年表 北海道民放半世紀(1951年-2001年)

表 (1) 1951年-1959年

1951年(昭和26年)の北海道

戦後間もない北海道のこの当時の人口は、439万4千人と未だ500万には達していませんでした。ようやく北海道開発の機運が高まり、1950年に成立した[北海道開発法]に基づきこの年には[北海道開発局]が設けられました。又、9月25日には、民間航空の国内線が再開され、10月26日には、東京・千歳間の民間航空も再開されましたが、当初のターミナルは、千歳のアメリカキャンプの中にあり、ターミナルに行くには正門で許可を得る必要がありました。この当時の[乗客名簿]は、新聞にも掲載されるなど、今日とは今昔の感があります

北海道放送(株)の創立

1950年(昭和25年)6月1日、新放送法が施行され、これに基づく新局申請は72社に及びましたが、1951年4月21日、電波管理委員会より全国16社に第一次免許が交付されました。北海道地区では、北海道放送がこの中に含まれています。北海道放送は、設立の母胎は北海道新聞ですが、11月30日に創立されています。当初はラジオ放送を行う会社として設立され翌年に北海道初の民放ラジオ局が開局しました。

1952年(昭和27年)

1952年は、我が国にとつても今後の進路を決定づける大変重要な年でした。
4月28日 対日講和・日米安保条約発効。
5月29日 我が国のIMFに加盟が承認。
7月19日 ヘルシンキオリンピツクで、日本は戦後初めての参加。
又、道内で発生した、1月21日の[白鳥札幌市警警備課長射殺事件]は、その後も様々な意味で大きな反響を呼んだ事件でした。
日米安保条約発効に関連して、5月1日メーデーにはデモ隊と警官隊が皇居広場で衝突して多くの死傷者が出ましたが、4月9日発生した日航の[もく星号]墜落事故など、痛ましい事件が相次いだ年でもありました。


HBCラジオ局開局

この年の2月5日に本免許が交付されたHBCラジオ局は、直ちに2月8日から1日8時間のサービス放送を開始し、3月10日に本放送がスタートしました。放送は1日10時間行われました。

1953年(昭和28年)

我が国で民放初のテレビ放送開始

我が国民放テレビでは、1953年8月22日[日本テレビ]が本放送を開始しました。
日本テレビ生みの親でもある、正力松太郎のテレビ事業にかける異常な程の情熱が民放テレビ発足に火を注ぎ、これがきっかけとなってこの後続々とテレビ局の開局が続く事となりました。[日本テレビ]が導入した[街頭テレビ]は、テレビ受像機が高価な為購入出来ない人々に鮮烈な印象を与え、テレビメディアの力をまざまざと見せつれる事となり大変な話題を呼んだものでした。


進むHBCラジオの道内拠点作り


前年開局したHBCラジオは、開局後安定した営業収益を上げるためにはサービスエリアの拡大が喫緊の課題であり、このため7月1日には函館放送局、11月28日には旭川放送局を開局し、この地域に限定した放送(ローカル放送)を我が国では初めて取り入れ、地域スポンサーの広告放送を行うなど、地域の振興にも大きく貢献しました。
ラジオ局の開局状況
この年も全国各地区に相次いでラジオ局が開局しています。
3月 1日 長崎平和放送(現長崎放送)
9月 1日 ラジオ高知(現高知放送)
10月 1日 南海放送、山陽放送、ラジオ南日本(現南日本放送)、ラジオ大分(現大分放 送)、ラジオ熊本(現熊本放送)、ラジオ香川(現西日本放送)
10月12日 ラジオ青森(現青森放送)
10月15日 山形放送
11月 1日 ラジオ東北(現秋田放送)
12月 1日 ラジオ福島
12月10日 ラジオ三重(現東海ラジオ)
12月25日 岩手放送
社名の多くに[ラジオ]がついていますが、これらの局がその後テレビ放送を始めるにあたり、現在の様な社名に変更になつています。

1954年(昭和29年)

