展示コーナーの中で目を惹くのは[学校教育]です。手稲の教育に多大な貢献を尽くした三木勉と時習館について数多くのパネルで紹介されています。その中の一枚のパネルには[手稲の教育の発祥]というタイトルのパネルがあり三木勉と時習館について記述されていますのでその内容をパネルを引用して紹介します。
手稲の教育の発祥
三木勉は、明治5年、元白石藩士らが上手稲に移住したときの取締役であったが、開墾のまず最初に移住者の子弟に教育に手をつけなければならないとかんがえ、湯村生幸、山岸権孝ら有志と相計って茅囲いの粗末な塾舎を建てこれに[自習館]と命名した。この自習館こそ現在の手稲東小学校の前身なのである。時習館は、我が國が明治5年に初めて学制を発布したその年に移住者の自主的な発意によって創設された最初の教育の場である。明治4年には、函館に函館学校、札幌には資生館という公学校が開かれたが、手稲の時習館は札幌地方の私設の学校形態としては最も古いものであった。三木勉は自らこの時習館の塾頭となって教育にあたつた。三木勉の教育は、読書、習字、算術の学習を主としていたが特に読み、書きにに意を用い国史によって国民道徳を深めることに熱心であつたという。算術については、これまでの寺小屋教育などではそろばんによる計算を教えていたが、三木勉は筆算による計算法を指導していたのであって、三木勉の教育は統治としては全く新しいものであった。このように力強い三木勉の教育を慕って近隣の里の子弟たちも集まってきたといわれている。時習館の塾舎は、開拓地の様相そのままにガンビの皮をはいて屋根を葺き茅で周りを囲い、桜の皮をはって時習館の名を書き表していた。統治、たまたま開拓使判官の松本十郎がこの地方視察のおり、この珍しい学舎のの文字に目をとめ館を訪れて学童たちを励ました帰った。その後一幅の絵画を庁員に描かせ、自らこれに激励の詩をを書き込んでこれを時習館に贈ったのである。この事があって以来三木勉は大いに感激して一艘児童ならびに村人の教導に全力を注いだのであった。この時習館は間もなく現在の手稲東に移り明治11年6月開拓使庁の補助を得て校舎を新築し、その名を上手稲教育所と改められたのである。
時習館の碑
三木 勉(つとむ)は、1871年(明治4年)宮城県白石藩士とその家族600名のリーダーとして北海道に渡り、その内の三木勉以下241人が上手稲(現在の手稲区宮の沢)に入植しました。この時三木は34才でしたが学識豊かで情熱をもつて村の開墾にあたる傍ら、教育にも異常な情熱を注ぎ自宅を塾に解放して子弟の教育に当たり地域の教育面で大きな功績を遺しています。
札幌から小樽に向かう国道を走ると円山西町19丁目の[中の川]の橋に出会います。この川の周辺が[中の川公園]です。この中に、さっぽろふるさと文化百選にも選定されている[時習館記念碑]が建立されています。[さっぽろふるさと文化百選 時習館ゆかりの地]の案内板が設置されています。此処には大凡次の様に書かれています。[明治5年(1872年) 旧白石藩の47戸が上手稲に入植し、その中の一人三木 勉は自宅を私塾として開放し[時習館]と名付け子供の教育にあたった。(現在の西区西町北18丁目あたり)。時習館はその後[手稲筆算所]としてこの地に移り、現在の手稲東小学校に引き継がれている]。
公園内に建立されている記念碑です。この碑は、手稲町と札幌市が合併を控えた1967年(昭和42年)2月20日に時習館ゆかりの地に建立されました。学制が施行されたのが1872年(明治5年)ですが、この当時札幌には、資生館(現資生館小学校)、善俗堂(:現白石小学校)、そして時習館(現手稲東小学校)の3校がありました。碑の台座には、時習館命名のゆわれが記されています。之によると[学んで時に習う]と言う中国の古語を引用して命名された様です。この時習館の創始者である三木 勉が開いた私塾は、間口4間、奥行き6間の茅葺きの建物で、最初の入学児童は7名でしたが、札幌の学校の嚆矢をなすものとして注目されました。その後児童数も増え3年後には30名に達しています。このような三木 勉と弟の格の献身的な努力が認められ、明治11年(1878年)には[公立上手稲教育所]が創設されその後上手稲小学校(現手稲東小学校)になつています。