札幌から室蘭に通ずる国道36号線は[室蘭街道]と呼ばれています。この国道は、1873年(明治6年)に完成した函館 - 札幌間の新道が原点で、この新道は[札幌本道]と呼ばれていました。札幌本道は、室蘭から札幌までは現在の国道36号のルートです。この[室蘭街道]の内札幌市内を走る区間を[月寒通]と呼んでいます。[月寒通]は、南4条西3丁目(すすきの交差点)を起点として豊平橋をわたり、豊平、月寒、福住、清田と続き、里塚地区が終点となります。この沿線には、幾つもの公園や、札幌ドームなどもあり、地下鉄東豊線の開通により大きく発展を遂げつつあります。
写真下左図は、南4条西1丁目から豊平橋方向を俯瞰したものです。また、写真下右図は、豊平橋から市内中心方向を俯瞰したものです。札幌の東西を縦断する大動脈である[月寒通]は何時も大変な交通量です。
この[月寒通]に架けられた現在の[豊平橋]は、初代の橋から仮橋を含めて23代目に当たります。1924年に完成した旧豊平橋は札幌を代表する建造物で、当時は、旭橋(旭川)、幣舞橋(釧路)と共に三大名橋と謳われていました。
写真下左図は、豊平橋の全景ですが、この橋の東西両岸に札幌開祖二翁の碑が建立されています。
写真下中央図は[志村鉄一碑]です。志村鉄一は、豊平川の渡し守として札幌に入植した先人の一人で、札幌開祖とも言われています。この碑は、現在の豊平橋の東岸の小公園の中に建立されていますが、この裏面には大凡次の様に記されています。[氏は信州の剣客であつたが石狩調役荒井金助の求めに応じて安政4年札幌に移住して豊平川の渡し守、駅逓を勤めた]。また、この碑の場所から約120メートル川下が氏の住居で大正9年にこの場所に碑が建てられましたが、新しく豊平橋が完成したのを機に現在地に移設されたものです。尚、この碑文は当時の北大総長佐藤昌介氏の揮毫によるものです。
写真下右図は[吉田茂八碑]です。吉田茂八も札幌開祖の一人で、碑は志村鉄一と対照的に豊平橋の西岸の小公園の中に建てられています。氏も志村鉄一と同じく豊平川の渡し守を勤めましたが、中でも[吉田堀]といわれる、現在の創成川の南3条から南6条の掘削工事での最大の功労者として名を留めています。
[遠友夜学校記念室]は、豊平橋の西岸近くの南4条東4丁目[札幌市の中央勤労青少年ホーム]の1階にありましたが現在建物が解体され跡地は[新渡戸稲造記念公園]になっています。記念室は、大通13丁目の札幌市資料館の中に移転しましたが現在は北大総合博物館に保存されています。現在この地には下記の[新渡戸稲造・真里子顕彰碑]のみが残されています。現在跡地に記念館建設の計画があり近い将来記念室も縁の地に戻ってくる事と思います。
写真は、[新渡戸稲造・真里子顕彰碑]です。この像は山内壮夫の作品です。
豊平橋を渡ると[月寒通]は、豊平地区です。かつてはこの道路上を市電が走り、定山渓鉄道の駅舎もこの通にありました。旧豊平町としての永い歴史があり古くからの寺院や商店も点在する町並みを形成しています。処で、[豊平]という地名は、アイヌ語で[トイェ・ビラ(崩れた崖)]で、豊平川の川岸の一部の呼び名から付けられたものです。[豊平神社]は、豊平4-13にあります。近くにはかつての定山渓鉄道の[豊平駅]がありました。この神社は、1871年(明治4年)青森から入植した阿部仁太郎が現在の社殿の東側に祠を建てて奉齋したのが始まりで、社殿は、1884年(明治17年9に造営されたものです。歴史のある神社だけに、ここで開かれる月1回の骨董市には毎回多くの客が押し寄せる名物イベントに成っている様です。
豊平神社の境内には、
[針供養歌碑]が建立されています。針供養は、縫い針に感謝し、裁縫技術の上達を祈る日本古来から続く行事です。この碑は、神社の近くにある、北海道文化服装専門学校が、在校生、地域の婦人会と共同で昭和36年に建てたものです。碑に刻まれた歌は、北海道の代表的な歌人であった小田観蛍さんの作品です。針をのぶる 裁ち縫ひにはげむをみなら 数々の 折れたる針をいとほしみつつ
