第四章 テレビ四局時代とメデイアの競合
目次
Ⅰ |
一極集中化が進む札幌経済圏 |
Ⅱ |
札幌冬季オリンピックをめぐるメデイア活動 |
Ⅲ |
HTB・uhb開局の経緯 |
Ⅳ |
情報化が進む電波広告 |
<Ⅴ |
地域活性化のメデイア活動 |
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Ⅰ 一極集中化が進む札幌経済圏
Ⅱ 札幌冬季オリンピックをめぐるメデイア活動
永年の夢であった、札幌冬季オリンピツクが 1972年(昭和 47 年)2 月 3 日から 13 日まで開催され、札幌はオリンピツク一色ですべての事象がオリンピツクに凝縮されていました。
2 月 3 日には、真駒内屋外スタジアムでは華やかな開会式(左図)が行われ、参加 35 ヶ国の選手、役員 1654 名が行進を行い、晴れ上がった冬空の下で繰り広げられる開会式の興奮に
5 万 4 千人の観衆は酔いしれたものです。開会式の模様はカラーテレビの鮮明な画像で全世界に中継されるなど、生放送で伝えられる映像メデイアの放送は、家庭に居ながらにして会場の観衆と同じ感激を味あう事が出来たのです。オリンピックの目玉商品の一つは日本のお家芸でもあるジヤンプ競技です。
大倉シャンツエではラージヒル 90 ㍍級が、近くの宮ノ森シヤンツエではノーマルヒルの 70㍍級が行われました。今でも強く脳裏に残っているのは、70
㍍ジヤンプで日本の、笠谷、金野、青地の三選手が金・銀・銅メダルを独占して君が代が流れる中に 3 本の日章旗が飜ったあのシーンです。このオリンピツク放送は、札幌オリンピツク組織委員会からの委託を受けた
NHK が放送権を獲得して国内外を代表して映像の制作を行いましたが、札幌オリンピックでは是まで例を見なかった民放である HBCが国際映像制作に参画しました。これはテレビ開局後ウインタースポーツに取り組み数々の実績をあげた成果が評価されたのと、手稲山のアンテナ建設など、競技場となった手稲山の地形などにも精通していることが繋がつていると思います。
手稲山で開催された回転競技などは民放の手によって制作されました。 このように地元テレビ局は各系列の中でも中心的な役割を担ってこれらの制作にあたりました。テレビ局の活躍はオリンピツク本番に限らずオリンピック開催が決定された時点から数々のプレオリンピツク番組や啓蒙イベントなど多彩に展開されました。これらのイヘント、番組については多くの広告主の協力もあり、営業的にも大きな成果を上げる事が出来ました。
左の写真は、、北海道放送が企画して全国放送したオリンピツク関連番組ですが、日本武道館で昭和 46 年 10 月 29 日開催した[雪と氷と幻想と]と言うテーマーで開催されました(写真は
HBC社史)。この他、スポンサーの販促活動としてテレビ局が実施した多くの企画等イベントに明け暮れたオリンピツクイヤーでした。
Ⅲ HTB・uhb テレビ局開局の経緯
<北海道テレビ放送(株)> HTBは1968年11月3日開局しましたが其の経緯を同社社史「25年の歩み」を参照しながら記述します。同社設立の契機となった1967年はテレビ周波数割り当て基本方針と第一次・第二次チャンネルプランが修正され、「いざなぎ景気」を背景に開局申請が殺到し、同年10月末にはその数も全国で190件に達したと言われています。HTBは「道民放送」の名で初代社長に就任した岩澤靖氏(当時札幌トヨペツト社長)が札幌地区で最後の申請を行いましたが札幌地区では七社の競願となり最終的には政治的解決により一本化に成功し、1967年10月17日免許申請、同年11月1日予備免許が交付されまし。そして会社名を現在の北海道テレビ放送と定め1968年11月3日開局しました。
UHF局としてのHTBにとって開局当初の最大の課題はテレビ視聴のために必要なコンバーターの普及であり、その普及のためには社員は勿論のこと岩澤氏の系列会社も総力を挙げてこの販売に努力しました。そして既存のHBC・STVに対抗するためには当然視聴エリアの拡大も大きな課題の一つであった為開局後12月15日小樽放送局、同月24日には旭川局を開局し翌1969年11月26日網走局、27日帯広局、28日釧路局、12月1日室蘭局、2日函館局を相次いで開局し、1970年2月末には視聴世帯80万を突破し同年末には90万を突破しました。
2018年(平成30年)9月18日HTB本社は開局以来の豊平区南平岸から新たに開発された中央区北1条西1丁目(創成1.1.1区)の超高層ビル[創成スクエア地上28F地下5F)の1-7階に移転しました。上図左は創業時の本社屋、右が新社屋
