ダンの往時を偲ぶ展示室

この記念館には展示室が4室あり、それぞれの展示室にはダンの偉業を伝える絵画や写真・遺品などが数多く展示されている。中でも目を惹くのは、一木万寿三画伯が描きあげた油絵である。下左の絵は、畜力による農業を指導するダンが描かれている。右の写真は、窓辺に飾られているエドウィン・ダンのブロンズ像(作者は峯孝氏)

[歴史をつづるパネル]


(註)下記の写真は記念館展示室の展示パネルから転載したものです。
これは真駒内開拓に尽くしたエドウィン・ダンの種畜場の写真です。
ダンは1876年来札して真駒内を種畜場建設の場所に選びましたが、その当時の真駒内は原生林に覆われていたと言われています。ダンは直ちに畑33ヘクタールを開墾し、牛64頭を飼育しました。写真に見える[牧柵]は周囲8.600bに及んでいます。又、此処では養豚場も作られる他、家畜のための用水路も造られましたがそれは現在も真駒内の中心を流れています。この種畜場が有った当時の住所は[平岸村真駒内17番地]と記録されています。今の真駒内公園の近くが中心地だった様です。
かっては[定山渓鉄道]が真駒内の側を走っていました。定山渓鉄道が設立されたのは1915年で、豊羽鉱山の経営者久原房之助氏によって約2年11ヶ月の工事を終えて1918年10月、函館本線白石駅(当時)と定山渓迄の30qの営業が開始されました。開業当時は真駒内に駅がなく、白石、豊平、石切山、藤の沢、簾舞、定山渓の6つの駅のみでした。この写真は昭和41年に撮影されたものですが、この鉄道もその後東急の傘下に入るなどの歴史的変遷を経ましたが、オリンピック開催で地下鉄も開通するなどの環境の変化で1969年10月廃止となりバス運行に切り替えられました。
真駒内地区はエドウン・ダンが建設した種畜場でその当時の戸数は70戸と記録されていますが、その後戦争が終わりアメリカ軍に真駒内全域2800ヘクタールが接収されました。1950年に朝鮮戦争が勃発したためその後逐次変換され、一部は自衛隊の基地になりましたが、1959年にはアメリカ軍の接収が全返還されています。この間人口の増加と住宅需要に対処すべく、道が中心となって住宅約5000戸、人口2万人の団地造成が進められる事となり、昭和34年から昭和40年にわたり工事が進められました。真駒内も開拓当初は平岸村でしたが、1922年には札幌郡豊平町字平岸真駒内となり、区制施行後現在の南区真駒内となっています。右の写真は造成が終わった昭和42年9月に撮影されたものです。
開業当時は真駒内には定山渓鉄道の駅が有りませんでしたが、その後1920年4月に駅が出来ました。当時の駅舎は現在の地下鉄真駒内駅の裏側にある[桜山]付近で、真駒内は放牛場があるため此処を避けてこの地帯に電車を走らせ駅舎もこの場に作った様です。従って当時の駅は真駒内の町はずれに出来たという事になります。右の写真は桜山方向から撮影したもので、前方に見えるのは藻岩山などの藻岩連山だと思います