公園入り口に黒御影石に記念公園について菊池哲夫ニセコ町長名の碑文が刻まれています。大要は大凡次の通りです[有島武郎記念館は有島武郎生誕百年にあたる昭和53年に開館したが、今回更に生誕百十年(昭和63年)を記念して旧農場・農団縁の地であるこの地に約5ヘクタールの環境を整え記念公園とした]。
(撮影 2013.06.26日快晴)
①記念公園入り口
②白樺並木
③広場
④記念館(展示)
⑤玄関ホール
⑥カルチャーセンター
⑦アートギャラリー
⑧有島タワー
⑨有島武郎像
⑩泉と噴水のある池
⑬花時計
⑭カインの末裔
⑮生まれいずる悩み
⑯池
⑱有島謝恩会館
⑲吉川銀之蒸顕彰碑



広場から見た記念館です。赤れんがの壁に蔦が覆っています。記念館を入った右手が展示室[有島武郎の世界]ですが、写真撮影が禁止されているので画像はありません。左手が上記マップ⑥のカルチャーセンター等のある場所かと思います。














昭和53年創設時の入り口だと思います。白壁に[有島武郎記念館]の標識と創設の趣意書が書かれた碑が置かれています。



広場の中央に建立されている[有島武郎像]と背後の[クララ]リトルチャーチ(右図)です。広場の遙か後方には美しい羊蹄山の容姿を望むことが出来ます。



秀峰羊蹄・ニセコ連山に抱かれたこの地は、白樺派を代表する作家有島武郎の生涯にわたる苦悩の場であり
慰籍であり、彼の作品の母胎の地でもある。彼は農場所有にうしろめたさを感じながらも、この農場の人と大自然をこよなく愛し、この地を舞台とした[カインの末裔]や、[生まれ出づる悩み]等、多くの文学作品を残し、その作品は、現在も多くの人々の心に深い感銘と感動を与え続けている。思想的幾変遷ののち、この地に所有していた農場を土地共有という形で小作人に無償で解放した。彼の理想と精神は、幾多の不滅の作品と共に今日も、このニセコの大地に生き続けている。
文学碑の側に下記の様な「カインの末商」冒頭よりと云う小説の一節が刻み込まれた銘石が設置されています。
[長い影を地にひいて、痩馬の手綱を取りながら、彼は黙りこくって歩いた。大きな汚い風呂敷包と一緒に、章魚のように頭ばかり大きい赤坊をおぶった彼の妻は、少し跛脚をひきながら三、四間も離れて、その跡からとぼとぼとついて行った。北海道の冬は空まで逼っていた。蝦夷富士といわれるマッカリヌプリの麓に続く、胆振の大草原を、日本海から内浦湾に吹きぬける西風が、打ち寄せる 紆濤(うねり) のように跡から跡から吹き払っていった。寒い風だ。見上げると八合目まで雪になったマッカリヌプリは、少し頭を前にこごめて風に歯向いながら黙ったまま突立っていた。昆布岳の斜面に小さく集った雲の魂を眼がけて、日は沈みかかっていた。草原の上には一本の樹木も生えていなかった。心細いほど真直な一筋道を、彼と彼の妻だけが、よろよろと歩く二本の立木のように動いて行った。有島武郎著「カインの末商」冒頭より]。
[星座]
[今まで安らかに単調に秒を刻んでいた歯車は、急に息苦しそうにきしみ始めててた。と思う間もなく突然暗 い物隅から細長い鉄製らしい棒が走り出て、目の前の鐘を発止と打った。狭い機械室の中は響きだけになった 。又打つ…………又打つ…………丁度十一。十一を打ち切るとあとはまた歯車のきしむ音が暫く続いて、それ から元通りな規則正しい音に還った。余りの厳粛さに園は暫らく茫然としていた。園は時間と云うものをこれ ほどまでにまじと見つめたことはなかった。]
[星座]は、有島武郎の未完の大作である。この文は札幌農学校生徒園が時計台に上り、眼の前で鐘が鳴るさま をみ、<時>の厳粛さに打たれる一節である。
記念公園と道路を挟んだ小高い丘には、有島農場の小作人として農場の管理に専念し、農場の無償開放に際しては新農団の指導にあたり、有島武郎没後の大正13年には狩太共生農団信用利用組合の理事長として活躍、その後も地域のリーダーとして重責を担ってきた吉川銀之蒸氏の顕彰碑と功績を讃える顕彰ボードが設置されています。
この記念貨公園は、かっての農場で公園と道路を挟んで当時の羊舎が廃屋として保存されています。廃屋の前には当時の牧区の区割りマップが掲載されていますが、第一牧区から第五牧区迄合計で4.40ヘクタールで、羊はイングランドのサフオーク種を飼育していたと記載されています。