豊平公園
[月寒通]と並行して地下鉄東豊線が走行しています。地下鉄[東豊線]は、豊平川をくぐり[学園前駅]付近から[月寒通]と並行しています。駅も[豊平公園駅][美園駅]と続き[月寒中央駅][福住駅]は、[月寒通]の下を走っています。
豊平神社の裏手で、地下鉄[豊平公園駅]の直ぐそばにあるのが[豊平公園]です。ここは旧林業試験場の跡地でそのため樹木が多く緑に溢れているのも納得です。この公園の広さは約7.4ヘクタールあると言うことです。
この公園には[森林エリア][野草植物園エリア]があり、森林エリアにはシラカバ、ニセアカシアなどの樹木が繁つていて野鳥の飛来も多くバードウオッチングとしてもよく知られた場所です。この園内にある[緑のセンター(写真下右図)]は、草花の展示室や園芸相談など園芸愛好者にとっては馴染みの深い処です。
園路のすぐ脇に[東屋]があり静かな佇まいです。園路を進むと[水琴窟(スイキンクツ)]という案内板に出会います。案内パネルを読み江戸時代の茶庭などで使用されたもので、北海道でも各地に様々なスタイルのものがあることを知りました。
[水琴窟]とは?。
囲いの中から2本の竹筒が出ており、これに耳をあてて音色を楽しむのだそうです。茶道の[侘び]と[寂び]の世界から産まれた所産なのでしょうか。 [説明パネル]には次のように書かれてあります。
[竹の端に耳をつけ目を閉じると地上の雑音の向こうに微かな琴の音のようなものが聞こえる。それは地下に埋められたツボの中に水の滴り落ちる音である。この仕掛けは水琴窟と呼ばれている。優雅な名前で英語に直訳すると水+琴+洞である。日本の伝統的な造園技術の一つであるが、まれにしか見ることが出来ない。直径50aほどの円珠形に近い堅牢なツボが伏せて地下に埋め込まれている(中略)。地下から聞こえてくる水滴の音は通常静寂な庭で観賞されるべきである。地面から突き出た竹の筒は町中の騒々しい庭でその音を聞くためにある。ツボの振動を地上に伝えるために竹筒が取り付けられている]。
説明パネルにもある様に、昔は静かな庭園でこの水琴窟から聞こえる音色を聞きながら暫し瞑想にふける、こんな風景が見られたのでしょうね。[水琴窟]は全国にも数多くあり、日本水琴窟フオーラムと言う活動法人も出来、その発見と普及に努めている様ですが、最初に発見されたのが1937年(昭和12年)という事です。北海道にもこの豊平公園の他にも札幌では[中島公園]、石狩市の[弁天歴史公園][花川造園 時崎邸]にもあるそうです。また旭川、北見、帯広などにも設置されているようです。
月寒公園
[月寒通]は[美園][月寒]へと進みます。地下鉄東豊線[美園駅]と[月寒中央駅]の中間にあるのが[月寒公園]で、
隣接して[月寒神社]もあります。[月寒公園]は、面積が222.238平方メートルもあり大変規模の大きい公園でこの
公園は明治の終わりには[千城台]と名付けられ、歩兵第25連帯の演習場として使われていました。公園入り口の案内ボードを見ると、公園内には[遊技広場][冒険広場][自由広場][ロータリーの森][記念樹の森][プール][テニスコート][野球場]などの設備があります。写真下左図は、公園の中央を流れる[望月寒川]で、この橋を渡るとボート池
です。写真中央は、公園入り口に設置されている[時計塔]です。この[カラクリ時計] のオルゴールからメルヘンテイックな音楽が流れてきます。このカラクリ時計は高さ4b50aあり、真ん中のカラクリは痩せ馬に乗ったドンキホーテイとお伴のサンテョパンサだそうです。地元の建設会社が寄贈したものです。また、右図は、木内禮智作
[壺をもつ女]で、湖面に静かに佇んでいます。
下の写真は[ボート池]ですが、遠くに[浮島]が見えます。1998年に作られたものだそうです。 この池は[ボート池]と呼ばれているように、ボートの貸し出しがありますがウイークデーの午前なのでボートを漕ぐ姿は見られません。ボートが寂しく漕ぎ手を待っています。池の周りはしだれ柳が茂り池に覆い被さっています。川面に映る木陰が秋の日に眩しく照り映えています。
