総合博物館前の中央道路を更に北に進むと次のような表示があります。
(註)左図の赤○は西方向
新渡戸稲造胸像は[花木園]入り口正面に建立されています。

[花木園]

案内ボードに記述されているようにこの花木園はその名の通り花、木、造園学などの教育実習の目的で設けられているもので,北国に多く見られる花木が自然風に植えられています。そのため、野生味を残しながら観察しているとのことで、自然林の中に遊歩道が設けらています。園内の樹木には夫々名前が付記されています。
下図は下花木園内の様子です。







また、この園内では[クロユリの群生地復元]の活動が展開されています。満開の時期が難しく撮影時はいずれも時期はずれで満開の写真を撮る事が出来ませんでしたので[さっぽろくろゆり会]の栗野崇志さんが撮影された写真をお借りしました。また、活動の歴史などは同ホームページの記事を引用させていただきました。
群生地ができるまで
クロユリ群生地は北大美術部 黒百合会の創立百周年行事の一環として造成されました。かつては構内の至るところで自生していたクロユリですが、昭和初期を境に見られなくなってしまいました。このため、会の発足当時の風景をよみがえらせようという主旨で群生地復元の活動を始めました。黒百合会の百周年(2008年)で開花が見られるようにするため、開墾は2005年に行われました。翌2006年にはクロユリが開花し、以後、毎年の開花が確認されています。
クロユリ群生地
北大黒百合会の創立百周年(2008年)を記念して、北海道大学構内にクロユリ群生地を復元しました。
開花期間は毎年5月中旬〜6月上旬です。学生会員とOBが協力して群生地の管理・記録を行っています。
写真左2014年5月24日撮影。満開時の群生地     写真右2009年5月25日撮影。満開時の群生地


満開時の写真です。左は2007年6月2日撮影。右は2007年5月30日撮影。[曇天の柔らかい光では紫がかって見える]。




写真左は2016年5月22日撮影。クロユリとポプラ並木。
写真右は2016年5月22日撮影。[満開のクロユリで日差しが強いと黒く見える」.

<ポプラ並木>
北大と言えば[ポプラ並木]と言われるほどここは札幌を代表する観光スポットの一つです。北大のポプラ並木の始まりは1912年(明治45年)林学科の学生による植樹ですが、これより先1903年(明治36年)森廣がアメリカから数本の木を持ち帰り植樹しました、その後1911年(明治44年)新渡戸稲造に同行してアメリカに留学した南源三が農場の風除けのためポプラを購入して持ち帰った苗を先述の様に林学科の学生が森の移植に加えてポプラの並木を形成させてきました。これまで1954年(昭和29年)の洞爺丸台風、1959年(昭和34年)の台風によって蒙った被害は復旧しましたが、2004年(平成16年)9月8日北海道を襲った台風18号による被害は甚大で並木50本のうち20本が倒壊しました。下図は被害に遇った翌年2005年6月に撮影したものです。


その後大学が総力を挙げて復旧に取り組んだ結果現在はかっての姿を取り戻しています。(註)左・中は2016.6.2日撮影。右は[平成ポプ ラ並木]で2000年から整備が始まりました。



<大野池>
中央ローンから流れ出たコトニサクシュ川が、百年記念館の脇から中央道路を横切り工学部側で池に流れています。この名前の由来はこの池の周囲の環境整備に貢献した工学部長だった故大野一男先生に由来するものです。この池はキャンパスを訪れる人々の憩いの場でもあり、四季折々変化する水面は写真撮影の格好なピンポイントでもあります。




<晩秋の中央道路と工学部周辺>
晩秋の中央道路は両サイドが黄葉に染まる街路樹が歩道に覆いかぶさっています。工学部本館周辺も赤・黄色に彩られ鮮やかな空間を演出しています。
(註)最下段右の写真は初代の工学部長であった吉町太郎一先生の胸像で工学研究科の前庭に設置されています。
PARTⅡで紹介した新緑の写真と比較してその変化をご確認ください。
工学部本館(1列中央)と周辺の紅葉・黄葉の写真です。1列目右と3列目右の胸像は初代工学部長吉町太郎一先生の胸像です。工学部開学35周年を記念して昭和34年に建立されました。



