[石山通]を進み川沿地区に入ります。川沿1-1あたりで道路が分かれ右手の進入口に[藻岩観光道路]の標識があります(写真下左図)。下右図は、山手に進む道路です。
下左図は、このあたりの[石山通]から眺めた[五輪大橋]です。この通が[五輪通]で地下鉄真駒内駅に接続するバスの路線になっています。[石山通]を少し進むと中の沢川に架かる[中の沢橋](写真下右図)です。
橋を渡って少し進むと[石山通]と、[五輪通] の交差点です(写真下左図)。写真下右図は、[石山通]のアンダーパスで、これの完成によって交通渋滞は大幅に改善されています。
写真下左図は[五輪通]で、[石山通]から右折して磐渓方面に繋がります。この川沿地区から北の沢、中の沢、南の沢一帯を藻岩地区と呼んでいます。北の沢は、かつては[四号沢]で、中ノ沢は[五号沢]、南の沢が[八号沢]と呼ばれていました。この地区の開拓が始まったのは明治5年に発見された硬石山での札幌軟石の発掘が始まりですが、昭和16年に札幌市と円山町(現在の中央区円山地区)が合併するまでは古い沢号に因んで[八垂別]と呼ばれていましたが、明治6年にこの地区の山林が官林に指定され、[北の沢]は、明治10年から山鼻屯田の公有地に、又、明治28年には[中の沢]は、琴似屯田の公有地となりました。現在北の沢、中の沢共に新しい住宅地として発展を続けています。
写真下右図は、[石山通]沿いの銀杏の並木です。丁度黄葉のシーズでした。
このあたりは、大型ビルが立ち並んでいます。下左図が[中村記念南病院]、下右図が[ホテルAPA]です。この間には、[藻岩高校]もあります。バス停は[藻岩高校前]です。
藻岩神社 北の沢神社
札幌市の南区には多くの神社があります。移住民が各集落ごとに神を崇め祠を建立したものが現在も引き継がれています。写真下左図は
[藻岩神社]です。[ホテルAPA]から右折して山の手に進むと小高い丘陵地帯に住宅が整然と立ち並び、目を点ずると藻岩山を間近に見ることが出来ます。このあたりは南区川沿4条5丁目です。この道路沿いに[藻岩神社]の門柱が建てられています。神社の敷地の裏手は鬱蒼たる山林です。この神社の歴史は古く最初は、八垂別本通番外地にあり、明治29年[大山祗神]を祀ったのが始まりで、[山の神社]と称していました。その後明治37年5月に社殿を建立し[倉稲魂神]を合祀して[本通神社]と改称しています。その後昭和20年には[藻岩神社]と改称し、昭和45年に現在地に移転いたしました。また、写真下右図は[
北の沢神社]です。道路脇に一際目立つ鳥居が建っていますが、鳥居の奥に祠がひっそりと佇んでいます。祠と鳥居のアンバランスな取り合わせです。道路脇には[北の沢会館]があり、ここもかつては神社の境内だつたのでしようか。私有地の中に建てられた神社で開発が進み境内が住宅地に変わり現在のような姿になつたのかと推測しています。この神社は、明治40年に開拓の先人である丸藤米蔵氏が故郷の山形から八幡神社の御分霊を奉戴したことに始まるようです。御分霊は、昭和15年にこの神社に奉祀されました。祭神は八幡大神です。
中の沢神社 札幌南沢神社
写真下左図は
[中の沢神社]です。藻岩地区の[北の沢]と[南の沢]の中間に位置するのが[中の沢]で、かつては[五号沢]と呼ばれていた地域です。鳥居の奥に小さな祠が建てられています。この神社は、明治28年山鼻屯田兵森万蔵が給与地として下付された地に標柱を建てて山の神を奉祀したことに始まります。祠の階段手前右下に、[山の神碑]が建立されています。この碑には[山の神社 講八垂別五号沢]と刻まれています。その後明治32年に小祠を建てて[山の神社]と称していました。現在地に移転したのは昭和55年です。この神社には祭神として、山の神、豊受大神、猿田彦命が祀られています。
写真下右図は
[札幌南沢神社]です。バス路線の南沢4条3丁目の停留場側に[南沢神社]があります。この神社は、明治27年この地に入植した袖森長八が札幌三吉神社の御分霊を拝受して小祠を建てたのが始まりです。当時は[南沢三吉神社]として祀られていましたが、大正2年に麻田小興門が私有地を寄付して12坪の社を建立しました。現在の社殿は昭和50年に造営されたもので、社殿も立派で境内も整備されたすがすがしい雰囲気の社です。ここには、三吉大神、大己貴神、菅原道真公が祀られています。
写真下左図は
[東海大学ラベンダー畑]です。キャンパスは、藻岩山の南側にあたる小高い丘陵地帯にあり約48万uの敷地を有しています。この敷地に[ラベンダー畑]があります。東海大学では2002年から3ヶ年計画で[ラベンダーキャンパス化計画]を実施してきましたが、この計画に基づき約3600株のラベンダーが植栽されています。
写真下右図は
[ラベンダー発祥の地碑]です。この銘板には大凡次の様に記されています[ラベンダーの原産は南フランスで昭和12年曽田正治氏がその種子を入手し3年間の試験栽培の後、昭和15年に南沢農場を開設し日本で初めて本格的なラベンダーの栽培を行った。この貴重な事実を顕彰しラベンダーを南沢のまちづくりの象徴とするためここにその由来を標す]。
