地下鉄大通駅の地上からは、道路を夾んで南1条の交差点です。駅地下のコンコースからも南1条の各デパートにはそれぞれ直結しています。
4丁目交差点の北東角が三越札幌支店でここから東に向かって池内デパート、丸井今井本店が連なっています。三越の隣には長い歴史を持つ丸善もありましたが、郊外に拠点を移し現在はITショツプに変わっています。(2010.12月に北1西3に再出店、又、文具オフイシャルショツプを丸井今井札幌本店南店に出店)
三越と道路を挟んだ向かい側には、大型店パルコや大丸藤井セントラルなどが並んでいます。この一帯のショツピングゾーンと駅前シヨツピングゾーンが札幌を代表する二大ショツピングゾーンで熱いたたかいをを繰り広げていますが、今後地下道でこの二つのゾーンが繋がった事で新しい流れが出てくることが期待されています。
[三越札幌支店]は1932年5月(昭和7年)十字街4丁目京屋呉服店跡に地下1階地上6階のビルとして新築開店したのが札幌店の始まりです(写真下左図)。写真下右図は、4丁目十字街です。
三越から丸井にかけての歩道です。札幌の冬を彩るイルミーネシヨンの頃には、このストリートにも電飾が施され幻想的な空間を演出しています。
西2丁目の一角に丸井今井と隣接しているのが[IKEUCHI札幌(通称池内)]です。池内の歴史は古く、1893年に 池内与惣吉氏により「池内金物店」として創業しました。その後1949年には「池内ビル」が完成、また、1953年には
池内ビル新館が完成し、特色あるデパートとして市民に親しまれてきました。現在は全館が服飾・雑貨の販売店やクリニック、カルチャースクールなどのテナントで占められていますが、以前はホームセンター・インテリアショップなどの商品が豊富で大変重宝なデパートして人気を呼んでいました。
札幌を代表する地元デパートの雄、丸井今井デパートです。南1条から大通にかけて本館、大通館、南1条を夾んで南館、西1丁目の大通館別館などこのエリアは丸井デパートの各館が軒を連ねています。このデバートから程近くには創成川が流れ、札幌の原点となった創成橋が架けられています。この札幌を代表するデパートの老舗丸井今井も2009年民事再生法を申請し、8月1日からは三越伊勢丹グループが新しく設立した会社の支配下に置かれ、これまでの丸井今井は完全に姿を変える事となり、新しく発足した札幌丸井今井として再出発しましたが、2011年には三越札幌支店と統合し社名も
[札幌丸井三越]となりました。
丸井今井と道路を挟んだ東側の映画館[日本劇場(通称東宝日劇)]も業界の新しい流れ抗しきれず2003年(平成15年)8月31日閉館しました。1954年(昭和29年)オープンした同館の閉館に一抹の寂しさを禁じえません。跡地には商業ビル[札幌シャンテ]がオープンしています。
三越札幌支店と道路を挟んで向かい合っているのが[札幌PARCO(写真下左図)]です。かつては札幌の老舗である[富貴堂]の跡地に1975年オープンしました。その隣が1990年竣工した[大丸藤井セントラル(写真下右図)]です。この前身の[大丸ビル]には創立当初の[HBC北海道放送]の本社もありました。
西3丁目の南角にある[ラ・ガレリアビル]です。このビルの1-2階にはスウェーデンに本拠があるカジュアル衣料品店、H&M(ヘネス・アンド・マウリッツ)が2013年オープンしました。。(写真下左図)。
このビルの前に設置されている彫像(写真下右図)は、1995年に制作した松本純一氏の作品[元気地蔵]です。
写真下左図は、南1条通で開拓使時代は[渡島通]と呼ばれ、札幌本府(現在の札幌市)建設の原点となった場所です。
丸井今井の前を東に進むと、札幌の原点でもある[創成橋]がありますが、丸井の斜め向かいには札幌の文化遺産でもある[秋野総本店薬局]があります。
現在の[創成橋]です。創成川の公園化工事のため雑然としていますが、この橋は歴史的にも由緒のある橋です。
創成橋は明治2年に架けられましたが、当初は丸太を並べ板を敷いただけの橋でした。現在の橋は明治43年に建設されたものですが、下部の構造はモダンなアーチ型で上部は純日本風の美しいデザインが施され、両側の高欄には擬宝珠が取り付けられていました。この擬宝珠は江戸時代は藩主のみが橋につけることを許されていたという格式の高いものだそうです。創成橋の擬宝珠も長年の風雪で無惨な状況になりましたが、その復元の要望に応えて昭和53年から復元作業が行われました。この橋も当初は[佐宇勢以橋]と呼ばれていましたが、そのご[創成橋]に改称されたようです。
