第二章 テレビ二局時代と急伸するテレビメデイア

目次
札幌テレビ放送(STV)の設立の経緯 STVの開局とネットワークの再編成
皇太子ご成婚を機に変化するテレビ業界 高度成長期に支えられたテレビ広告

Ⅰ 札幌テレビ放送(STV)設立の経緯

1952年3月10日、北海道放送ラジオが本放送を開始、1957年4月1日には同 社がテレビ放送を開始しましたが、2年後の1959年4月1日、北海道で2番目の民 放札幌テレビ放送が開局しました。因みに同社のラジオ放送は 1962年12月15日 放送を開始しました。札幌テレビ放送設立の経緯は道内二局目の免許交付を目指した 様々な動きの中で最終的に同社に一本化されたものですが、「STV10年の歩み」によ れば、発行部数75万部を有する北海道新聞が 基盤となって北海道放送を発足させた事 から同業の北海タイムス社(発行部数30万部)も電波進出の機会を窺い、1957年 4月15日免許申請を行い着々と準備を進めていました、しかし当時道内テレビの新た な免許を巡っては様々な動きが進行していました。 1956年 12 月には産経新聞北海 道支社を中心に北海テレビジョン、1957年2月には東急・毎日新聞の連携によるテ レビ北海道、同57年4月には日本テレビ放送網が札幌・函館に放送局開設、北海日々 新聞(1958年1月北海タイムス社と合併) が本間興行と提携して旭川にニュー北海 道テレビの免許申請を行うなど競願状況が続いていました。しかし1957年6月19 日全国チャンネルプランが決定し、北海道は既に放送開始の NHK・HBC 二波があると の理由から新規割り当ては見送られました。 その後9月3日一部プランが修正され田中 角栄郵政大臣時代、札幌地区にも一波割り当てられる事となり競願社の一本化により札 幌テレビ放送が誕生する事となったのです。


写真左は、創立当初の同社の本社社屋(大通公園側南)
写真右は現在の本社屋


Ⅱ STVの開局とネットワークの再編成

昭和34年4月1日には、北海道地区2番目のテレビ局として、STVテレビが開局しました。この年は、皇太子のご成婚の年ですが、この年には、STVテレビを始め全国主要都市でのテレビ開局が相次ぎました。 STVが開局するまでは、HBCテレビは、中央の日本テレビ、ラジオ東京現TBSいずれの局からも番組ネットを受けられるフリーネットでした。HBCテレビが開局する前の昭和31年12月1日には、中部日本放送と大阪テレビ(現在の朝日放送)が放送を 開始していた為、これらの局ともネツトワークを結んでいました。STVが開局して、同社は日本テレビの系列下に入ったため、これまでHBCで放送されていた日本テレビの番組の多くはSTV に移る事となりました。昭和34年には、中央テレビ局として、 日本教育テレビ(現全朝日放送)とフジテレビが開局し、全国のテレビ局は44局になつています。このようなテレビ業界の背景を基盤として全国ネットワークへの動きが加速される事となります。 このような流の中て、日本テレビはいち早く全国ネットワーク構想を掲げて活動を展開していました。これに対し、ラジオ東京を中心に中部日本放送、大阪テレビ、RKB毎日放送、北海道放送が昭和35年2月25日には民放で初めての五社連盟が発足しました。 ネットワークが形成された大きな要因は、テレビの番組はラジオと違って多額の費用(制作費)を必要とする事があげられています。多額の制作費を負担できるスポンサーは限られており、そのスポンサーが制作費を負担して番組を提供するためには、全国的な 展開が必要となります。これらスポンサーの要請もありネットワークの拡大が推進されました。

Ⅲ 皇太子ご成婚を機に変化するテレビ業界

当時は、1番組1スポンサーという単独提供方式が主流でしたが、年々番組が大型化し制作費も多額になるにつれ、必然的に1番組複数スポンサーという共同提供方式 が大勢を占めるようになりました。この契機となつたのが皇太子ご成婚イベントでした。 昭和34年4月10日には皇太子明仁親王と正田美智子さんのご成婚が執り行われ、この世紀の大イベントが草創期の テレビ界に大きな変革をもたらし、今日の大きな発展の原動力となつたのです。このご成婚の模様や、パレードの模様はテレビを通じて全国津々浦々にも放映され、全国民は改めてテレビメディアの強烈なインパクトに酔いしれたのです。ご成婚に合わせるかの様に全国主要な地区に相次いで開局したテレビ局によって放送エリアは急速に拡大し、このことがテレビ受像器の保有台数の拡大にも繋がり、広告メディアとしてのテレビの位置付けを大きなものとしたのです。又、このような大イベントの制作には1局体制では無理で、このため各系列は機材、スタッフを総動員して放送に対処しましたが、このことがネットワークによる制作体制確立の道筋をつけたとも言われています。一方、広告主サイドもこの様な大型番組に単独でCMを提供するのは費用の面でも困難で、多くの広告主が同一番組にCMを提供するスタイルも生み出されました。このように皇太子ご成婚を境に、番組の編成、営業面でもネットワークのあり方を含めて大きな転換がなされることとなつたのです。 テレビ放送間もない日本経済は、朝鮮動乱等による特需ブームで好景気を迎え、昭和30年代は数量景気と言われる成長の時代でした。

