第三章 テレビ時代におけるラジオメデイア再生の道目次
Ⅰ STVラジオ局開局とネットワーク
Ⅱ ラジオ広告費回復の背景1959年(昭和34年)テレビ広告費に追い抜かれた以降苦しい局面で推移してきたラジオ広告費は、1965年を底として1966年に回復し、その後上昇気流を走り続けました。1965年(昭和40年)不況によりラジオ広告費も前年割れを余儀なくされ、ラジオメディアの先行きに暗い影を投げかけメディアに携わる全員に厳しい危機感が漲りました。商業放送の先進国アメリカでは情報メディアとしてのラジオが高く評価され、テレビ時代におけるラジオの持つ有用性が地域メディアとしての市民権を獲得していました。1965年4月アメリカRAB(ラジオアドバダイジングビューロー)会長エドマンド・C・バンカー氏が来日し、各方面での講演会等を通じラジオの未来展望についてわが国関係者に大きな希望を与え、これを契機にわが国のラジオ業界全体が一丸となってラジオメディアの復権に向けてのキャンペーンがスタートしました。同年10月には民放連にラジオ強化委員会が発足し、具体的ラジオキャンペーンが全国ラジオ局において展開されました。 一方この様な業界挙げての回復への努力を強力に支援するような社会状況が着々と整えられつつあった時代背景もラジオ復権への大きな支えとなっていました。種々の要因が挙げられますが、ラジオを支えた大きな力の一つとしてカーラジオの普及を挙げる事が出来ると思います。わが国の乗用車生産は1950年の朝鮮戦争による特需景気を背景に急速な回復を見せ、窮乏した生活から立ち直った人々の間には自家用車を持つと言う大きな夢が現実化される様な状況を迎えていました。特に1958年発売された大衆向け軽自動車「スバル360」はこの機運を大きく盛り上げ、各メーカーも挙って量産体制に入り、1966年には「カー・クーラー・カラーテレビ」が「新三種の神器」と呼ばれる年になりました。この事に関して佐藤正明氏は著書[ホンダの神話]の中で次のようにコメントしています。[三Cの花形商品は、誰が見ても自動車だつた。"マイカー元年"の前夜にあたる1965年の日本の自動車の生産台数は187万台だったが、五年後の1970年には529万台と2.8倍も伸びた、この間乗用車は70万台から318万台へ4.5培も増加している、日本の自動車産業の成長は明らかに乗用車、それもマイカーを中心とした自家用車によってもたらされたと言える。……乗用車が大衆の物となり、自動車メーカー各社はオーナードライバーを狙って次々と新車種を発売して商品の多様化を図りながら、既存車種のモデルチエンジを繰り返して市場開拓に努めた]。1966年にはトヨタ自動車の「トヨタカローラ1100」が発売され、翌1967年には東洋工業(マツダ)から世界で初めての小型軽量、高出力のロータリーエンジン搭載のスポーツカーが発売、叉1968年にはいすず自動車から高性能のDOHCエンジン搭載の車が発売されるなど、消費者の購買意欲を高める新機種が続々と開発され、年々自家用車の保有台数も鰻登りに増加の一途を辿り、この面からも車とラジオの関係が再認識されるに至りました。将にモータリゼーションの到来はラジオにとって神風的存在となったのです。この事は北海道における乗用車台数の統計にも如実に表れています。北海道陸運協会編「北海道自動車統計」によれば、北海道での乗用車は戦後の1946年僅かに649台に過ぎませんでしたがその後1955年4.167台、1961年には18.256台に増加し1965年に入ると一挙に79.276台に増え、更に1970年には361.395台と5年間で455.9%の伸びを示したのです。これら増加の大きな要因は可処分所得の増加は勿論ですが、国内各メーカーの新機種開発と激しい販売競争がこれに拍車をかけたと言っても良いと思います。加えて家庭における生活様式の変化は住宅事情の改善と共にラジオが個人のコミュニケーションツールとして若者を中心に浸透する環境を作るなどこれまでのラジオ聴取対応にも大きな変化をもたらしました。