第一章 北海道初の民放誕生

目次
民放創設時の北海道・札幌市の経済環境 北海道放送創設の経緯
HBCラジオ局の開局と草創期のメデイア活動 HBCテレビ局開局とマウンテントップ方式

Ⅰ 民放創設時の経済環境

北海道の経済環境は戦後我が国に残された資源の宝庫と謳われ戦後いち早くその開発 の必要性が叫ばれ1950年には北海道開発法が成立して、その実施官庁として北海道 開発庁が発足し開発計画が具体的に推し進められる等、北海道の経済再生と活性化に向 けて北海道の未来に明るい兆しが灯される時代でもありました。1952年は北海道総 合開発第一期10年計画がスタートした年です。全国土の 22.1%を占める北海道は敗 戦後のわが国に残された資源の宝庫として全国的に注目され、戦後いち早くその開発の 必要性が叫ばれる中、前述のように北海道開発法が成立し、北海道開発庁の発足によっ て開発計画が具体的に押し進められる事となりました。そして1952年4月1日の第 一次10年計画スタートと機を同じくして新しい放送メディアとしての民放ラジオ放 送がスタートしました。 まさしく北海道放送は北海道開発の一翼を担っての輝かしい船出となったのです。新し くスタートした第一期開発計画の具体的テーマーは① 開発の原動力となる電源開発 ② 道路・港湾等のインフラ整備 ③ 食糧基地の開発等であり、具体的には 16.300 ㌶ に及ぶ江別・当別・月形・新篠津地域の造田開発、根釧原野パイロットフアーム開発、水力 発電所の建設が推進されたものの当初計画した通りの実績があがらず、1958年4月 1日からスタートした第二期計画は第一期計画の反省の上に立って第一次産業よりは 第二次産業にウエイトを置いた基盤整備に力が注がれました。第二期計画に投入された 国費は1933億円と言われて云われていますが、これらの計画の中には札幌オリンピ ックのメイン会場であり、亦札幌の一大ベットタウンとして有名となった真駒内道営団 地の造成も含まれていました。このような北海道に対する開発計画、石炭産業に対する 傾斜生産方式などに加え、北海道においても朝鮮動乱後の特需ブームの影響などにより 人口の増加率も高く1947年に実施された戦後初めての国勢調査による北海道の人 口は 385 万 3 千人(全国シエア 4.9%)でしたが、1955年には 477 万 3 千人と増加 し全国シエアも 5.3%に上昇しました。この間1951年10月25日には東京・千歳 間の民間航空が再開、叉、1952年5月には北洋漁業が再開するなど経済環境を引き 上げる上でも大きな影響をもたらしました。この年11月には全国的にも有名となった 「弾丸道路(札幌ー千歳間)」も開通し話題を呼んだものです。
一方、札幌市も1922年8月1日市制が施行されました。当時の人口は127.044人、世帯数僅かに22.915戸でしたが戦後いち早く計画的な街づくりに着手した結果、戦後の1945年、 札幌市の世帯数は40.590戸、人口は224.729人と言う全国的に見ても中規模の都市を形成しました。戦前は北海道における中心的都市は港湾を抱える小樽、函館でしたが、 戦後はその経済的比重は札幌に移り札幌は北海道経済の中心地としての性格を強く滲ませる処となりました。先の記事でも述べましたが1950年勃発した朝鮮動乱は日本経済にも大きな明かりを灯し、 [特需ブーム]が巻き起こりました。この特需ブームにより1951年から1953年の実質個人消費の成長率は戦後30年を通じて最も顕著となり、敗戦直後戦前の約65%迄落ち込んでいた経済成長率は 1955年に至っては戦前水準を35%上廻る迄大きく伸長し、[数量景気]と言われる成長の時代を迎えたのです。この好況の波を受け札幌もこの頃から人口も増加の傾向を辿り、道外からの観光客の 入れ込みも増加し、札幌は北海道観光の基地としての活動にも一層の拡がりが見られました。このように発展の緒に就いた札幌の人口の増加は相次ぐ隣接市町村との合併、全国的な人口の都市集中化傾向併せて 道内産炭地からの炭坑離職者の流入などの要因が重なり、札幌の全道人口に占めるシェアは年々増大化の傾向を示し、一極集中の色合いが濃くなってきました。札幌市と近隣町村との合併の先鞭となったのは 白石村との合併でした。全村合併か或いは一部地域のみの合併かを巡って札幌、白石両サイドで検討が繰り返された結果1950年7月1日全村合併が成立しました。次いで札幌村の合併が1952年頃から 具体化しましたが、同時期篠路村、琴似町でも札幌市との合併の機運が高まりつつありました。その後紆余曲折を経ながらより具体的な合併交渉が札幌市と琴似町、篠路村、札幌村との間で進められその結果 1955年3月1日札幌市は札幌村、篠路村、琴似町の1町2村を同時に合併しました。その後合併の焦点は豊平町との合併問題でした。札幌市、豊平町両市・町の合併に対する消極的な動きに対し、積極的な 運動を展開したのが市民サイドから興った合併促進運動で最終的な合併への道程は多くの問題を抱えての連続でしたが1961年5月1日豊平町は札幌市に合併され人口も55年の426.607 人に対し623.046人と急激な人口増となりました。札幌市と最後の合併を行ったのは手稲町です。手稲町との合併は豊平町合併直後から進められ、手稲町も原則的に合併に賛成の立場を採っていました。 この機運を一挙に進めたのが1966年4月であり、冬季オリンピツクの札幌開催が決定した事がその後の交渉を加速化し1967年3月1日札幌市と手稲町との合併が行われ、札幌市は名実共に[大札幌市]として誕生することとなりました。
下記の写真は戦後昭和22年当時の札幌駅前通です。所蔵 札幌市公文書館

