[月寒通 1]の続編です。地下鉄東豊線も[福住]が最東の駅です。地下鉄の開通で福住地区も急速に発展し、大型商業施設を始め大型マンションも群立して街並みが一変しました。特に札幌ドームでプロ野球の公式戦が行われる当日の福住駅は異常なラッシュ状況です。写真下左図は[月寒通]の福住駅前です。写真下右図は、札幌ドームに向かう歩道から溢れんばかりの人の波です。[福住駅]を境にして[静]と[動]といった趣です。
[八紘学園]
[月寒通]の福住駅前から少し札幌寄りに戻り北側の路を進と[八紘学園]です。60ヘクタールの耕地が広がる広い学園には実習農場を始め、菖蒲園、養鶏場などが点在しています。写真下左図は、牧舎です。この牧舎を見ていると、北大のモデルバーンの牧舎を連想します。古いこのスタイルがかっての牧舎のモデルだつたのかも知れません。下右図は、[サイロ]です。かつての[吉田農場]があった時代に建築されたもので最初は1基でしたが昭和18年に2基になりました。スケールも大きく重厚感を感じます。
左図は、
[八紘学園北海道農業専門学校]です。昭和5年に八紘学園として開校した2年制の農業専門学校です。
園内を流れるラウネナイ川には[菖蒲橋]と「あやめ橋」が架けられていますが[あやめ橋]は北海道にゆかりの深い三笠宮殿下が命名した橋として知られています。
写真下左図は、この敷地内にある
[栗林記念館]です。この洋館は1907年(明治40年)に月寒地区の開発功労者である、吉田善太郎氏の別宅として建てられたものですが、1933年(昭和8年)、八紘学園の創始者である栗林元二郎氏が購入して現在地に保存されているものです。写真下右図は[庭園]です。[栗林記念館]はこの広い庭園の中にありますが、庭園は[栗林石庭]と呼ばれ、邸の入り口から様々な形をした石が配列されています。
[栗林石庭]と隣り合わせに
[菜洗神社]があります。この神社は、江戸時代[菜洗(現在の千葉県市川市)に在住の旧拓銀頭取岡田信氏の敷地内にあったものを昭和15年に八紘学園の園長が引き取り現在地に移したものだそうです。
社殿の前に対で設置されている狛犬は大変精緻に作られている芸術的にも価値の高いものだと言われています。
[八紘学園]の構内から[ラウネナイ川]沿いの林道を進と月寒東4-15に
[じんぎすかんクラブ]があります。八紘学園の創立者である栗林元二郎氏が、満州から野戦料理であるジンギスカンを北海道に持ち帰ったことが発祥のルーツと言われていますが、この「じんぎすかんクラブ」は、昭和28年5月30日にオープンした札幌でも[じんぎすかん]の魁ともいうべき存在です。
[札幌ドーム]
[月寒通]を進と右手に
[札幌ドーム]が姿を現します。写真下右図は、ドームの側を走る[福住桑園通]です。[札幌ドーム]は、建設費約422億円で2001.6.3日に開業した日本における唯一の完全屋内天然芝サッカースタジアムで、天然芝サッカー場移動方式「ホヴァリングシステム」を世界で初めて採用したドームです。
[月寒通]を進と月寒東1-19のバス停前(嵯峨半蔵氏牧場跡)に
[註輦之所碑]があります。
[註輦之所]碑は、月寒東1条19丁目に建立されていますが、今回の調べでこの地点が[二里塚]で、天皇が二里塚でお休みになつた記念碑であるだろうとの確証を得ました。記録によると1881年(明治14年)明治天皇が北海道に行幸されるに当たり、札幌から室蘭までの34里(約136q)に目印として1里毎に標識を建てました。この標識が[塚]で、塚の出発点は当時の[創成橋]だった様です。[二里塚]について、里塚歴史探訪会の[三里塚歴史街道)に詳しい記事が掲載されています。その中の抜粋記事です。[明治初期よりこの街道筋は発展して豊平、平岸、月寒、そして清田(厚別アシリベツ)各地に開拓か進んだ。明治14年9月2日明治天皇ご行幸 三里塚を通る街道筋は、歴史上空前の大行列を見ることになる。
大隈重信、黒田清隆等を供に、供奉人数百人、御馬車はじめ、乗馬百数十頭、馬車車輌百数十輌、人力車百輌など絢爛豪華な大行列が、この地 三里塚の街道を通った事が、今日すでに忘れ去られてしまった歴史のひとつである。明治天皇ご行幸記録によれば、小樽手宮より札幌間は鉄道(明治13年開通)義経号にてご到着、 明治14年9月2日札幌(豊平館)発午前七時・月寒(二里塚)御野立・三里塚を通る・野幌(大曲中学校前庭)御野立・島松ご昼食(中山久蔵御書行在所)・漁御野立・千歳着午後四時二十分当時は、坂があり上り下り、曲がりくねった道で札幌千歳は、一日が掛りであった。なお記録によれば 「二里塚御駐輦所」(月寒バスターミナル向)地域が月寒村で戸数七十八、人口三百九十]。