<北海道文化放送(株)> 1970年代に入り北海道地区テレビ第4波として1972年4月1日北海道文化放送が(uhb)開局しました。同社が発行した「uhb20年の歩み」を参照しながら開局に至る経緯を簡単に記述します。
uhb設立の動きは郵政省から北海道地区に新しいテレビ電波が割り当てられた1969年10月に遡ります。この発表から申請締め切りの1年間の免許申請は実に59件に達したと言われています。1967年10月決定されたチヤンネルプランはこれまでのVHF局に新たにUHF局が加わるオールチャンネル時代の到来を意味し、このプランにより前述の様に1967年12月北海道テレビ放送が設立され翌1968年11月3日放送を開始しました。時を同じくした1968年11月1日が北海道新聞の創立記念日に当たり、同社役員会はテレビ第四波の獲得を最大の経営課題として決定しフジテレビと手を結んで推進することを決定しました。道内第4局を目指しての北海道新聞社とフジテレビの提携は、それぞれの戦略志向がぴたりとかみ合った結果でした。道内マスコミ界のトップの座にある北海道新聞社として、電波媒体と結合して報道体制を立体的に強化する事は必然的な命題でもありました。一方、フジテレビ側にとって新局の設立・系列化は二つの大きな意義がありました。一つはFNN(フジ・ニュース・ネットワーク)に北海道の送り出し拠点が出来ること。もう一つは営業的拠点が確立することによって、フジネットワークの媒体価値が大きく上がること。このように新局の出現は報道・営業両面でフジネットワークの基幹地区配置を全国的に完成させると言う大きな意義を担っていたのです。
その後政治的に競願各社の調整作業も終結し、1971年5月14日北海道新聞社に対し予備免許が手交され、その結果同年6月24日北海道文化放送株式会社が正式に設立され、キーステーションをフジテレビ(プライムタイムの比率90%)とし、東京12ch(プライムタイム10%)とも一部ネット関係を持つこととなりました。新たに開局したuhbも豊富な資金量を背景に中継局の新設に努め開局時点で全道世帯カバレージ66%を有し、開局初年度末には世帯カバレージ82%に達する急スピードで視聴エリアの拡大に努め其の結果1975年度にはその率も92%に達しました。
北海道の民放テレビは昭和 32 年に最初のテレビ局(HBC テレビ)が開局、昭和 34 年には 2 番目のテレビ局(STV テレビ)が開局しましたが、この
2 局は VHF 局です。そして新たに UHF 局として、HTB テレビ、uhb テレビが開局して、北海道もテレビ 4 局時代を迎えました。これらのネツトワークも、[HBC-TBS(東京放送)]
[STV-NTV(日本テレビ)][HTB-ANB(テレビ朝日)][uhb-FTV(フジテレビ)]という 4 大ネットワーク体制が確立しましたが、ポストオリンピツクの北海道を巡る経済環境は厳しく、今後これらの多メデイアが安定した収入を確保していくためには、限られた広告費を巡る熱い戦いが繰り広げられるメデイア間競合の時代を迎えました。
Ⅳ 情報化が進む電波広告
北海道地区では1974年のオイルショックによる不況時にもメディア広告費は着実に伸びたがこの要因は1960年代の個人の消費支出が堅調に推移した事による処が大きい。1960年代の後半から1970年代にかけて[情報社会論]が展開され[情報]の果たす役割の重要性が急速な高まりを見せた。通産省の情報産業部会の答申[飛躍する情報化]では、1960年から70年代の[情報化]を中心とした変化を[第一次情報革命]と呼んでいるが、本道とりわけ札幌における商業の中心的な役割を果たしてきた百貨店がオリンピック開催を契機として、これまでの伝統的な新聞などの活字メディア中心の宣伝広告から時代の寵児と化す迄に成長し、市民生活にとって最大の情報源であるテレビメディアを活用した宣伝広告に軸足を移したことは電波広告史上特筆されるべき事象であつた。
デパートの売り上げをいると特にオリンピックの開催年である1972年は前年比124.8%、翌'73年は131.4%と言う高い伸びを示したのである。これら札幌市内デパートの売り上げを伸ばした要因には当時の経済環境など様々な要因が考えられるが、売り上げに貢献した新しい事象の一つとしてテレビメディアを使った通販即ちテレビショツピングを挙げる事が出来よう。1960年代後半には道内テレビメディアも4局体制となり、本格的な視聴率戦争に向けて、各テレビ局も地域密着路線にあわせた情報番組の開発と、在宅主婦を主たるターゲットとした午後帯編成に力を注ぐ処となり、生活情報・娯楽・グルメなど幅広いジャンルから構成されたワイド番組編成が各局の編成方針の柱になりつつあった。
