JR野幌駅
左図は、現在のJR野幌駅南口を俯瞰したものです。
JR札幌駅から函館本線で約20分で[野幌駅]到着です。[野幌]は、野幌駅を中心とする江別市の一エリアですが、元来は[野幌丘陵(野幌原野) を指し、現在でも札幌市厚別区には[小野幌][上野幌][下野幌] 等の地名も現存しています。野幌駅は、2011年10月23日に開業した新しい駅舎で高架化されたモダンな装いとなりました。現在の江別市野幌には、駅の南口から連なる[グリーンモール]や[湯川公園]には屯田兵縁の建造物や碑などが点在しています。

札幌圏の中でも江別の屯田兵は、明治11年から明治19年までの間に江別・篠津・野幌の三地区に亙って配置されました。野幌の屯田兵は、1885年(明治18年)と1886年(明治19年)の二次にわたって225戸が入地しました。左図は[野幌屯田兵村配置図]です。(註)資料館で配布の資料から引用させていただきました。この図のように兵村には、屯田兵の住まいとなる兵屋と共に、兵村の中心部に中隊本部、火薬庫、被服庫、営倉が建てられ練兵場が設けられました。また、本部の近くには士官などの官舎や養蚕室や学校などが建てられました。


[開村記念碑]


この碑は、グリーンモール]沿いにある江別第二中学前の緑地に建立されていますが、1915年(大正4年)に建立されたもので、碑の中段には大きく[野幌兵村]と記され、台座の部分に移住者の出身地と戸数が記載されています。それによると明治18年には、鳥取県34戸、広島県30戸、石川県29戸、佐賀県24戸、熊本県21戸で、明治19年には、広島県37戸、鳥取県30戸、山口県20戸と記載されています。これらの移住民は、出身地から船で小樽へ、小樽から陸路で江別に入地しました


[開村50年碑]
風雪に晒されて碑文は読み取ることが出来ませんが、碑の上部に[屯田兵来住者]の表示があります。










第二中隊本部(現資料館)現在資料館として保存されている建物は、北海道指定文化財[野幌屯田第二中隊本部]で、野幌屯田兵が入植した直前の1884年(明治17年)ころ建築されたものと云われています。建築された場所は、野幌兵村のほぼ中央の練兵場(現在の江別第二中学敷地)に隣接した現在の錦山天満宮の境内でした。建物は洋風の二階建で、屋根は切妻造りで柾葺、これに切妻造りの玄関ポーチが付いていました。小屋構造はバルーンフレームと呼ばれ、開拓使以来のアメリカ風の建築手法が用いられています。この建物は昭和33年(1958年)4月10日に北海道の有形文化財に指定されています。
屯田資料館では、5つの展示テーマーが設定されています。[屯田兵と江別][兵村の中隊長][屯田兵の生活][屯田兵村の建物][被服庫]です。入り口を入ると左手に[下士集会室]があり、屯田兵村の配置状況、屯田兵の目的と役割、屯田兵制度の変遷などが展示され、説明文が表示されています。屯田兵についてパネルには次の様な解説があります[屯田兵は、入植時に一戸あたり4千坪から5千坪の土地と兵屋のほかに、有事の際の銃、農作業のための鍬、鋸、鎌などの農具、大麦、大豆、馬鈴薯等の種、鍋釜、寝具などの日常生活用品も同時に給与されました。また、入植から3年間は米と一定額の給付金が支給されていましたが、入植当時は厳しい訓練と開墾作業に追われる苦しい日々であったと思います]。また、屯田兵の日課については[屯田兵の日課は、夏季(5月から10月)までは午前4寺起床、6時に仕事につき、昼1時間の休憩をはさんで午後6時までの労働が決められていました(冬季は午後5時まで)。屯田兵の家族は、兵員が訓練に出かけている間も木を鋸で切り、笹を鎌で払い開墾や農作業に従事しました]。隣の部屋が[中隊長室]です。当時の状況を再現しています。パネルの説明によると中隊は独立した一つの自治体と同じで、中隊長は、一切を取り締まる最高責任者で陸軍大尉がその任務にあたっていました。また、中隊長は、兵村内の管理、兵員の訓練、開墾その他日常生活に至るまで兵村内のあらゆる仕事について指導していました。

下士集会室

中隊長室

宿直室

下士事務室(中隊本部と関連施設の模型を展示)
1904-5年(明治37-8年)の日露戦争には、71名の屯田兵が江別・野幌から召集され多数の戦死者を出しました。その慰霊を供養するためグリーンモールから少し外れた天徳寺に戦死者32体の木像が祀られています。この木造は[屯田の木像]と呼ばれ名古屋のカラクリ人形師玉屋庄兵衛さんか作ったものです。又、屯田兵によって創建された錦山天満宮の入り口に忠霊塔が建立されていますが、この忠霊塔は、日露戦争で戦死した戦没者を慰霊するために建立されたものです。写真下左[屯田の木造]下右[忠霊塔]

野幌屯田兵屋[湯川公園]に保存されている兵屋です。兵屋前の案内板には大凡次のように記載されています[この建物は、明治9年(1886年)5月屯田兵として広島県から入地した湯川さんの住居を昭和52年(1977年)に、ご家族の隼夫さんのご協力により当時と同じ場所に出来る限り近い形状で復原したものです。野幌兵村は、明治18年(1885年)の138戸と翌19年の87戸、計225戸の入地によって形成され、江別兵村と6丁目通を境にして10丁目通にかけて配置されました。17.5坪の和式兵屋で給与地は一戸4千坪でしたが、後に4番通北側の現在の元野幌や大麻方面に追給地が与えられました。この兵屋は、郷土江別の開拓時代の貴重な資料として、また、北海道の開拓の歴史を代表する屯田精度を知る上で貴重な資料として永く後世に保存するために建てられています。 昭和52年12月19日 江別市]。

土間

居間

台所

寝室

裏口

井戸