南1条通から南に進むと途中に狸小路を横切りすすきのの交差点(ススキノロータリー)に出ます。地下鉄南北線の大通駅の次の駅は[すすきの]です。
夜のとばりが降りる頃にはすすきのに訪れる人々で雑踏する繁華街も、日中は人通りもまばらで閑散としています。写真下左図は[ラフイラ]で、旧ヨークマツザカヤの跡店舗です。[ヨークマツザカヤ]は、1974年札幌でオリンピツクが開かれた後[札幌松坂屋]としてオープン、その後[ヨークマツザカヤ]と名前が変わりましたがすすきのに誕生した地域のデパートとして長く親しまれてきました。このデパートが営業不振のため2009年1月18日閉店し、新しいテナントビル[ラフイラ]に替わりました。
すすきの停留所です。此処から南1条の間がループ化されました。
この交差点がすすきの歓楽街の入り口です。写真は、中島公園入り口に繋がる駅前通です。夜の世界では見られない静かな街の顔です。
歩道に設置されている彫刻左から[おだやかな直立]
[午前10時の会話][あつちこつち][上機嫌な星]
駅前通を挟んで南4条から南6条間の東西数丁は飲食店ビルが処狭しと立ち並び、駅前通はビルが整然と立ち並んでいるものの、小路に入ると雑居ビルも多く雑然としたロケーションを広げています。南5条界隈。
日本でも有数な歓楽街[すすきの]では、年間を通じて様々なイベントが繰り広げられていますが、昼と夜では街の様子は一変しています。(すすきのまつりの一齣より)
狸小路の由来
狸小路の発祥は道都として札幌が建設された明治初期にまで遡る。北海道の中心都市として急激な開拓が進められた札幌では、商工業者の移住も盛んで、1871年には南1条から南3条にかけて、210戸の町並みが形成されていたと言う。1873〜4年頃には、男をたぶらかして金を儲ける女達、所謂白首(ごけ・売春婦のこと)が多くなり、一帯は[白首小路]と呼ばれる様になっていた。男をたぶらかす、化かすことから、やがて[狸小路]と呼ばれる様になった。当時の狸小路は[白首]と呼ばれる売春宿、落語家による[寄席]、そして明治のスーパーマーケットとも言うべき[勧工場]の三つを大きな柱として形成されていた。
記録によると狸小路は戦前は200軒以上の商店が軒を連ねていたが、戦中転廃業が進み敗戦直前にはその数も6〜70軒を数える様な状況であった。加えて戦後の1945年7月には1丁目、4丁目、9丁目、10丁目などが強制疎開の対象となる等、狸小路は闇市と化し、多くの露天商が出現して[青空市場]と呼ばれるようになっていた。その狸小路も1946年から47年にかけて戦中転廃合したり休業していた店舗も続々と再開し始めた。1947年11月18日には札幌狸小路商店街商業協同組合も設立され、商店街の活性化に向けての努力が払われた。(狸小路のホームページ引用)
狸小路5丁目には、昭和48年(1973年)建てられた本陣狸大明神社(通称 狸神社)があり、ここの狸には八つの御利益があると言われています(狸地蔵八徳)。狸小路を行き交う客がお参りする姿が見られます。
[写真左]は[PONSA]です。
狸小路の6丁目の角には、流政之さんの作品が建立されています。彫刻には[PONSA]と刻まれています。ユーモアな姿が行き交う人の笑顔を誘っています。
[写真右]は、[楽聖梁田貞先生]像です。
札幌中心部小学校の統合で新しく生まれた[資生館小学校 南4条西7丁目]のグラウンドの一隅にこの像が建立されています。この像は、札幌が生んだ天才作曲家梁田貞先生です。先生の作曲した[どんぐりころころ][城ヶ島の雨][沖の小島]等々は、不滅の名曲として今も多くの人々に歌われています。この像の隣には、[どんぐりころころ]の五線譜を刻んだ副碑があり、裏面には先生の年譜が書かれています。