Ⅱ 北海道放送創設の経緯

1951年4月2日電波管理委員会は北海道放送を含む全国16社に対し第一次予備免許を交付しました。わが国のラジオ放送は1951年9月1日大阪地区での新日本放送NJB(現毎日放送)と、名古屋地区での中部日本放送CBCが 最初の電波を発射し、この後のラジオの開局状況は1951年11月11日朝日放送(大阪)、12月1日ラジオ九州(現RKB毎日放送)、12月14日京都放送、12月25日ラジオ東京(現東京放送)等、1951年末にはラジオ局6社を数えました。 翌1952年には北海道放送以下12局が開局し其の数も先発局を含めて18局に達しました。北海道放送設立の母胎となったのは北海道新聞社で、開設免許作業から実際の免許交付に至る迄の想像を絶する至難な道程は北海道放送10年史に克明に 記録されていますが、当時民放の開設を巡る国会議論の中でも民放の採算性が議論の焦点となり、大都市の民放設立計画に対しても[日本の産業界の現状を見れば、広告放送だけで放送事業を維持する収入を得ることは不可能であろう]と言う見方 が多く特に北海道における民放の採算性に関しては否定的な意見が主流でありました。これに対し当時の北海道新聞は次のように道民に訴えています。[民間人の資本で民間人が経営し、民間人がプログラムを組む北海道放送会社設立については、 色々と困難な条件があり、この点から、時期尚早の声がないでもないが、北海道が本州から取り残され、ひとり、この全国的な民間放送開始の波に遅れることは、北海道文化のためにも、その自負心と良心とにおいて、断じて許されぬ事だ]。 この主張は丁度電波三法が成立した1950年北海道開発法が成立し、これに基づき北海道総合開発第一次五ケ年計画が実施される事となりましたが、北海道は地場資本の蓄積は全く弱体であり、自立的経済活動が見られずこのまま推移すれば 民放開局も中央局の中継局設置地域として着目されその勢力圏に納めようとする動きに対し、危機感を持って北海道の自立を道民に訴えたものでした。このような経済的にも弱い北海道では独自の民放設立計画は無理であろうと見ていた中央の関係者も 多かったのも事実です。しかしあらゆる困難を乗り越えて民放を設立するとの決意が日に日に高まりゆく中、電波三法が成立し、同年10月には[放送局開設の根本的基準]により、一地域一局、他地域に跨るネットワークはこれを認めない、と言う方針 が決定しました。この段階では北海道での民放出願社は北海道放送1社でしたが、行政当局が北海道に民放1社が成り立つと判断するかどうか、懸念する理由は十分にありました。その理由は政府の北海道民放設立についての反応が鈍く、視察に訪れる 国会関係者や、電波監理委員からも明確な方針が提示されなかったからです。しかし開設の根本基準となった免許方針は北海道地区での北海道放送の開設をほぼ決定的なものとしましたが、その後資金計画の面でのチェツクにより免許審査は予断を許さない 厳しい状況となりました。資金計画と出資についての涙ぐましい展開が当時の阿部道新社長以下幹部により続けられた結果、時間切れぎりぎりで第一次予備免許獲得の条件を完備することが出来たのです。設立当初の北海道放送は、現在の南1条西3丁目の ビルにスタジオなどを設け活動を開始しました。