洞爺丸遭難事故
この年も色々と痛ましい事故が発生しましたが、その中でも我々にとって忘れることの出来ないのは、9月26日北海道を襲った台風15号により、青函連絡船[洞爺丸]が函館七重浜沖で沈没し、死者行方不明者実に1175人を出した大惨事です。未だテレビがない時代でしたが、ラジオの機能をフルに活かした報道活動が繰り広げられました。
又、本道に関連した事故としては、8月30日、釧路太平洋炭坑でガス爆発が発生し死者39人をだしています。
本道初のテレビ実験放送
1952年北海道で初のラジオ局を開局した北海道放送は、ラジオ局開局後テレビ放送にも意欲的に取り組み、その前哨戦としてこの年函館で開催された[北洋博]で実験放送を開始しました。この実験放送は53日間にも及び、天皇・皇后両陛下の函館港上陸の生中継など、制作技術を含めた多角的な実験を行い、このことが北海道初の民放テレビ局の開局に繋がっています。
時代の花形[街頭テレビ]
前年我が国で最初の民放テレビ局としてスターとした[日本テレビ]の営業戦略として取り上げられたのが[街頭テレビ]でした。この当時受像器が高価なため家庭での普及が進まず、東京の都心では人々は街角に設置された街頭テレビからのテレビ映像に歓喜の声をあげて凝視していたものです。この街頭テレビに拍車をかけたのが、テレビのスポーツ中継でした。今でも語りぐさになっているのはプロレス中継でした。あの当時の力道山の勇姿が脳裏にしっかりと刻み込まれています。
プロレスが興業として初めてお目見えしたのが、2月19日のシャープ兄弟対力道山・木村組の試合でした。国内を沸かせたプロレスは急速に高い人気を博する様になりましたが、この原動力となったのはテレビの功績でした。
ラジオ局の開局状況
1月 1日 九州朝日放送
3月 1日 ラジオ山陰(現山陰放送)
7月 1日 ラジオ山梨(現山梨放送)、ラジオ宮崎(現宮崎放送)
7月 15日 ニツポン放送
8月 27日 日本短波放送
10月 1日 琉球放送
全国各地に続々とラジオ局が開局しました。

1955年(昭和30年)

55年体制の確立
この年、11月15日には自由党と日本民主党が保守合同を果たし、一方、社会党も右派と左派が合併して、所謂[55年体制]が確立し、永年我が国の政治はこの55年体制の下での攻防が繰り広げられてきました。
この年8月24日には、消費者を震撼させた[森永乳業ヒ素入り粉ミルク事件]が起こり、全国各地で乳幼児が死去するという痛ましい事件がありました。又、4月6日には[帝銀事件]の平沢貞道被告の死刑が最高裁で宣告され、長い間の裁判が結審しています。
北海道では、この年も炭坑爆発事故が発生し11月1日には赤平雄別炭坑では死者60名を数えました。7月5日には戦後最大の豪雨が道央を襲い、死者14名行方不明者29人という自然災害にも見舞われています。
テレビ実験局開局
北海道放送のテレビ放送の実験も、北洋博に続いて本社所在地である札幌でも行われる事となり、7月1日には第2次テレビ実験局、続いて12月28日には第3次テレビ実験局が開局され、本放送に向けての試走はいよいよ本格化してきました。この実験は翌年の4月まで続けられました。
北海道放送のエリア拡大路線はこの年も続き8月1日には道東の帯広に帯広放送局を開局しました。又、商都として発展を続ける小樽地区では、6月6日小樽支社を小樽放送局に格上げして放送体制の充実を図っています。
2番目の民放テレビ局開局
日本テレビに次いで我が国民放2番目のテレビ局として4月1日ラジオ東京(現東京放送9のテレビ局が開局しました。
ラジオ局開局状況
3月10日 岐阜放送(現東海ラジオ放送)
この年には、東京通信工業(現ソニー)がトランジスターラジオを発売し、ラジオの聴取層の拡大に大きな役割を果たしています。

1956年(昭和31年)

[もはや戦後ではない]
この年発表された経済白書では[もはや戦後ではない]と記載され、日本経済は高度成長期にはいりました。景気を反映して広告費も前年比122.3%を記録しました。
ラジオ局・テレビ局の開局状況
<ラジオ>
4月 1日 ラジオ山口(現山口放送)
4月29日 東海ラジオ
<テレビ>
12月 1日 中部日本放送(名古屋)、大阪テレビ(現朝日放送)
12月22日 NHK札幌テレビ局
テレビ放送も、東京地区に続いて大阪地区、名古屋地区でもスタートしました。
この年10月1日には、東京-札幌間のマイクロウエーブも開通し、札幌でもテレビ放送開始の環境が整いました。
北海道放送にテレビ予備免許交付
テレビ放送開始に向けて着々と準備を進める北海道放送は、テレビ放送アンテナは我が国でも最初の[マウンテントップ方式]の採用を決定しました。札幌郊外の標高1023メートルの手稲山山頂にアンテナと送信所建設の難工事が行われる事となり、6月27日に起工式を行い難工事がスタートしました。8月10日には山頂に通ずる11.6キロメートルの道路も開通、年末に手稲テレビ送信所の工事が完了しています。これに先立つ11月9日には、北海道地区のチャンネルプランも発表され、[北海道放送テレビジョン]が、正式名称に決定され、同月29日には、北海道放送に対してテレビの予備免許が交付されました。
同社は10月10日には釧路放送局、10月23日には室蘭放送局、10月30日網走放送局、10月31日北見放送局を開局してほぼ北海道地域の地方拠点での放送体制の整備を完了させています

1957年(昭和32年)