先鞭を付けたのはHBCテレビであり、これまで午前枠で放送して一定の実績をあげてきた「奥様スタジオ」を全面的に衣替えして、当時メロドラマの放送帯として定着していた午後2時台に情報ワイド「パック2PM」を1972年5月29日よりスタートした。この番組の1パートとして登場したのがテレビによる通信販売即ちテレビショツピング情報である。
現在では通販番組・通販CMは日常化しており、目新しい物ではないが、当時としてはその斬新さは視聴者に大きな衝撃さえ与え、これまで新聞広告重点型であった百貨店広告をテレビに向けさせ、デパート広告として新機軸を作り上げた功績は極めて大きいものがあった。
ワイド番組編成はHBCテレビに続きSTVテレビでも「2時のワイドショー」として編成され1973年1月8日より番組がスタートした。遅れてこの番組コーナーにもテレビショツピングが登場することとなる。
何故この時代このような新しい商品販売方式が生まれてきたのか、其の時代背景を考えて見たい。1965年以降国内経済は堅調に拡大の路を歩み、個人消費も可処分所得の増加によって拡大の一途を辿る事となる。消費の拡大は消費者の価値観の多様化とそれに即応した新しい付加価値重視の商品開発と流通チャンネルの拡充によって購買意欲を更に高める様な時代背景であった。
特に北海道と言う広域圏においては、テレビメディアが出現する以前は都市部の住民を除く多くの道民は多様な商品知識と購買チャンスに恵まれなかった為、テレビを通じて紹介される商品情報に対しては敏感に反応し始めた。このような状況下登場したのが、全道どの地域でも茶の間に居ながらにして手に入れる事の出来るテレビショツピング情報だったのである。商品提供者が在札有名デパート(当時参加していたデパートは、丸井今井、三越、五番館、東急、松坂屋の5店)であり、そしてテレビ局推奨と言う、視聴者にとっては極めて信頼性の高い安心して購入できる通販であると理解され、毎々日各デパートが紹介する商品に興味と選択視を広げて行ったのである。それだけに送り手としてのテレビ局の責任も大きく、消費者保護の立場に立ってクレーム処理の迅速・的確なシステムの確立、適正料金の設定、魅力ある商品開発など各デパートとの協力関係の中での日々の努力が続けられ、その努力と実積がテレビショツピングを今日まで永続し、テレビの持つ生活情報としての機能が完全に市民権を獲得するに至ったのである。我が国での電波ショツピングは1971年のテレビ、
1973年のラジオであり、本道の電波ショツピングもこれと相前後してスタートしたことを考え合わせても、将にこの時代は電波広告が情報化へ転化する出発点ともなったのである。
図 25 通販の売上高 図 26 個人の購入媒体
上のグラフ図25は日本通信販売協会の統計情報であるが、1992年から2001年までの通販業界の売上高推移を示したものである。平成不況の一時期を除き順調に売り上げを伸ばしていることが理解できよう。
更に図26は通販の購買がどの様なツールで行われたかの資料であるが、利用媒体としては[カタログ]が最も多いが、1955年以降テレビがカタログに次ぐ媒体として定着しており、このことは年々テレビショツピングが通販の中で大きな役割を果たしていることの証左であろう。
Ⅴ 地域活性化のメデイア活動
地域に密着した各種企画の展開 テレビ多局化を迎え、厳しい競合に打ち勝つためにはメディアのアイデンテーを高め併
せてスポンサーの求める販売促進効果を高める番組・スポット企画の積極的な展開が必須の条件となりました。冬季オリンピック後の HBC テレピは様々な営業企画に取り組
みましたが、これらの企画の計画・実施は、テレビ局の総力を挙げてあたり、あわせて 当時観光の推進に力を入れていた行政との強固な協力関係により、様々な課題を乗り越
えて大きな成果を納める事が出来ました。数多い企画の中から代表的な事例について紹 介します。
[HBC 北海盆踊り] この企画が実施されたのは 1977 年(昭和 52 年)です。これまで大通公園で夏祭りの一 環として札幌市商店連合会が主催する[盆踊り大会]が開催されていましたが、いまいち
盛り上がりに欠け、札幌市としても夏のイベントとして盛り上げるべく検討を始めた矢 先に、HBC テレビが全面的に協力すべく行政と実施に関しての協議を始めましたが、
市当局はこれまでの慣習、公園使用上の規制から結論を得るまでには大変な苦労があり ました。しかし関係部局のトップの英断もあり、装いも新たに[HBC
北海盆踊り]がス タートする事になりました。このイベントは営業的にはスポット企画としてセールスさ れましたが、ナショナル・地場スポンサーの協賛により営業的にも大きな成果を挙げる