写真左は創立当初の本社屋     右が2021年竣工の新社屋





 HBCラジオ局の開局と草創期のメデイア活動

北海道放送は、昭和27年3月10日にラジオ放送を開始しました。此の後、昭和37年12月に道内2番目のラジオ局であるSTVラジオが開局するまでは、民放ラジオとしてはHBCラジオ一局時代が続きました。 創立時は本社は南1条西3丁目の藤井ビルに、送信所は元村(現札幌市東区)にありました。 ★ 民放ラジオとコマーシャル 北海道初のラジオ放送がスタートするまでNHKラジオ放送に永く親しんできた道民は、民放のスタートで初めて[ラジオコマーシャル]を耳にしました。民間放送は、NHKとは違って、放送に係る殆どの費用は 広告主から頂く広告料によって賄われていますが、このことは未だ一般の聴取者には良く理解されていない時代でした。一方、広告主も初めてお目見えしたラジオコマーシャルに対する理解も低く、草創期の放送局の 営業活動は、いかにして番組を提供してくれる広告主、又、ラジオコマーシャル(スポット放送)の広告主を開拓するかに大変な努力が払われました。HBCラジオの草創期は、地元スポンサーよりも既に開局中のラジオ局 で番組提供している中央スポンサーの比率が高く開局時(昭和27年)のラジオスポンサーの上位10社は、花王石けん、武田薬品、中山太陽堂、森永製菓、保全経済会、日本油脂、丸見屋、塩野義製薬、藤沢薬品、池田製菓で 、この他のスポンサーとしては、大正製薬、アジア製薬、田辺製薬、ピアス化粧品、黒龍堂、サロンパス、牛乳石鹸、ライオン歯磨、資生堂、小野薬品、ロート製薬、エーザイ等、薬品・化粧品関連スポンサーの利用度が高いのが特徴でした。 当時札幌では電柱に取り付けたスピーカーからコマーシャルを流す[街頭放声広告]が全盛時代で、[ラジオ放送]と[街頭放声]を又、[放送]が[包装]と混同されるなど、放送局の営業マンにとつては笑うに笑えない様な苦労の連続でした。 このような草創期における民放も、聴取者の高い支持を受け年と共に認知度も高まりを見せこのことによって広告主のラジオコマーシャルの利用も増え、予想を遙かに超える収入を確保することが出来る様になりました。 これには、昭和25年に勃発した[朝鮮動乱]の特需ブームも大変大きな要因となりました。 ラジオコマーシャルは、ラジオの聴取者にとっては勿論初めてですが、これを提供する広告主、広告の制作会社、ラジオ局にとっても初めての経験であり、このためよりよい[CM]を放送することが喫緊の課題でもありました。 まだまだ関心の低い地元広告主を対象に、よりよいCM作りの契機を作ろうと昭和31年から[CMコンテスト]が実施されました。これは、参加スポンサーのセーリングポイントを生かしたCMを一般聴取者から募集する企画でした。 この企画は昭和37年まで続けられましたが、ラジオコマーシャルが生活と密接したものと受け止められ、ラジオコマーシャルのその後の発展に大きく貢献しました。ラジオ草創期のCMは、簡単なストレート形式の物が主流でしたが、 年々制作手法が向上し、昭和32年のテレビがスタートした後はテレビと競り合う形でCMのスタイルが変化しています。これらの変化は特に東京、大阪市場では顕著で、中でも[シンキングコマーシャル]の全盛時代を迎え、我々にも懐かしい コマーシャルがラジオ・テレビを賑わせました。ラジオコマーシャルも、スタイルの変化と共に、2秒、10秒スポットなどと多様化し民放開局数年でコマーシャル(CM)はリスナーにもすんなりと受け入れられる様な状況になりました。 民放ラジオは、このような形で船出しましたが、聴取者からは[身近な放送][親近感溢れた放送]と大変な支持を受けましたが、広告主サイドも、民放ラジオコマーシャルは、[繰り返しの効果を徹底的に活用できる割安なメディアである]という 理解が深まり、このことが地元広告主ばかりでなく、これから北海道のマーケットを開拓しようとする中央広告主のラジオ利用を促進する原動力となりました。このためにはどうしてもより多くの道民が聴く事が出来るような放送地域(放送エリア) の拡大が必要となって来ました。 ★ 道内放送エリアの拡大 北海道放送ラジオは、出力3KWで札樽を中心とする道央圏の約24万3千世帯を対象として1952年3月10日放送を開始しましたが、同社が放送を開始した時点では既に前年の1951年、東京地区(ラジオ東京)、大阪地区(新日本放送)、 名古屋地区(中部日本放送)での放送も軌道に乗りつつあり、必然的にHBCラジオ開局時の営業環境は東・阪・名のスポンサー依存度が高い状況にありました。草創期の同社ラジオにとって永続的な経営の安定と収入の拡大を図るためには聴取率 の向上と放送エリアの拡大が喫緊の課題でした。聴取率については、北海道に初めて誕生した民間放送という事も幸いして聴取者の期待も予想以上に高く、開局1年半でNHKを抜いて優位に立つことが出来ました。