発寒の歴史は古く屯田兵が入植する以前かの1857年(安政4年)には永田久蔵等20余名がこの地に移住していました。1876年(明治9年)第二次屯田兵が琴似に入植しましたがこの時に32戸が発寒に入植して屯田兵琴似兵村の分村として開拓が進められました。1882年(明治15年)には[発寒兵村]と[琴似兵村]は合併しています。



上図は、西区発寒5条4丁目のコンビニの敷地内に建立されている[発寒屯田兵開拓居住の地碑]で、この[発寒屯田兵開拓居住の地碑]の案内板には大凡次の様に記載されています[明治9年ここ発寒の地に屯田兵32名とその家族がこの稲荷通沿いに入植した。大木の生い茂る原始林の真只中で幾多の困難と闘いながら汗を流し労苦に耐えて木を伐り土地を耕し現在の繁栄を築いた歴史ある移住の跡地です。先人たちの偉業を偲び後世に伝える為にこの碑を建立する。昭和62年(1987年)11月]。

左図は、碑の側を走っている[稲荷道]です。現在の[稲荷道]は、JR函館本線発寒中央駅側を南北に走り、この道沿いには発寒神社などもあります。屯田兵は明治9年この道沿いに入植しました。

稲荷通を発寒中央駅から稲荷通を越すと直ぐそばに地区センターと消防署が併設されている一角が[春日緑地]です。ここには、[発寒開邨記念碑]と[永田久蔵之碑]が建立されています。碑の案内板には大凡次のように書かれています。[発寒開邨記念碑(下左図)は、安政4年に山岡主計頭さんが長田久蔵さん等と農家17-8戸を誘ってこの土地に住み荒れた土地を切り開いた。この時にこの土地を発寒と呼ぶようになつた。そこで安政4年を発寒の始まりと決め永く伝えるために建立した]。 また、(下右図)は[永田久蔵之碑]です。発寒の開村功労者でもある永田久蔵は、安政4年11月石狩からの帰途死去しました。大正14年発寒屯田移住50年に当たり追憶を込めてこの碑が建立されました。碑文字は当時の北大総長佐藤昌介氏の揮毫によるものです。

この春日緑地からほど近い[発寒神社]にも発寒の歴史に縁の深い碑が建立されています。[発寒移住記念碑(下左図)]は、1857年(安政4年)幕臣20人がこの地の開拓を命ぜられて入植したのを記念した碑です。下右図は[発寒屯田兵移住百年記念碑]で、1876年(明治9年)32戸の屯田兵がこの地に移住したのを百年後に記念して建てられたものです。

JR函館本線[発寒中央駅]から[稲荷通]を進み[発寒桑園通]を手稲方向に右折、発寒5条通を左折して少し歩くと[発寒中央病院]があります。病院と道路を挟んだ発寒6条7丁目にあるのが[三戸部記念館]です。この記念館は、屯田兵として入植した三戸部勘吉さんから数えて三代目の三戸部清一さんが昭和49年に私財を投じてご自分の敷地内にプレハブの私設記念館を建立したものです。現在は四代目の三戸部清美さんが館長として維持管理にあたっています。照明もなく薄暗い館内にはご自身が使ったり、寄付を仰いだ品々が約2000点保存されていますが、入り口から入って左側には主として農器具類が、右側には日用品など生活用品が処狭しと展示されています。