年表 北海道民放半世紀(1951年-2001年)

年表 (2) 1960年-1969年

1960年(昭和35年)

新しいネツトワーク結成
前年の皇太子ご成婚は、民放テレビの制作、編成、営業など各分野でのこれからの方向を決める重要な始発点となりましたが、その中でも、ニュース・番組などのネツトワークが大きな課題となり、3月1日には、ラジオ東京((現東京放送)、朝日放送(大阪)、中部日本放送(名古屋)、RKB毎日放送(福岡)それに北海道放送(札幌)が加わった5社連盟が発足し、日本の北から南を縦断する放送ネットワークが形成される事になり、このことがこの後の民放各系列のネットワーク確立の原点となりました。
カラーテレビに向けて
前年に東芝が初の国産カラーテレビ受像機を発表しましたが、この年3月にはソニーも携帯用のトランジスターテレビの商品化を発表するなどテレビ受像機の革新は急速に進んできました。
6月3日には、電波管理審議会はカラーテレビの方式として[NTSC方式]を答申するなどカラーテレビ本放送に対する環境は大きく前進することとなりました。
テレビ局開局状況
3月16日 山形放送テレビ開局
6月 1日 福井放送、琉球放送テレビ開局
10月 1日 ラジオ宮崎テレビ開局
1960年を迎え北海道の人口も503万と500万を突破しました。
この年2月1日には、北炭夕張炭坑でガス爆発が発生し42人が死去するという大惨事となりました。又、5月24日には、チリ地震で北海道にも津波が来襲し道東方面を中心に大きな被害をもたらしました。

1961年(昭和36年)

民間放送教育協議会(民教協)結成
1962年、総務省は既存のテレビ局に対し再免許を交付しましたが、是に先立ち各放送会社に対し、教育10%、教養20%の番組編成を行うよう行政方針を発表しています。
このような業界の流を先取りした形で、この年の6月21日にNET(現全国朝日放送)の教育番組をネツトしている全国13社による[民間放送教育協議会(民教協)]が結成されました。北海道地区ではHBCテレビがこれに加盟して、数多くの教育番組を制作しています。
大相撲放送もカラー化
1月8日に開幕した、大相撲初場所で日本テレビが初のカラー放送を実施しました。モノクロに比べて臨場感溢れる画像の美しさにカラー放送に対する関心が更に高まったのです。

1962年(昭和37年)

本格的な視聴率調査スタート
民放テレビにとって視聴率は、営業収入(コマーシャル料)の面に大きな関わりを持つだけに、各社とも視聴率を巡っての激烈な闘いが繰り広げられています。視聴率には、[全日視聴率][ゴールデンタイム視聴率][プライムタイム視聴率]の3本建てで、良く新聞などにも[視聴率三冠達成]等という見出しが出ますが、これは先に述べた3本建てすべてのトップという事です。
我が国の視聴率調査が機械式で行われる様になつたのは、1961年アメリカの調査会社[ニールセン]が日本に進出してからの事です。しかし本格的な調査はその翌年の1962年9月に電通を始め全国の主要な民放が参画して発足した[ビデオリサーチ]によつてスタートしました。当時はテレビ受像機も一家に1台の時代で[世帯調査]でしたが、テレビ受像機の普及に伴い[個人調査]が主流となつて、現在では広告主のマーケツトイング資料とては勿論、視聴者の生活動態など貴重なデーターを提供しています。
本格的なキャスターニユースの登場
現在ではキヤスターによるニュース番組は極当たり前になっていますが、我が国の民放で本格的にキャスターを起用してニュース番組を編成したのはTBSで、1962年10月1日にスタートした[ニュースコープ]でした。午後6時台からの放送でこの番組は全国にも放送されていました。初代のキヤスターを務めのは、戸川猪佐武と田英夫、二代目は古谷綱正と入江徳郎各氏で、それぞれ違った持ち味を発揮してニュース番組に新しい風を吹き込み、現在の情報番組の原点となりました。

1963年(昭和38年)

東京オリンピツクの放送体制
東京オリンピツクの開催を翌年に控えて、この放送実施に向けてこの年7月17日には[東京オリンピック放送委員会]が、NHKと民放が参画して設立されました。その後の話し合いで9月20日には、東京オリンピックの放送権はNHKが一括して保有することが決定され、民放はNHKの映像を自由に使用する事が認められています。
放送基準の制定
テレビ局が全国に開局しこの年では46社が放送を行うまでに大きな発展を遂げました。テレビ放送の発展に伴い、放送番組、放送広告についても様々な問題点も指摘されるようになり、この年3月20日には民放連は放送基準を改定して、視聴者の立場に立った放送の実施を大きな目標として掲げました。是に準拠した形で各民放もそれぞれの放送基準を改定する動きが加速されました。

1964年(昭和39年)