伝統的なこれまでのNHKに 対する聴取慣習に対抗するためには、聴取者に主眼をおいた2ウエイコミュニケーションを取り入れた番組編成が必須との観点から、聴取者参加番組、リクエスト番組の編成に主力をおいた成果でもありました。 又、今ひとつの課題である放送エリアの拡大についても道内各エリアへの置局計画が開局早々から進められ、放送開始後の翌1953年9月には本社札幌局の出力が3KWから10KWに増力され、一方道内主要都市に対する拠点づくりにもいち早く 乗り出しラジオ放送開始の1952年10月1日には当時札幌と並んで北海道の商都と言われた小樽に放送局を開局、次いで翌1953年7月13日に函館放送局、同年11月28日旭川放送局を開局しました。叉、1955年 8月1日には帯広放送局、 1956年10月10日釧路放送局、同年10月23日室蘭放送局、同10月30日網走放送局、31日北見放送局を開局するなど放送開始数年にして北海道を縦断する放送ネットワークを完成させました。 1952年ラジオ放送開始当時には、全国的にも民間放送が経営的にも成立するか危惧される中で北海道放送もスタートしましたが、民間放送の番組がこれまでのNHKの放送とは一味違った新鮮さが聴取者に受け入れられると同時に、北海道が生んだ 自分たちのメディアと言う意識が予想以上の反響を呼びこのことが広告出稿面にも大きな波及効果を及ぼしました。この様に北海道初の民放発足以来5年間は北海道放送ラジオが道内電波広告市場を独占していましたが、この様な収入を確保出来たのは、 前述の様な道内市場に対する地域密着の営業路線強化による営収拡大と、併せて中央広告主の地方に対する販売拡大戦略が広域商圏としての北海道を重点エリアとして注目し、新しいラジオ広告がネット番組の提供などを通じて積極的な動きとなって現れて いたことによるものです。このように1950年代前半のラジオ広告費に占める道外投下広告費の比率が極めて高い事も 一つの特徴として挙げる事が出来ます。 ★草創期のラジオ番組 札幌地区で本格的な[聴取率調査]が始まったのが昭和28年12月です。この時の[高聴取率ベストテン番組]を見ると、その殆どがNHKの番組で占められ、民放番組は僅か1-2程度がランクされている状態でした。NHKでは我々にも馴染みの深い[三つの歌] [放送演芸会][のど自慢素人演芸会][今週の明星]等です。民放の番組では[平凡アワー][銭形平次捕物控]等がランクされています。処が昭和30年以降の調査では、ベストテンの殆どが民放番組で、NHKは、[三つの歌]のみがランクされている状態でした。 このような傾向は、発足後日浅い民放ラジオが、送り手と受け手の双方向性の番組作りに努力した結果、リスナーの関心が民放にシフトされつつある証左でHBCラジオも、聴取者参加番組に力をいれてきましたが、いつでも誰でも気軽に番組に参加できる 民放の気楽さがリスナーの評価に繋がった結果だと思います。昭和30年前半の民放ラジオ番組の中では[歌番組]が主流を占めていました。[私と貴方の三つの歌][のど自慢二つの歌][平凡アワー][素人ジャズのど自慢][キングアワー][スーパー十人抜きのど自慢] [歌謡学校]等々、歌謡番組のオンパレードでした。異色の番組は、HBCラジオ開局以来続けられた[アンコールアワー]で簡単にリクエストできる番組として高い評価を得ていました。これなどは、[パーソナルラジオ]の持つ特性が活かされた実例だと思います。 歌謡番組と並んで[クイズ番組]も、この時代大流行した番組です。各地域での公開放送によって地域との結びつきを強めようと始められた最初の番組が[この声百万ドル]です。昭和32年にスタートしましたが、NHKののど自慢に対抗した番組として、 全道各地からの開催希望が相次ぎました。初年度には、遠く利尻・礼文を始め道内44ヶ所で公開放送を開催しました。この公開放送は、スポンサーの地域販売促進活動にも大きな力を発揮して営業面でも大きな役割を果たしました。この事例が引き金となり、 此の後[都市対抗歌合戦]の実施に繋がるなど、新しいラジオリスナーの開拓と提供スポンサーのレギュラー化に一役買う処となりました。草創期のラジオ番組には中央から流される歌謡番組が多くありましたが、これらの番組の地方での公開録音も数多く実施 され民放ラジオの存在を高めた役割は大きいものがありました。これら公開録音所謂(公録)の中でも記憶に残るのは[ライオンジャブジャブショウ]です。この公録は、昭和32年から37年まで実施されましたが、会場となった中島スポーツセンターや旭川公会堂は、 入場整理券を持った会場内外の観衆の整理に担当する事業スタッフは勿論営業スタッフも死にもの狂いで当ったものです。最初の公演(昭和32年)は、花菱アチャコ・川口浩・小畑実・林伊佐緒・神楽坂浮子・音羽信子そして司会セシ凡太と云う豪華メンバーでした。