北海道で初の民放テレビ局開局
この年は、待望久しかった民放テレビが初めて北海道にお目見えした年です。
昨年来手稲山の山頂に送信所とテレビアンテナを建設していた北海道放送のテレビ放送体制も完了し、3月8日からは手稲のアンテナを使つての試験電波が発射される中、3月15日には本免許が交付されました。4月1日には、[JOHR-TV]としてチヤンネル1、映像10KW、音声5KWで1日7時間の本放送がスターとしました。
北海道地区でのテレビ放送は、前年の12月22日にNHKが大通公園のテレビ塔を使って放送を開始していますが、一般家庭でのテレ受像機の普及はなかなか容易ではありませんでした。民放にとつては視聴世帯(視聴人口)を増やすことが、広告放送のスポンサーを獲得するための絶対条件であり、そのためにも受像機の普及は喫緊の課題でもありました。そのため、本放送に先駆けて1月にはこの対策の一環として[HBCサービスセンター]を設置して、積極的な普及活動を進めています。
東京で大きな話題を呼んだ[街頭テレビ]も、札幌の中心部に設置され、多くの観客がテレビ受像機を囲む姿が大変印象的でした。
又、テレビの普及活動として受像機を設置した[HBCPRカー]で市内、近郊を廻りPRに努めました。

1958年(昭和33年)

[ミツチーブーム]
この年11月27日には、皇太子殿下と正田美智子さんとの婚約が発表され、翌年の慶事まで所謂[ミッチーブーム]が巻き起こり、年末から翌年にかけて慶祝全開モードに包まれました。
テレビ局の開局状況
この年も全国各地でテレビ局が相次いで開局しました。
3月 1日 ラジオ九州(現RKB毎日放送)テレビ局
6月 1日 山陽放送(岡山)テレビ局
7月 1日 西日本放送テレビ局
10月25日 信越放送テレビ局
11月 1日 静岡放送テレビ局
11月22日 関西テレビ放送
12月 1日 北陸放送、南海放送テレビ局
12月15日 東海テレビ
12月24日 新潟放送テレビ局

又、この年には[東京タワー333b]が完成しています。
初のウインタースポーツ中継
前年放送を開始したHBCテレビは、2月27日開催された[第13回国体冬季スキー大会]を多元中継しましたが、これは日本で初めてのウインタースポーツ中継となりました。
又、7月5日からは[北海道大博覧会]が開催されましたが、このパビリオンでカラーテレビの実験放送を公開するなど、カラー放送に向けての準備活動が進められました。

1959年(昭和34年)

皇太子ご成婚
4月10日は、皇太子殿下と正田美智子さんのご成婚の儀が執り行われ、華やかなご成婚パレードが繰り広げられました。前年のご成婚発表以来全国に巻き起こっていた慶祝ムードはこの日が最高潮に達しましたが、全国に広がったテレビ放送のネツトワークを通じてこの華麗な模様は全国津々浦々まで放映され大きな感動を呼び起こしました。我が国のテレビメデイアのあり方を色々な面で変革をもたらした出発点でもありました。
新三種の神器
我が国の経済の発展は、個人の消費の拡大に繋がりましたがこの中でも、カー、クーラー、カラーテレビが[新三種の神器]と呼ばれたのもこの年です。
これらの商品は、メーカーの技術革新の進歩によつて大量生産が可能となり、これにテレビなどのコマーシヤル効果もあり消費の拡大に大きく貢献しました。
テレビ局の開局状況
皇太子のご成婚という世紀の大イベントを前に一挙にテレビ局が開局しました。
1月1日 長崎放送テレビ
2月1日 日本教育テレビ(現全国朝日放送)
3月1日 フジテレビ、毎日放送、九州朝日放送
3月3日 日本海テレビジヨン放送
4月1日 札幌テレビ放送、東北放送、北日本放送、ラジオ中国、ラジオ高知、四国 放送、ラジオ熊本、、、ラジオ南日本
9月1日 岩手放送テレビ
10月1日 ラジオ青森、ラジオ山口、ラジオ大分、
11月1日 沖縄テレビ放送
12月15日 ラジオ山陰
12月20日 ラジオ山梨
このようにラジオでスタートした民放がテレビの兼営局として新たにスタートしました。
この年4月1日には、東芝が日本で初めての国産テレビ受像機を発表し、カラー放送へのムードが一段と高まりました。
北海道地区テレビ2局時代
HBCテレビはこの年、3月25日室蘭テレビ局、12月22日には旭川テレビ局が開局しました。札幌テレビ放送のテレビ放送も始まり、是までの1局時代から2局時代を迎え、番組のネツト関係にも大きな変化が生まれました。是まで1局時代のHBCは東京局の番組を自由にネツト出来ましたが、STVテレビの開局で、日本テレビからのネツト番組をSTVに移動しています。
HBCテレビもこの年9月にはHBC会館が落成したため、10月からはこれまでの大丸ビルの放送設備を新しい会館に移して放送が行われる様になりました。