[石山通]を更に進むと、川沿10-2で[中の沢南沢通]と交差します。写真下左図は[石山通]です。[中の沢南沢通]から藻南公園藻南橋に左折する角に[ウエルカムゲート]と称した下右図の様なモニューメントがあります。案内板には次のように書かれています[このモニューメントは札幌軟石で造られた倉庫群の屋根の形をもちーフとしたもので、軟石の美しさを後世に伝えたいとの願から造った]。
[中の沢南沢通]を進と[藻南橋]です。[藻南橋]は、豊平川の激流部にある[藻南公園]の上に架けられた橋です。 写真下右図は、藻南橋から見た豊平川の下流です。
[藻南橋]を渡ると左手が[藻南公園]です。
[藻南公園]はかつて[おいらん淵]と呼ばれていましたが、昭和24年に現在の名前が付けられました。ここは豊平川の中流でこのあたり一帯は、今から約3万2千年前に支笏火山(現在の支笏湖)から流れてきた軽石流がここで止められたと言われています。その為か川の一方は札幌軟石の断崖が続き雄大な景観を描いています。また、川幅も広く深い淀みが出来激流が渦を巻いています。公園には[おいらん淵]の由来を記した案内板があります。
゜石山通]を定山渓温泉方向に進むと、[石山][藤野]地区と硬石山の山並みとの間に広がる集落が[白川]です。このエリアは、路線バスもなく非常に辺鄙な場
所で、[白川浄水場]の建設で開発が進められましたが、その他には是と言った建物もありません。写真下左図が
[札幌市北方自然学習園学習館]の建物です。この学習園は、市民の教育・文化の向上に資する事を目的に、約5ヘクタールの敷地に[体験農場][観察 林][学習館]等が整備されています。かってはここに白川小学校がありましたが、1976年(昭和51年)藤野小学校に併合されその跡地に建てられたものです。写真下右図は
[白川神社]で[札幌市北方自然学習園学習館]の裏手の丘の上にあります。この神社は、1919年(大正8年)9月にこの地に入植した人達によつて[稲荷神]を祭祀したのが始まりで、現在の社殿は1986年(昭和61年)に改築されたものです。
写真下左図は、神社の境内から藤野地区を俯瞰したものです。また、神社の境内から正面に藤野のスキー場が目に飛び込んできます。正式には[札幌市藤野野外スポーツ交流施設Fu'S]です。冬はスキー場として[ダイ ナミツクコース][マイルドコース][クリスタルコース][ロマンスコース][フアミリーコース]等6つのコースがあります。多くのスキーヤーが訪れるスキーのメッカでもあります(写真下右図)。
藻岩地区から定山渓に向かって進むと[藤野]地区です。かつての定山渓鉄道沿線は現在住宅地として大きな発展を遂げていますが、幹線から旧道に進むと
[札幌藤野神社(写真下左図)]です。境内には、
[藤野開基百年記念碑(写真下右図)]が建立されています。この石碑は、昭和58年に建てられたものですが、[藤野]という地名は昭和19年の字名改正で付けられたもので、以前からあった[藤の沢]と[野々沢]の頭文字から藤野となりました。この地方の開拓は、石狩の大漁師が船を造るための木材を切り出した事から始まりました。その後篠路屯田兵村の公有地となり開拓が進められました。現在の藤野地区は都市基盤の整備も進み一大住宅地として発展を続け、[石山通]沿いには大型商業施設も連なり近代化が進んでいます。階段を登ると第一鳥居があり、その奥に第二の鳥居があります
[石山通]も[簾舞]が最終地点でこの後は国道230号です。簾舞地区に入ると[石山通]とは別に簾舞小学校前を定鉄路線バスが走っていますが
[花岡神社]は[簾舞小学校前]停留所の直ぐ側にあります。写真下左図は[花岡神社]で下右図は
[花岡公園]です。
神社の石段を登ると境内の奥に社殿が鎮座しています。社殿は、神明造りで11.8坪です。ここには[大己貴神][応神天皇][大山祇神]が奉斎されていますが、創建は、1882年(明治15年)で、前身は[八幡神社]と称していたようです。現在の社殿は、1968年(昭和43年)に改築されたものです。
[簾舞]は、黒川清五郎さんが最初の入植者で、入植当時は、旧豊平町大字平岸村字ミスマイで、[簾舞]は、アイヌ語で[ニセイオマツプ(渓谷のある川)]と呼ばれていましたが、1872年(明治5年)漢字で[簾舞]と表示されるようになりました。
[花岡神社]のバス路線上に
[旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)]が静かに佇んでいます。この建物は、1871年(明治4年)に札幌-有珠間に通ずる[本願寺道路]が開通された事に伴い、翌1872年に旅行者や開拓者の休憩、宿泊の為に設けられたもので、開拓使は、当時函館軍川(いくさかわ)の通行屋であった黒岩清五郎さんを簾舞通行屋に指名して移住させました。現在札幌市指定の有形文化財です。