Ⅳ HBCテレビ局開局とマウンテントップ方式

昭和32年4月1日、北海道で最初の民放テレビ放送(HBCテレビ)がスタートしましたが、テレビ放送の開始は、ネットワーク営業を含めた民放営業のあり方を大きく変える出発点となりました。テレビ開局に際して後述する[マウンテントップ方式]を始め数々の技術面での努力と研究の成果は今日の放送革新時代の基盤であった事を北海道民放半世紀の一ページとして記録に遺しておかなければならないと思っています。 さて、放送開始時HBCテレビは、第一チャンネルで1日7時間の放送を札幌のはずれにある[手稲山]のアンテナから放送する[マウンテントップ方式]に対し、一足早い昭和31年12月22日にテレビ放送を開始したNHKは大通公園に建立された[テレビ塔]からの放送でした。北海道放送は、ラジオに続いてテレビ放送の実施を目指し、昭和28年1月30日に申請書を提出しましたが北海道でのテレビ放送を実現するには、先ず東京-札幌のマイクロ回線を完成させることが必要条件でしたが昭和31年8月に電電公社によるマイクロ回線が完成して、テレビ放送実現に向けての第一歩が踏み出されています。既にラジオ放送を開始していた北海道放送は、テレビ放送実現に向けて早くから準備を進めてきましたが、テレビ放送実現の大きな原動力となつたのは、昭和29年函館で開催された[北洋博]での実験局であったと言われています。この実験放送は53日間にも及びましたが、期間中には、北洋博ご視察に来道された天皇・皇后両陛下の函館での上陸第一歩を実況放送を行っています。その後数々の実験を経て昭和31年にはいよいよ本放送に向けての離陸体制に入りこの年の2月には郵政省の基本方針で札幌地区2局(NHK・HBC)の免許交付が確実視され、このためHBCテレビは送信所を手稲に建設することを決定して建設作業に着手しました。11月9日には、HBCテレビには第一チャンネルが割り当てられ、いよいよ放送開始が具体化されアンテナ建設の問題と合わせて、営業収入の基盤となる[放送ネットワーク]も極めて重要な問題となってきました。