中央道路の北端は北18条通りと交差する[北18条門]です。工学部と北18条門との間には[放送大学学習センター][情報教育館][高等教育機能開発総合センター][言語部国際メデイア研究科]などの建物が建ち並んでいます。これらの建物の北西エリアには[野球場][ホッケー場][サッカー場][陸上競技場]などのスポーツ施設がありますが、陸上競技場と野球場との中間に[遺跡保存庭園]もあります。このエリアが北大キャンパスの中でもかっての自然がそのまま残っており原始林の中に施設が点在している趣です。最北西には[都ぞ弥生]で有名な[恵迪寮]があります。
<遺跡保存庭園>

北大キャンパスの北端にある[遺跡保存庭園]は、さっぽろふるさと文化百選に選定されていますが、北区の歴史と文化八十八選にも選定されています。左図は北大が配布しているガイドマップです。中央の赤線で囲った部分が[遺跡保存庭園]です。
下記の写真は入り口に設置されている案内板です。此処には大略次のように記載されています。[北大構内にはサクシュコトニ川を中心としてその両側に古代の堅穴式住居跡が多数残されています。この自然林の中には堅穴住居のくぼみがまだ30ヶ所ほど残っており往事の状況を偲ぶ事が出来ます。この地点の遺跡は、昭和27年の調査で古代の村落であり、奈良時代の末から平安時代にかけてのものと判明しています]。

昔この地帯は多数の[泉](アイヌ語でメム)が湧き古代人の漁猟基地で、堅穴式住居跡の標識がそここに建てられています。ここからは擦文土器などが発掘されています。

<恵迪寮>
現在の[恵迪寮]は三代目 でその前身は明治38年(1905年)札幌農学校が現在の北大構内に移転した時に新たに建設された寄宿舎で明治40年に[恵迪寮]と命名されたものです。新寄宿舎は南北2棟建で北11条西7丁目(現在の中央道路来たに向かって右サイドの文学部学棟)に有りました。昭和6年(1931年)北18条に新寮が移転完了し、昭和58年(1983年現在地に新寮が完成しました。
初代が1876年ー1931年、二代目が1932年ー1982年、三代目が1983年ー現在です。
下図は[恵迪寮]に向かう道路ですが道路の両側は原始林です。

現在の[恵迪寮]は時代の流れとともに大きく変化し2棟建てのビルで男女学生が入寮するなど往時の面影はありません。

寮の前庭から見た寮の遠景です。前庭には木村勇樹さんの詩碑があります[俺は寮歌が好きだ! 俺は寮が好きだ!
俺は寮友が好きだ! 俺はみんなで騒ぐのが好きだ! 俺は恵迪を愛している!]。

現北大構内へ移転後の寮が厚別区の[北海道開拓の村]に保存されています。所蔵 北海道博物館

[恵迪寮]への道路脇に[恵迪寮]に纏わる記念碑が建立されています。
<北大寄宿舎跡の碑>
[恵迪寮]に向かう森の中を進と道路脇に[寄宿舎跡の碑]があります。
明治9年札幌農学校の開校にあたり寄宿舎が現在の北1条西2丁目に建設されましたが明治38年には校舎の移転に伴い、寄宿舎は北11条西7丁目(現在の文学部)に移転、昭和58年新寮建設のため取り壊しとなりました。碑は、日高産の石で出来ており、[寄宿舎跡の碑]という碑文には恵迪寮の由来が当時の有江学長によつて書かれています。

<都ぞ弥生碑>
北大と言えば[都ぞ弥生]の寮歌は大変有名です。写真は、[都ぞ弥生]の歌碑です。この歌碑が北大構内の北のはずれに建立されています。この碑は昭和32年9月24日に建立されましたが、永い歴史の中で風雪に晒されたため、2007年に現在の新しい碑に取り換えられています。

北大構内には[恵迪寮]以外にも寮に纏わる碑が建立されています。左図は[記念碑 楡影寮]です。この碑もかって北大構内にあった寮の記念碑です。碑面には[ここに僕らの棲み家があった ここで学んだ 語った 歌った そして時が流れた  楡影の青春を偲んで オバンケルの息子たち]と書かれています。右図は[桑園学寮記念碑]で北大構内農学部校舎南側のテニスコートの側、オニグルミの木の下に建立されています。碑文には[北海道大学桑園寮は、昭和24年札幌市北3条西14丁目に創設され、昭和30年北海道大学構内のこの場所に移転した。昭和58年3月その歴史を閉じたがこの間学部男子学生512名がその青春を謳歌した。 平成11年10月 記念碑設立委員会]。

記念碑ではありませんが[クラーク会館]の東側の[生協会館]の玄関前に[厳鷲寮(がんじゅりょう)発祥の地]と言うパネルが掲示されています。