平岸通 1(平岸・澄川)


[平岸通(別名平岸街道)]は、1871年(明治4年)開拓使が仙台藩士を入植させるため、当時の平岸(アイヌ語でピラ・ケシ・イ)の原始林の中に約2.500メートルの道路を開削したのが始まりだといわれています。
現在国道453は、[豊平橋]を渡ってほど近い豊平4-3から右折して国道453に変わりそのまま伊達市まで122.4キロ続いていますが、その内の豊平6条5丁目(南大橋を渡り菊水旭山公園通を進んで国道453と交わる地点)から、南区の石山2条6丁目(国道230と交わる地点)までを[平岸通]と呼んでいます。[平岸通]は、平岸の中心部を抜けると平岸3-15付近で右に分岐して国道453と[平岸通]に分かれます。[平岸通]は、地下鉄の路線と並行しており、[中の島]に続いて[平岸][南平岸][澄川][自衛隊前]そして終点[真駒内]となります。

[平岸通]に入ると道路沿いに[北海学園大学]の豊平キャンパスがあります。地下鉄東豊線の学園前駅にも直結しています。北海中学として開校して以来永い歴史の中で札幌商業学校の開校、北海学園大学の開校へと大きく発展し、現在では北海道における私立総合学園として未来に大きく羽ばたいています。その基盤を築いたのが浅羽 靖です。北海中学の創始者の一人である、浅羽 靖は、1854年(安政元年)大阪で生まれその後上京して大蔵省に勤務しましたが、1883年(明治16年)租税局函館出張所を 振り出しに根室県、北海道庁の幹部を経て1886年(明治19年)には札幌区長に就任しました。区長時代は拓殖銀行の創設を始め産業の振興に大きな貢献を果たしています。併せて教育の重要性から中学教育に情熱を燃やし北海中学の発展に多大なる功績を遺しています。浅羽 靖は、1914年(大正3年)10月、61才の生涯 を終えられました。現在の北海高校の正面玄関前に胸像が建立されています。

北海学園大学浅羽 靖像浅羽 靖胸像

写真下左図は、北海学園大学前を走る[平岸通]です。この通は1873年(明治6年)道路の中央に精進川から水を引く用水路が設けられましたが、1961年(昭和36年)道路拡張のため用水路は廃止されました。そのため当時の平岸通を現在と比較すると今昔の感を強くします。写真下右図は地下鉄開通で発展目覚ましい澄川駅周辺の様子です。

北海学園前の平岸通澄川駅付近の平岸通

北海学園の前の[平岸通]を南に進みます。右手には、かっての[ホップ園]の跡地に再開発された住宅団地[木の花団地]のマンションが連なり、道路沿いには、大型商業施設、病院、マンションなどが近代的な装いで続いています。
この道路と並行して地下鉄と南北線も走っており、[南平岸駅]を過ぎると高架に変り[澄川駅]は、[平岸通]の真横になります。[南平岸駅]と[澄川駅] の中間に[天神山(84.9メートル)]があり、このやまを中心に[天神山緑地][三吉神社][相馬神社]などがあります。



天神山緑地庭園[天神山緑地]は、札幌市の豊平区平岸にある、標高85メートルの[天神山]にあります。平岸と言えば札幌でも歴史の古い街ですが、かつてはリンゴの栽培地としても全国的に有名でした。この緑地は面積が64178uあり、緑地内には、日本庭園、梅林、など自然に恵まれた景観を誇っています。リンゴ園の面影を残す句碑、記念碑などもあります。
天神山緑地は、平岸通に面していますが、地下鉄南北線の[南平岸駅]と[澄川駅]の中間点に位置しています。緑地の入り口は鬱蒼たる樹木に覆われ、緑地の姿を見ることが出来ませんが、この木立の下を進むとなめらかな坂を登り広々とした緑地に到着です。都心の中の森林公園の趣です。写真左図は、緑地内にある日本庭園です。典型的な日本庭園で、滝から流れ落ちる水しぶきが静かな庭園に木霊する様です。しっとりとした佇まいの中で滝の躍動感が庭園の持つ景観を生き生きとしている思いに駆られます。日本庭園全体を覆う木々が色鮮やかなコントラストを描いています。四季折々にとりどりの色で彩られた美しい景観が楽しめます。