この当時、中央では日本テレビとラジオ東京(現東京放送)の2局が放送を開始していましたが、北海道は北海道放送1局の時代でこのためHBCテレビは、東京(銀座七丁目道新東京支社ビル)に自社のマイクロ中継装置を設置して、東京のいずれかの局の番組もネット出来る体制になっていました。 HBCテレビは、難工事の手稲山送信所も完成し昭和32年3月1日第一波を発射し同月の9日に本免許が交付され、4月1日正式にスターとしました。
当時のスタジオは、札幌中心部のビルに置かれ、東京2局の番組に自社制作番組を加えての放送がスターとしたのです。 [HBCテレビ]は、第一チャンネルでスタートしましたが、このチャンネルが決定するまでには紆余曲折があったことが当時の記録に残されています。昭和31年1月27日に電波管理審議会は全国のチャンネルプランを提示しましたが、それによるとチャンネルは6チャンネルで、そのうちの第一と第二は米軍が使用するため、直ちに使用できないとの事でした。(北海道での米軍の使用はありませんでした)しかしHBCテレビは、当初から北海道という広域エリアをカバーするためには電波到達距離の長い第一チャンネルが必要であるとの観点から第一チャンネル獲得にむけて最大限の働きかけを行い、このことを前提にアンテナ等の工事を進め、11月3日にはアンテナ設置も完了していましたがそれから数日後の11月9日にチャンネルの発表があり札幌地区には第一チャンネルと第三チャンネルが割り当てられ、マウンテントップ方式のHBCテレビには第一チャンネル、テレビ塔のNHKには第三チャンネルが決定しました。

第一チャンネルを獲得した民放初のテレビ局は、昭和31年11月29日に予備免許が交付され、翌昭和32年4月1日の開局を迎える事となりました。 開局に先立ち3月30日札幌中島スポーツセンターで開局式とテレビ開局とラジオ開局5周年の芸能祭が開催されました。 開局日の4月1日午前10時50分に左図のテストパターンが写しだされ開局第一日が無事スタートしました。当日は東京の[KR-TV(現在のTBS)][NTV(日本テレビ)]からピックアップした番組に自社制作番組を加えた放送が行われました。

★マウンテントップ方式と手稲山
北海道放送は、テレビ放送を開始するに当たり、北海道の様な広域圏での放送には[平地式]のアンテナではなく[山頂式]のアンテナが必要であるとの基本方針を決め、昭和28年1月30日提出のテレビ局開設申請書にも札幌大通に建設されるテレビ塔の建設にも参画せず、標高1023メートルの[手稲山]山頂に送信所とアンテナを建設することが明記されていました。テレビアンテナを巡つては、テレビ塔か手稲山かの論争が繰り広げられましたが、結局同年6月9日にNHKはテレビ塔での起工式を行い、一方北海道放送は、6月27日手稲山送信所の起工式を行い、いよいよ手稲山送信所建設の難工事か開始される事となりました。

6月27日起工式を終え直ちに工事が開始されましたが、この山頂に送信所を建設する苦労は想像に絶するものがあつたと、HBC手稲OB会編纂の記念誌にはその記録が克明に記述されています。その記念誌によると、昭和31年8月10日には手稲山道が完成しましたが、この山道は幅5㍍、延長11㎞、平均勾配9.8度で、この工事に携った人員は延べ38,400人と言われています。道路が完成した後は、給水、配電などの工事がこれまた難行を極めたものの、これらの問題も解決して、最後の送信所、アンテナの建設が進められ、年末には1023メートルの手稲山の頂上には36メートルの鉄塔が完成しました。
積雪2メートルにも及ぶ厳冬の山頂に機材を搬入する作業は、ブルトーザーによる除雪作業と合わせて行われたものの、ブルトーザー自体が雪に埋もれるなど大変な苦労の連続でした。これらの難作業を終えて2月21日にはすべての機材も搬入され、4月1日の本放送の電波を発射することが出来ましたがこの手稲山アンテナ建設は歴史に残る大事業であり、現在放送各社のアンテナが林立する手稲の山頂を眺めるとき、この計画を立て艱難辛苦を乗り越えて見事完成させた先人達の功績に心からの敬意を表したい心境に駆られます。