最初の[創成橋]
所蔵 北大付属図書館
[札幌建設の地碑]
この[碑]は、開拓判官島義勇が札幌の街造りの基点を定めた場所を残そうと建立されたものです。場所は南1条東1丁目の創成橋袂です。この碑は、関敏の制作で、高さ1,4メートル、スエーデン産の黒御影石を使い球状の上に東西南北を表徴する様にモチーフされています。台座は当時の札幌市長原田与作の書で次の様に書かれています。[この地は、銭函から千歳に抜ける道と藻岩山麓を通り篠路に行く道路の交差点に当たり、明治2年11月10日、開拓判官島義勇石狩大府の建設をこの地から始めた。今日の札幌市はこの付近を基点として発達した]。
[創成橋]を渡り東に進んだ南1条東4丁目に[随筆家森田たま生誕地]というパネルがあります。パネルには彼女の経歴が記されています。
[森田たまは、1894年(明治27年)12月19日札幌市南1条東4丁目で生まれました。札幌女子尋常小学校(北1条西4丁目現在のグランドホテルの一角)に入学、庁立札幌高等女学校を中退して明治44年に上京し大正2年に小説家として出発しました。昭和11年には、[もめん随筆]で、随筆家としての地歩を築き[現代の清少納言]と称されました。小説[石狩少女]は、青春自画像を書き綴った小説として有名です。また、森田さんは昭和37年から42年まで参議院議員として政治の世界でも活躍されていました。
1970年(昭和45年)10月31日東京で死去されました。享年75歳でした]。
西4丁目ロータリーです。です。正面に見えるビルが[4丁目プラザ]です。
札幌の市電の原点は[馬鉄]ですが、1918年(大正7年)開催された[北海道開道50年記念博覧会]が市電誕生のきっかけとなり、1927年(昭和2年)12月1日、民間から市に移管され市電としてスタートしたものです。市内各方面に張り巡らせていた路線も地下鉄の開通とともに姿を消しましたが、2015年12月にはススキノー南1条間の延伸によりループ化され、ススキノー南1条間の路線は歩道沿いに敷設されまたこの間に[狸小路停留所]が新設され地区の活性化が期待されています。
南1条通は、札幌本府建設の原点であったため、今井呉服店(現在の丸井今井)を始め秋野総本店、富貴堂、などの店舗が軒を並べていましたが、この写真の建物も歴史を今に留める文化財の一つです。
札幌開拓の先人として四翁の一人として挙げられている水原寅蔵は、大果樹園の経営でよく知られていますが、開拓使の住宅建設にも大きく貢献し、明治9年に現在の南1条西4丁目に西洋風の家屋と石倉を建築して、民間における住宅改良のさきがけとなりました。写真は、現在の状態ですが石倉のみが現存しています。この家屋は当時としては大変立派な家屋で、札幌における貴賓の宿泊所
として使われていたようです。この石倉を始め周辺は石倉づくりの建物が多かったようですが、詳しい事はよくわかりません。
次の写真も文化遺産に指定されている建物のひとつです。
写真は、さっぽろふるさと文化百選に選定されている[旧藪商事ビル]です。近代都市札幌の中央、南1条西13丁目に周りを大きなビルに囲まれながらクラシックな姿を留めています。このビルは1921年(大正13年)建てられた鉄筋コンクリート造り3階建ての建物で、札幌で最初に建てられた鉄筋コンクリート造りのオフイスビルの先駆けで現存する数少ないビルの一つだそうです。
札幌の中心である南1条西8丁目に鎮座している[三吉神社]です。この写真は春先の雪の残っているシーズンに参詣した折のものです。都心の真ん中にありながら今も地域の守護神として市民に安らぎを与えてくれる[三吉神社]は、[さんきちさん]と呼ばれるように札幌市民の心のふるさと的存在でもあります。この神社は明治11年5月、秋田県人の木村藤吉さんが秋田の三吉神社の分霊を札幌の母なる川[豊平川]の東詰に奉齋し、5月8日を例祭日としましたが、その後明治12年に現在の札幌市中央区南1条西8丁目に遷座したものです。この年から毎年8日が例祭日でしたが、この日は毎年雨が多いことから大正13年からは例祭日を現在の15日に改められました。この三吉神社には[大己貴神][少彦名神][藤原三吉神]等の神々が祭られており地域の守護神として崇められています。札幌市民の間では[三吉さんが雨の時は札幌まつりは晴れる]反対に[三吉さんが晴れの時は札幌まつりりは雨]という言い伝えがあるようです。