左図は、昭和33年から37年の北海道でのテレビ登録台数の推移を示したグラフですが、皇太子ご成婚を基点に大きく伸びていることがわかります。全国レベルでも昭和33年の91万台が翌34年の4月には200万台を突破し、同年の12月には414万に達しています。


Ⅳ 高度成長期に支えられたテレビ広告

1960年代の日本経済は、昭和39年の東京オンピツク開催というビツグなイベントがありましたが大きな持続的好況感がないままに推移し、後半には[いざなぎ景気]に結びつくような成長期を迎えました。この景気を支えたのは[技術革新により新しい商品が生み出されたこと、これが大量の需要を新たに創造したこと]と、言われていますが、この面でも新しいテレビメディアの広告機能が果たした役割は極めて高いものがありました。

昭和30年代の[三種の神器]は、昭和40年代には[3C時代]と言われ[カラーテレビ][クーラー][カー]の購入ブームが到来しましたが、テレビCMの訴求力は他の媒体を大きく引き離して、テレビ広告費の位置付けを不動のものとしたのです。[3C時代]の一つであるカラーテレビは、カラー放送の開始によって齎されましたが、我が国のカラーテレビ放送は1960年(昭和35年)9月10日にスタートしていましたが、北海道では1966年(昭和41年)3月20日、HBCテレビによってカラーテレビ放送がスタートしテレビもいよいよカラー化の時代を迎えたのです。カラー化によって此までのテレビCMも質的にも大きく変化し、このことがテレビCMの視聴好感度をより高める結果を生みだしました。 高度成長期に支えられたテレビ広告ですが、広告費拡大に大きく寄与した背景にはこの時代の[耐久消費材の普及率]が挙げられます。

上のグラフは、この時代の[耐久消費財の普及率]を示したものですが、このような耐久消費財の普及により日常生活のスタイルも年々変化してきました。このような耐久消費財消費が高まるにつれて、広告に対する問題点も議論されるようになりました。昭和45年発表された第三次国民生活審議会でも、広告に関する現状に対して次のように述べています[昭和44年の電通推計でも総広告費は約6,328億で国民所得の1.3%を占めている。商品の中でも医薬品、化粧品、食品などに次いで、電気機器、自動車などの耐久消費財産業の広告費割合が増加している]。このような広告費の中でも、主要4媒体と言われた新聞、ラジオ、テレビ、雑誌が総額の約80%を占めていますが、なかでもテレビ広告費の急増が特徴的な時代で、テレビのスポンサーソースの拡大にあわせて営業活動もネットワーク・ローカルセールス面でも大きな転換期を迎えました。この様な環境下テレビ広告(CM)も質量共に大きく変化し視聴者の関心も高まる中で放送業界も放送基準を制定し、番組の放送基準と共に広告(CM放送)に対しても基準を設けましたが、道内各放送局も独自の基準を設けて、視聴者に正しく信頼される広告放送に向けての努力が続けられました。

この時代放送収入の後ろ盾となる1960年代の北海道経済は、開発計画の推進もあり人口も1965年(昭和40年)には5,171,800人、1970年には5,184,287人となり、一方発展を続ける札幌市はこの段階で1.010.123人と100万人を突破して、我が国で8番目の100万都市入りを果たしました。

しかし北海道の経済指標(全国対比)を見る限り所得水準では全国比80%で推移しており、所得水準の低さが浮き彫りになり所得水準を向上させる施策が求められていた時代でした。 一方札幌市のなかで特徴的な事は、時代と共に順次第一次産業から第二次、第三次産業のウエイトが高まってきた事です。特にサービス産業を中心とした第三次産業が大きく伸びつつあり、この様な産業構造の変化が広告費の面でも大きな影響を与えています。特に商業面でも小売店数の伸びは全国平均の約9倍で全国的にも横浜に次ぐ伸びを示しており、商業活動の拡大がテレビ広告費に大きな追い風となつていました。