送信所開設後の昭和33年8月31日、HBC手稲送信所構内に[完成記念碑]が建立されましたがこの碑には、この計画を先頭に立って推進した当時の北海道放送故阿部社長の感慨を込めた碑文が刻まれています。 [何がこれを完成させたか、手稲山にはリスが居り、兎が棲み熊が出没する。冬は丈余の雪が積もり寒風が吹きすさぶ。今や、この山頂には科学技術の粋を集めた白亜の殿堂ー北海道放送テレビ送信所が建ち、60メートルのアンテナが聳えている、これは世界屈指の大送信所である。(中略)これを成し遂げたものは何か。それは周到な計画、近代技術を最高度に駆使した能率的施工と担当者従業員にみなぎる不屈の精神である。](以下略)。この碑文は歴史の語り部として何時までも手稲山アンテナ建設の偉業を語り続けることでしょう。
★ テレビ局開局と受像機
民放にとって最大の経営目標は安定した広告収入の確保ですが、そのためにはより多くの人達にテレビを見ていただくことが必須条件で民放として初めて開局したHBCテレビにとって受像器の普及は経営の面からも大変大きな課題の一つでもありました。HBCテレビが開局した昭和32年4月のテレビの受像器台数は約8,000台でした。

この台数を更に増やすため、狸小路に[HBCサービスセンター]が設けられ、札幌を中心に受像器の普及に努めました。昭和35年7月30日、初期の目的を達して閉鎖されましたがこの3年7ケ月の努力の甲斐もあり、この時点での道内のテレビ保有台数は82,760と言うデーターが残されています。 この当時のテレビ受像器の価額も高額でなかなか一般家庭での普及には時間がかかりました。東京でも[街頭テレビ]でプロレスやプロ野球が放映され大変な人だまりを作りましたが、札幌でも大通公園を始め各所に[街頭テレビ]を設置してテレビのPRに努めました。

又、各市町村に巡回の[テレビカー]を繰り出してテレビ受像機のPRに努めました。テレビカーが到着すると近隣の住民を始め馬に乗って駆け付ける風景もみられました。 多くの工場などでも受像機が設置され昼休みにテレビを観る従業員の姿が見られる様になり会社にとっても従業員の福利厚生の面からも大変重要視されるようになりました。 各メーカの技術革新により価額も年々低廉化され、各家庭でも生活のステイタスの一番にテレビがあげられ、テレビ受像機は大幅に増加しました。このことは、広告メディアとしてのテレビの位置付けを高め、テレビ広告が大きく発展する原動力となったのです。
★ 道内放送エリアの拡大
昭和32年スターとしたHBCテレビ、同34年のSTVテレビ両社にとっても放送圏域を拡大して、視聴者の拡大を図ることは、メディアに課せられた責務で有るばかりでなく、営業政策面からも早急に取り組まなければならない課題の一つでありました。特にテレビ広告の大きなウエイトを占める中央広告主にとっても、発展する北海道マーケットは有望なマーケツトであり、北海道全域にわたるマーケットイング活動を進めることは企業にとっても重要な課題となりつつありました。これまでの採算性の面から出先営業拠点を設けず人的巡回に頼ってきた中央広告主の販売方法を大きく支えたのが新しく始まったテレビ広告でした。テレビ広告によって商品の認知率は高まり、このことが販売面にも反映して売り上げにも大きく貢献しつつありました。このことが、広告会社の北海道進出に拍車をかけ、テレビ放送開始後数多くの中央広告会社(広告代理店)が札幌に出先を設けて、広告主の北海道エリアでのマーケっテイング活動をフオローする役割を担っていました。 HBCテレビの道内放送サービスエリア拡大の先陣となったのは函館テレビ局で1958年(昭和33年)12月1日開局しました。 函館局に続いて開局したのが室蘭テレビ局で1959年(昭和34年)3月21日開局しました。 同年、1959年(昭和34年)12月22日旭川テレビ局が開局しました次に開局したのは小樽サテライト局です。 送信所は小樽市の手宮公園に設置され1961年(昭和36年)5月16日開局しました。これによって手稲山からの電波の届かない難視聴地域が解消されました。 釧路テレビ局は1962年(昭和37年)5月8 日から本放送を開始しました。 帯広テレビ局は1963年(昭和38年)7月27日開局しました。 この後1965年(昭和40年)9月14日には北見テレビ局、翌15日には網走テレビ局が開局し、1957年(昭和32年)4月1日の本社テレビ開局から8年の間に全道主要エリアに8局が開局して北海道内ネットワークの体制が整備される事となりました。 このような拠点都市でのテレビ局開局は、地域情報の受発に多いに貢献する事となりましたが、地域の広告主にとってもテレビのCMを限定されたエリアに流す事が可能となり地域の経済の活性化にも大きな力を及ぼす事ができました。 これらのテレビ局の開局に伴い各地方放送局はこれまでのラジオ番組の制作と併せて地域版テレビ番組の制作にも取り組みましたが、営業部門も地域スポンサーのテレビスポット利用などのプロモーション活動にも務め、商品の販路の拡大と商品のブランドイメージの向上にも大きく寄与しました。
★ テレビ開局とスポーツ番組
テレビ放送が始まり番組編成にも大きな変化が見られましたが、中でも大きな変化を見せたのはスポーツ番組でした。これまでのラジオとは違ったプロ野球やプロレスの中継はテレビに対する関心を高めテレビの媒体価値を大きく高める処となりました。 北海道に誕生したHBCテレビにとっては、特にウインタースポーツの中継は独占場と云ってもよく、どちらかと云えばマイナーと云われていたウインタースポーツをネットワークを生かして全国放送を行う事で全国的にも関心を高め、冬季オリンピックの開催後は、 道内テレピ局が全局独自のタイトルでジャンプ競技を中継するまでに至る等、ウインタースポーツに対する好感度を高める大きな原動力となっています。