林檎園日記碑[林檎園日記]
この碑には、林檎園を経営する一家の作業の姿が描かれています。この戯曲の舞台となったのは[安部林檎園]で、3(代)にわたって続けられてきた林檎園が書かれています。

札幌平岸林檎園記念歌碑[札幌平岸林檎園記念歌碑]
現在の豊平区平岸にある[天神山l緑地]周辺は、かつての名高い林檎園でした。この碑には[石狩の都の外の 君が家林檎の花の散りてやあらむ]と刻まれています。この歌は石川啄木の作ですが、啄木は明治40年9月に僅か2週間札幌に滞在しています。歌の中に出てくる[君]は、啄木が函館時代知り合った[橘 智恵子]だと言われています。彼女の実家は元村(現東区)で果樹園を経営していました。




地下鉄南北線[澄川駅]から徒歩10分の場所に[相馬神社]があります。この地区は平岸でかつては[林檎]の生産地として名を馳せた場所です。神社の有る場所は[天神山緑地地帯]で、自然保護林として指定を受けている地帯です。平岸街道(かつての本願寺道路)から本殿まではかなり勾配のきつい坂道を登らなければなりません。
この神社は、明治35年1月に福島県相馬郡太田村にある相馬太田神社の御分霊を奉還し、当時の札幌郡豊平町5番地に仮神殿を設けたのが始まりです。その後明治42年に本殿が落成しましたが本殿は豊平町平岸村47番地でした。現在地に移転したのは大正5年8月1日です。この神社には、天之御中主大神が祀られています。この神様は、万物生命守護神として崇められている神です。

相馬神社参道相馬神社社殿

相馬神社から平岸街道を更に北進すると左手にこんもりとした森が姿を現し、道路沿いに神社の鳥居と石柱が見えます。石柱は2本建立されており、向かって左手は[平岸天満宮]右手は[太平山三吉神社]です。この石段を登った処に二の鳥居がありこれを潜り抜けると拝殿が鎮座しています。この天満宮には、主神として[三吉霊神][菅原道真公]、配祀として[十二山岳之神]が祀られています。

平岸天満宮平岸天満宮社殿

札幌の地下鉄南北線[南平岸駅]から[真駒内駅]までの4.5キロには、写真左図のように雪から護るためアルミ合金のシエルターで覆われています。これは世界でも唯一つの構造で札幌地下鉄の特徴の一つに挙げられています。地下鉄の開通は沿線の開発を急速に高めましたが、澄川地区も大型商業施設が立ち並び地域の活性化が進んでいます。

地下鉄南北線シエルター地下鉄澄川駅前通

写真左が[本願寺街道起点碑(伊達)]、右が[本願寺道路終点碑(平岸)]です。
国道230号は、かつての[東本願寺街道]です。この道路は、明治政府の許可のもと[東本願寺]が事業に着手する事となり、1870年(明治3年)現如上人に率いられた一行が7月に函館に上陸し、北海道で4本の道路の開削を行いました。その内の一つが、尾去別(現在の伊達市長流)から札幌市の平岸までの130キロに及ぶ[東本願寺街道]と呼ばれている道路です。[この難工事は明治3年(1870年)7月、尾去別より起工し翌明治4年(1871年)10月平岸の終点までを1年3ケ月という短期間で完成した。総工費は18.057両(約2億円)、延人夫55.000を要した難工事であった。当時東本願寺と徳川家の関係が深いことから朝廷派が東本願寺を排除しようと考え、本願寺は反意がないことを誓書として提出し、この代償として道路建設を出願し新政府が許可した]。と、記録に残されています。


[澄川駅]前を更に南進すると澄川4-7[自衛隊前駅]です。平岸通を挟んで前方は広大な自衛隊の駐屯地です。
写真右図のように精進川は、平岸通の下を通って駐屯地の側を流れています。澄川駅に隣接して高架を利用して[札幌交通資料館]があります。資料館の屋外展示場が写真下段の左図です。資料館の内部展示室には札幌の交通の歴史が一堂に展示されています。

地下鉄自衛隊前駅精進川

札幌市交通資料館屋外展示場交通資料館入り口