写真下左図は[月寒通]沿いにある[北海道農業研究センター]への入り口です。このあたりは[羊ケ丘]と呼ばれていますが、1919年に[月寒種羊場]が設置された事に因んで付けられたようです。この地帯は、国の研究機関が集約されていますが、入り口から先が見えないぐらい続く巨木の並木道は素晴らしい景観で、広大な構内はまさに北海道らしい雄大な風景です。写真下右図のように構内からは[札幌ドーム]の全景を望むことが出来ます。
月寒地区を過ぎると[月寒通]は、清田地区に入ります。清田区は、平成9年(1997年)11月4日豊平区から分区した新しい区です。清田という地名は、昭和19年(1944年)字名改称の際、美しい清らかな水田地帯という意味で名付けられました。清田区の中心部はかつて「あしりべつ」と呼ばれていました。明治6年(1873年)に月寒開拓団の一員であった長岡重治が「あしりべつ」へ居住したのが最初の入植と言われています。[あしりべつ]は、厚別川(あしりべつ川)を指すアイヌ語から生まれた名前で、[アシリ・ベツ](新しい川)、[アツベツ](オヒョウダモ(木の一種)のかわ)など種々の説があるようです。
[清田緑地]
[月寒通]の北側に位置する
[清田緑地]は、[清田第二特別緑地保全地区]に指定されており、この緑地の裏側を
[北野通]が走ってます。写真下左図は、バス停[清田小学校]から[清田区民センター]に通ずる道路です。この道路から緑地には木橋が数か所架けられ(写真下右図)、生い茂った林の中では様々な樹木が繁茂して四季折々の草花が見られるそうですが、春の[ミズバショウ]の群生は特に一見の価値があると言われています。
[あしりべつ郷土館]は、区民センターの2階にあります。[あしりべつ郷土館]は、平成14年1月に清田区民センターの新築にあわせて現在地に移転しました。展示室には様々な開拓時代の生活用品、農業用品などが展示されていま
すが、右図のような当時の生活空間を再現したセットなども目を惹きます。
[厚別神社]
写真下左図は、
[厚別(アシリベツ)神社]の全景です。神社の正面から見ると二段の石垣に囲まれた小高い丘に二つの鳥居が望まれ、何ともいえないスケールの大きさを感じさせられます。神社の正面を走っているのは[厚別・滝野公園通]です。札幌の都市化が進みこの地帯も[清田区]として新しく誕生しましたが、区役所始め多くの公共施設が集中している区の中心的な場所です。写真下右図は、[二つの鳥居]です。二つの鳥居の間は49段の階段です。ここからは境内、本殿の姿を見ることは出来ません。階段を昇りながら知らず知らずの裡に心が洗われるような清々しい気持ちにさせられます。
写真下左図は[本殿]です。本殿は、神明造りでここには次の神々が祀られています。[天昭大神アマテラスオオカミ][大山祇神オオヤマツミノカミ][倉稲魂神ウガノミタマノカミ]。この神社は、最初に入植した長岡重治が明治7年開墾地に小祠を作りましたが、その後大正6年現在地に本殿を遷座しました。現本殿は昭和45年9月に造営されたものです。写真下右図は、境内から俯瞰したものです。真下に見えるのが区役所庁舎ですが、神社の周りは公共施設や病院、大型店などが連なり、地域の中心的なエリアと成りつつあります。
[月寒通]も清田を過ぎると[里塚地区]です。この幹線道路が[月寒通(国道36号)]です。地名の[三里塚]は、1881年(明治14年)明治天皇が北海道に行幸されるに当たり、札幌から室蘭までの34里(約136q)に目印として1里毎に標識を建てました。この標識が[塚]で、従って[三里塚]は、札幌から三里(12q)地点と言う意味です。因みに塚の出発点は当時の[創成橋]だった様です。
[三里塚神社]
中央バスの[里塚小学校]停留所のすぐ前に神社の標石と鳥居がありますが、神社は、ここから住宅街を200メートルぐらい進んだ奥の小高い丘の上に鎮座しています。
小高い丘の境内は四囲を青いペンキで塗られた金網柵で囲まれています。二の鳥居と神社の標柱の奥に社殿があります。この鳥居は、2007年の11月に新たしく立て替えられました。それまでの鳥居は、オンコの木で300年の樹齢を持つ銘木で作られていましたが、長い年月で風雪に晒され老朽化したため建て替えられたものです。
境内の[三里塚神社略記]によると、1890年(明治23年)最初の開拓者である田中重次郎氏が自分の敷地内に最初の小祠を建てたのが始まりと言われています。この小祠は1897年(明治30年)三里塚の北通りに社殿を造営して八幡神社として奉斎、1954年(昭和29年9月)に三里塚神社と改称しました。現在の社殿は、1997年(平成9年)に立替造営されたものです。