HBCテレビが最初に中継に取り組んだのは開局2年目の昭和33年(1958年)の[第13回国体冬季大会ジャンプ競技]でした。この年には[複合ジャンプ][純ジャンプ]等の中継を全国中継で行い、営業的にもネットワークを含めた番組のセールスを体験し [冬季スポーツ番組の営業化]に大きな自信を得ることが出来ました。 この様な営業・制作両面の経験に基いて実施されたのが[HBC杯争奪ジャンプ大会]で昭和34年(1859年)3月4日に第一回大会を開催し今日まで継続して実施されています。 当時は昭和32年から実施されていた[HBC杯争奪全道大回転競技大会]と昭和34年からスタートした[HBC杯争奪回転競技]がHBCの三大冬季スポーツ競技として全国中継されていました。この他にも[宮様スキー大会ジャンプ競技]もあり、スキー中継 花盛りといった時代でもありました。スキー競技と並んで忘れることの出来ないものに[アイスホッケー]があります。当時北海道では苫小牧の[王子製紙]と[岩倉組]がアイスホッケーチームの双璧として君臨していました。

昭和35年(1960年)からは[HBC杯争奪王子岩倉アイスホッケー定期戦]がスタートし、毎年初を飾るスポーツ中継として定着していました。この定期戦も昭和55年(1980年)からは、岩倉チームが解散し変わって雪印チームが誕生したことから [HBC杯争奪王子製紙対雪印アイスホッケー定期戦]に衣替えしました。 雪印乳業がスポンサーとなって定期的に実施されている競技大会[雪印(現在は雪印メグミルク)杯全日本ジャンプ大会]も歴史のある競技会でHBCテレビが当初から放送を行ってきました。この大会は、雪印乳業が雪印シャンツェを建設し札幌市に寄贈した 昭和33年(1958年)から開催されていますが、昭和45年(1970年)宮の森ジャンプ競技場に会場を移して実施され昭和48年(1973年)の第14回大会からHBCテレビの放送が始まりました。 この様にテレビ開局草創期にあってスポーツ番組は営業的にも色々な意味を持つていました。全国的に余り認知されていないスキー競技を全国ネットで放送する為には、ネットワークセールスに携わる東・阪・名の営業部門は大変苦労の連続でした。 現在の全ネットワークでの放送の姿を見るとき今昔の感を禁じえません。
掲載写真 所蔵 北海道放送