東京オリンピックのテレビ放送
10月10日から24日までの東京オリンピツクに全国はオリンピックムードに沸き返りましたが、テレビ中継の威力が遺憾なく発揮されたのもオリンピツクでした。記録によると、今でも語りぐさになつている、10月23日の女子バレーボール日本代表がソ連を破つて金メダルを獲得したあの中継放送の視聴率が66.8%と当時としては記録的な視聴率でした。[東洋の魔女]と呼ばれたあの熱戦には全国民が固唾を飲んで応援を続けたシーンが思い起こされます。
又、この年には東京オリンピツクに先立つて1月29日から2月9日まで、インスブルツク冬季オリンピツクも開催されました。
最後発のテレビキー局誕生
この年4月12日に、日本科学技術振興財団(12CH)が開局しました。現在のテレビ東京です。この開局により中央のキー局も5局となり、現在の5ネットワーク体制が整う事となりました。

1965年(昭和40年)

ラジオネツトワークの発足
この年は我が国の民放ラジオネットワークが結成された大きな転換の年でした。現在はAM・FMが併存するネットワークが確立していますが、この当時はAMラジオのみの時代で、5月2日には東京放送をキーステーションとする[JRNネット]が結成され、34局が加盟しましたが、翌3日にはニツポン放送・文化放送を中核とする40局加盟の[NRNネット]が結成され、ラジオの二大ネツトワーク体制が確立されました。
北海道地区では、HBCラジオがJRN・NRNの両ネツトワークに加盟し、STVラジオはNRNに加盟しました。

1966年(昭和41年)

新三種の神器
1960年代に入り[大量消費時代]を迎えましたが、是を大きく支えたのはテレビを中心とした電波広告でした。この面では広告の持つ社会的責任も大きく、このことが前述した各社の[放送基準]の制定に繋がり、広告についても[広告基準]が設けられる処となったのです。この年、この大量消費時代を表徴するキーワードとして登場したのが[新三種の神器]です。カー、、クーラー、カラーテレビが人々に大きな夢を与え、生活のステイタスとして大きな人気を博したのです。
北海道民放のカラーテレビ放送
我が国のカラーテレビ放送は、1960年9月10日に始まりましたが、北海道地区に於いてもこの年、1966年3月20日、HBCテレビがカラーテレビ放送をスタートさせました。いよいよ本格的なカラーテレビ時代の到来です。

1967年(昭和42年)

UHFテレビに予備免許交付
是までのVHFテレビに対してUHFを使ったテレビ放送の議論が高まる中、11月1日には郵政省が15社に対しUHFテレビ局開設の予備免許を交付しました。是により全国各地でのUHF新局を巡る動きは急速に慌ただしさを迎えました。北海道地区でも翌年の開局に向けての動きが加速されました。
カラーテレビ受像機
11月13日、電子機械工業会はカラーテレビ受像機100万台突破を発表しました。カラーテレビの需要と供給が共に伸長する中でテレビの広告メディアとしての位置は更に高まってきました。このようなテレビ広告の需要の増大が、是までのスポット広告の放送枠にも影響を与え始めました。東京放送は是までのスポツトの放送枠を45秒から60秒に拡大して供給面での受け皿作りに新しい道を作りました。(広告主が使うテレビ広告には、番組コマーシヤルとスポツトコマーシャルがありますが、スポツト広告とは、番組と番組の間の時間を使ったコマーシャル放送の事です)。

1968年(昭和43年)

北海道地区にUHFテレビ局開局
11月3日、北海道地区第3番目のテレビ局、北海道テレビ放送(HTB)が開局しました。前年のUHFチヤンネルの割り当てを受け、北海道地区での新局開設申請は7社有りましたが、政治的な話し合いで1本化に成功して開局に漕ぎ着けました。同社は全国朝日放送とネットワークを締結したUHFテレビ局です。
同社は初めてのUHFテレビ局のため、テレビ視聴の為にはコンバーターが必要でした。そのためのコンバーターの普及活動も経営的には大きな課題で、グループ企業をあげてその販売に大変な努力が注がれました。テレビ放送が始まった際のHBCの受像機販売拡大、そしてこのUHFコンバーターの普及、そして間近に迫った地上波デジタル放送への受像機対応など、視聴者のパイを拡げる為には時代時代の対応が求められています。

1969年(昭和44年)

テレビ初の宇宙中継
この年は宇宙中継など未知の世界への探索にテレビ映像は視聴者に多くの感動と夢を与えてくれました。7月21日[アポロ11号]は、人類初めて月面に一歩を踏み出しましたが、続く11月19日には[アポロ12号]による月面からの宇宙中継に成功しました。テレビの画像を通じて国内ばかりでなく、全世界更には宇宙までも繋がるスケールの大きさに改めて映像メディアの強烈さを認識させられました。