[月寒神社]
かっては軍隊の街として知られた[月寒]は、アイヌ語で[チ・キサ・ブ又はチ・ケシ・サブ]で[丘のはずれの下り坂]の意味だそうです。現在の月寒はかつて[月寒村]で農業を中心として開拓が進められましたが、明治29年に陸軍の第七師団の兵営が設置されてからは軍都として知られる様なりました。近年は地下鉄[東豊線]が開通し町並みも一変していますが、この神社も地下鉄月寒中央駅から徒歩15分位の場所にあり、月寒公園に隣接する閑静な佇まいの中にあります。
この神社は明治17年に広島県からの移住者が厳島神社の御分霊と稲荷神の2柱を現在の福住に祀つたのが始まりです。その後明治33年には[西山神社]と命名されましたが、明治36年に現在の[月寒神社]に改称されました。現在の社殿等は昭和46年に竣工したものです。ご祭神としては、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、大山祇命(おおやまつみのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)が祀られています。
[月寒通]の[月寒中央駅]直ぐそばに[アンパン道路]の入り口があります。入り口の商店の脇に[さっぽろふるさと文化百選]の案内板が設置されています。此処には次の様に書かれています[明治43年(1910年)、旧豊平役場が豊平から月寒に移転したため、平岸の人々は役場の連絡道となる新道の開設を要望した。町は歩兵第25連隊に協力を要請し、翌年地元民も参加して工事が行われ全長2.6キロの道路が僅か4ヶ月で完成した。町は工事中兵士達に間食としてアンパンを提供した。これが今日の名物[月寒アンパン]である。以来この道はアンパン道路と呼ばれ地元民に親しまれている}。[月寒通]の入り口から真っ直ぐに伸びているアンパン道路は、途中で水源地通りに合流してなだらかな勾配が続きます。暫く進むと右手に[月寒公園][月寒神社]があります。更に進むと平岸街道に出ることが出来ます。写真下左図は、アンパン道路入り口、下右図は、アンパン道路です。
この道路の脇に
[アンパン道路碑]があります(写真下左図)。昭和62年12月に建立されたもので、[明治44年歩兵第25連隊兵士の労力提供と地元民の奉仕により完成]と刻まれています。このアンパン道路も2011年には建設100周年を迎えます。これを記念して平岸側にも今回新たに看板が制作され掲示されました。アンパン道路の途中に、とよひらふるさと再発見で選定された建物に出会いました。この建物は建築家倉本竜彦さんの設計による建築で昭和41年に自宅として建築され、子息の名にちなんで[たくんち]と呼ばれていました。昭和58年に増改築して現在は喫茶店として営業しています。木製の下見板を使った独特な建物です(写真下右図)。
[月寒通]と交差する[白石中の島通]の月寒東2-2にある
[つきさっぷ郷土資料館]です。、かっては北部軍司令官官邸として昭和16年に完成したものです。戦後は北海道大学の学生寮として使用されていましたが、昭和60年6月、月寒地区町内会連合会が札幌市と協定を結び[つきさつぷ郷土資料館]としてオープンし、その運営に当たっています。レンガ造りの瀟洒な建物で木立に囲まれた敷地のなかに鮮やかな彩りをみせています(写真下左図)。
資料館の前を通っている[白石中の島通]です。年輪を重ねたポプラ並木が見事な景観を作り出しています。
資料館の内部には、1階と2階に4つの展示室があります。展示されている内容の内[開拓][古文書][暮らし]に関する展示は、他の資料館と大同小異ですが、この街が軍隊の街であつただけに、第二展示室の[北部軍司令部と歩兵第25
連隊]は、かつての戦時体制を再現した特異のものです。写真下左図は[第二展示室]、右図は[第四展示室]の様子です。