な役割を担っています。館内には北海道文書館の別館として文書館資料展示室、北海道の歴史ギヤラリーなど歴史的資料も豊富です。この庁舎は、1888年(明治21年)に北海道庁の本庁舎として建設され、1909年庁舎が火災に見舞われましたが、1911年復旧工事が完成し、その後復元工事などが行われて現在に至っています。