事が出来ました。 HBC 社報(昭和 52 年 9 月号)には、この年の参加者数は (7 日間)延べ 26 万人、配布した団扇 2 万本、手拭
8 千、 櫓の製作費500万円と記述されており、特に最終日に 行われる仮装盆踊りは、札幌夏祭りのフイナレーを飾る イベントして観光イベントの目玉となっていました。
又、札幌の初夏を彩る[ライラックまつり]にも札幌市 と協力のもと昭和 54 年から[さっぽろ音楽祭]を大通 公園の特設ステージで開催し道内アマチュアバンドの
登竜門として多くの若者が参加し、これには資生堂の 全面的な協賛を戴き企業イメージの高揚に貢献したイ ベントとして注目を浴びました。 これらは札幌市の観光振興の一環として開催されたイ
ベントですが、この時期札幌商工会議所が都市おこしの イベントとして主管した[さっぽろカーニバル]も営業 部門が中心となって実施したイベントの一つでした。
こ のイベントは、昭和 59 年(1984 年)から昭和 61 年 (1986 年)の 3 年開催されました。5000 人の出演者が 交通規制のもと札幌駅前通をパレード、沿道は満余の観衆で埋め尽くされ盛況裡に初期
の目的を達して終了しました。記録によると 3 年契約で実施したカーニバルは毎回 10 万余の観衆を集め出演者も毎回 5000 人規模でした。現在のヨサコイソーラン祭りの原
点ともいえると思います。
北海道地区での広告費の特徴は、全国レベルに比べて新聞広告費のウエイトが高い事で す。これは電波広告がコマーシャル料金の関係から、地元広告主よりも中央の広告主の
ウエイトが高いのに対して、新聞は、地元の産業広告(求人広告)や案内広告のウエイト が高いことに起因しています。中央広告主のテレビ広告に対する考え方が変わりつつあ
る中で、これからの北海道テレビメディアにとつての営業課題は、広告費のシェアダウ ンを少しでも食い止めるためにエリアマーケッテイングの考え方を推し進めて中央広
告主の関心を北海道市場に向けさせる事と、地域の振興と消費市場の活性化を進めて地 元広告市場の拡大を図る事が喫緊の課題となりつつありまさに、新聞広告とテレビ広告
の死闘が開始される時代背景でした。次表に見るように北海道においては新聞に占める 地元広告費のシェアがテレビに対してかなり差があり、北海道における民放営業の悲願
は新聞広告費に大きなウエイトを占める地元広告費をいかにして電波広告に転用させ るかであり、この事はテレビの営業活動ににとっても大きな課題でした。
その一つの試みとして取り上げられたのが1977年から'78年にかけて展開された テレビ各局の共同キャンペーンです。このキャンペーンの狙いはテレビ広告と新聞広告
を比較して費用対効果の面からテレビ広告の優位性を訴え、新聞広告単独よりはテレビ 広告との併用によるメディアミックスの考え方を強調したものでした。このキャンペー
ンには HBC、STV、HTB 三局が共同で企画し、調査の実施等は電通北海道支社、ビデオリ サーチに委託しました。キャンペーンの具体的内容は「テレビと新聞」と言う小冊子の発
行で、小冊子ではテレビの「視聴率」という調査基準に対し新聞広告が従来使用していた 「閲覧率」を「記事視覚率」と言う基準に置き換え、テレビと新聞とのコスト比較を行った
ものです。そのためのデーターは地元 A 紙(北海道新聞)の朝・夕刊を対象に札幌全域か ら男女 3547 名に戸別訪問直接面接方式で行い 2219
名から回答を得ました。この小冊 子は1978年3月に発行されましたが、発行後全国的にも大きな反響を呼び電波・新 聞業界に新たな論議を巻き起こしたのです。1979年5月には日本新聞協会広告委員
会からこれに反論する形でパンフレットが発行されました。その内容は次の七つの疑問 に答える内容から成っています。 ?テレビ CM にはデーターがあるのに新聞広告にはない
?テレビのデーターは信用できるが新聞は信用出来ない ?新聞にだってテレビの視聴率と同じようなデーターか必要だ ?新聞広告の注目率は当然テレビの視聴率と比べるべきだ
?注目率の小さい新聞広告は効果も小さい ?注目率と視聴率を比べるとテレビの方が安い ?新聞広告に関するデーターを新聞社は全部出すべきだ そう思っておられるとしたらそれはみんな大きな誤解です。
このような反論が加えられたものの、このキャンペーンがテレビ関係者に大きな刺激を 与え、新聞広告に変わりうるテレビ広告の新しい展開、CM の表現方法の開発、チラシ広
告のテレビ化等各局が競って新しい企画の開発に取り組むきっかけを作った意義は大 きいものがありました。
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