叉、送り手である放送局サイドも聴取者の変化に合わせて「オーディエンスセグメンテイション」いわゆる聴取者細分化方式等極め細かな編成方針を採用したのも大きな要因の一つに挙げられると思います。 Ⅲ ラジオ再生の道テレビ放送の開始によって、これまで家庭の中心にあったラジオの座はテレビに明け渡される事となり、ラジオはこれまでの番組のあり方を含めて大きな転換期を迎えました。又、これまでラジオを新しい広告メディアとして利用してきた広告主にも、ラジオとは違ったテレビ広告の持つインパクトの強さは極めて魅力があり、ラジオからテレビへの広告の切り替えが顕著となって来ました。北海道地区においても1960年(昭和35年)テレビ広告費がラジオを上廻りこれ以降ラジオは年々減速化傾向で推移しましたが、1966年(昭和41年)からは一転して上昇気流に乗ることが出来ました、この間1962年(昭和37年)12月15日には、北海道で第2番目のラジオ局として[STVラジオ局]が開局しました。ラジオ2局体制を迎えたものの、ラジオの厳しい状況が続く中で、両局挙げてラジオ再生への涙ぐましい努力が続けられました。
テレビ主導型の時代風潮の中で、ラジオ再生の目指す方向は、ラジオが年々個人のコミュニケーションツールとして活用されつつある実態を踏まえ[オーディエンスセグメンティシヨン]戦略でした。ラジオ聴取者層が多層化する中で、それぞれのターゲットに的を絞った番組編成が指向されるようになりました。そのキーワードは[聴取者参加]で、ラジオ両局とも、早朝、深夜の時間帯の開発、土・日・祝祭日のワイド番組の編成に力が注がれる様になりました。又、これまでのスタジオ中心の番組作りが、聴取者の中に飛び込んで、送り手と受け手がふれあいの中で番組を作る手法も色々と行われました。
Ⅳ HBC.STV両局の地域密着戦略回復基調に乗った HBC・STV ラジオを更に安定的な成長路線に定着させるためには地域に根差した番組編成による収入の拡大が大きな課題でもありました。その先陣をきったのが[深夜放送]でした。テレビとは異なるパーソナルメディアの特性を生かし主とし
てヤング層をターゲットとした番組としてHBCラジオは昭和 42 年(1967年)5月1日ラジオ深夜放送[北海道26時]をスタートしましたが、2年後の'69年6月2日からはオールナイト放送として[オールナイトほっかいどう]を開始しました。一方STVラジオは
1970年(昭和45年)9月から[アタックヤング]の放送を開始しました。深夜放送が主としてヤング聴取層をターゲットとしているのに対し、聴取者の生活慣習の変化と、カーラジオの急激な増加に対応すべく土曜、日曜の番組編成にも大きな変化が見られました。HBCラジオが1970年(昭和45年)5月16日から土曜の午後帯に[ダイナミックサタデイ]を、又、翌昭和
46 年5月16日から日曜の午後帯に[サンデーワイド ナマナマ大作戦]を編成し、スポンサーの販促活動と一体となった生ワイド番組で多くの話題を提供しました。遅れてSTVラジオも
1984 年(昭和59年)10月からは[河村道夫の桃栗三年][日高晤晤郎シヨー]を開始し、生ワイド番組はラジオ放送の核として定着する処となったのです。
この間昭和 47 年 2 月には[第 11 回冬季札幌オリンピック]が開催され、メディアが挙げて番組制作やイベントに取り組む中でラジオもオリンピツクに関連した様々な企画が展開されましたが、HBC
ラジオ局が期間中、市内中心ビルに設けた[インフオーメーションセンター]は、ラジオ番組とも連動させたオリンピツクの速報始め、様々な情報センターとして、オリンピツクのため札幌を訪れた人々にも大変好評でした。小回りの効くラジオの真髄を遺憾なく発揮したと言えましょう。
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