札幌の街を歩いていると意外な場所で先人たちの生誕地や居住地跡の案内標識に出会います。現在では有島武郎邸を除いて殆ど当時の様子を留めていませんが、近代的な大都市のなかでかつての先人たちの生誕地や居住地を知り、往時を偲ぶのも札幌の今昔を知る上で大変興味深いものです。


先人たちの居住地

現在の札幌市にはかっての先人達が居住していた事を示す案内板が幾つかあります。現在判かっているものでは、クラーク博士、新渡戸稲造、宮部金吾、有島武郎そして石川啄木の下宿跡等です。

W・S・クラーク博士

中央区南2条東1丁目創成川河畔の住友生命札幌中央ビル前に[クラーク博士居住地跡]の案内板があります。

案内板には大凡次のように書かれています[明冶9年(1876年)7月31日、W・S・クラーク博士が札幌農学校の初代教頭として米国から札幌の地に赴任した。宿舎は、ここ南2条東1丁目にあった開拓使本陣と呼ばれる建物である。宿舎の役目を持つ本陣は、明治5年に竣工し建築面積800uの木造平屋建ての当時としては最大の建物であった。8年からは主にお雇い外国人用として使われ土木工学技師ホイラーなども居住していたが12年に焼失した。クラーク博士は終始この本陣に居住し、ここから農学校の開校式に臨み又、建築間もない札幌の様々な施設などを視察している。明治10年4月16日、クラーク博士は本陣前で馬上の人となり札幌に別れを告げ帰国した]。


本陣前で別れを告げる農学校の教職員(左)クラーク博士の肖像画(右)写真所蔵 北大付属図書館。




写真は明治4年本陣竣工前に本陣建設地から西方を俯瞰したものです。前方に藻岩山が見えます。手前は大友堀(現在の創成川)です。
最初の創成橋です。橋の後方に見えるのが本陣です。
写真所蔵 北大付属図書館。


新渡戸稲造博士



中央区北3条西1丁目全日空ホテルです。ここの正面玄関前に[新渡戸稲造居住跡]の案内板があります。
案内板には次の様に書かれています[戦前に国際連盟事務局次長を務めるなど国際的な活動で知られる新渡戸稲造は、明治10年(1877年(に内村鑑三等と共に札幌農学校の二期生として入学し14年に卒業した。24年に教授として再び札幌二戻った。当時この一角(北3条西1丁目-2丁目)は、農学校の宿舎が四棟並び、着任した新渡戸夫妻は二号官舎(北3条西2丁目)に住んだ。26年11月には一号官舎(北3条西1丁目)に移り、30年に札幌を去るまでこの家を本拠として多方面に活躍をしている。29年には札幌農学校に編入した有島武郎が新渡戸宅に寄宿し、新渡戸の去った後も34年まで住んだ。又、官舎にはブルツクス等の外国人教授の他植物園創始者である宮部金吾も居住していた]。


パネルに表示されている官舎です。二階の窓から顔を見せているのが新渡戸夫人だそうです。


全日空ホテルと創成側を挟んで東の現在のJR札幌病院の一角に官舎がありました。

宮部金吾

植物博士として、又、北大植物園生みの親として良く知られている、宮部金吾(みやべきんご)は、学者としてのみならず札幌市発展の功労者として1924年(昭和24年)7月10日、札幌市名誉市民第一号の称号が贈られています。宮部金吾は、1860年(万延元年)江戸で生まれ、1881年(明治14年)札幌農学校を卒業、2年間東京大学に派遣され、帰校後は札幌農学校の助教授を拝命し、植物園の開設を命ぜられています。博士は、生涯を植物の研究に捧げられましたが、敬虔なクリスチャンとして札幌独立教会を創立しその維持発展にも尽力を尽くされました。1947年(昭和22年)3月16日、満90才で他界されました。宮部金吾は、大正末期に現在の中央区北6条西13丁目に住んでいました。この一帯は[桑園博士村]と呼ばれ、当時の著名な北大の教授連が一つの集落を形成しており、現在も当時の面影を遺した邸宅がその姿を留めています。宮部金吾博士の邸宅跡地は[宮部記念緑地]として保全されています。下図は、公園内に設置されているパネルです。所蔵 北大付属図書館
パネルには大凡次の様に記述されています。
[この公園は、北方植物の世界的権威として内外に優れた業績を遺された故、宮部金吾博士を記念して、その住居跡地を札幌市が取得し、都市緑地として整備したものです。宮部博士は万延元年(1860年)江戸下谷で生まれ、札幌農学校を卒業、ハーバード大学に留学し菌類学を専攻するかたわら千島植物史を編集出版、一躍世に知られるところとなりました。帰国後は札幌農学校の教授となり、明治32年、その創設に尽力された付属植物園の初代園長となりました。昭和2年、退官と同時に北海道帝国大学名誉教授の称号を贈られ、昭和21年文化勲章を受章、昭和24年には札幌市名誉市民の第一号となりましたが、昭和26年3月、惜しまれつつ91才で永眠されました]。

北7条通に面して緑地の表示があります。

北7条通緑地のすぐ側にバスの停留所があります。
案内ボードによると[宮部博士がこの土地に移り住んだ大正末期の札幌市の街並みや川の流れを舗装の模様と水路で表現した]と記述されています。

又、この緑地には宮部博士縁の[クロビイタヤ][オオバボダイジュ]等を遺す様に配慮されているとの事です。緑地内はこれらの樹木が繁茂し静かな佇まいを見せています。

有島武郎

有島武郎の居住地跡は現在の白石区菊水1条1丁目と北区北12条西3丁目の二ケ所にあります。1ケ所は、豊平川に架かる[一条大橋]と[豊平橋]の中間地に位置する白石区菊水1条1丁目河岸公園の中に案内板があります。また、2ケ所目は北区北12条西3丁目のビルの敷地内に[有島武郎邸跡の碑]が建立され、案内板もあります。(詳しくは[札幌の文化財 旧有島武郎邸]をご参照ください。[旧有島武郎邸]



有島武郎は明冶43年(1910年)から翌年の明治44年(1911年)7月までここに住んでいました。現在は、厚別区の開拓の村に保存されています。北海道立 開拓記念館所有




有島武郎は、大正2年8月新しく落成した住宅に引っ越しています。建物は現在芸術の森に保存されています。

石川啄木下宿先

北区北7条西4丁目北大通りで北大正門に近い、札幌クレストビルのエントランスに[石川啄木下宿跡]があります。ガラスのケースに収められた[石川啄木胸像]が台座の上に置かれ、横には札幌市の案内ボードが並べられています。


案内板には次の様に書かれています[詩人石川啄木が函館から札幌入りしたのは明治40年(1907年)9月14日の事である。札幌停車場に午後1時過ぎに到着した啄木は、詩友向井夷微等に迎えられ彼らの宿でもあった、北7条西4丁目4番地田中サト方の住人となった。時に21歳ここはその下宿があった場所である。滞在2週間で慌ただしく札幌を去るが勤務先の北門新報に[札幌は誠に美しき北の都なり]の印象記を残しまたしても小樽・釧路へと放浪の旅に出た。
又、胸像の台座には、啄木の[秋風記]が刻まれています。[札幌はまことに美しき北の都なり。始めて見たる我が喜びは何か例へむ。アカシアの並木を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ。札幌は秋風の國なり、木立のまちなり、おほらかに静かにして人の香りよりは樹の香りこそまさりたれ。大いなる田舎町なり。しめやかなる恋の多くありそうなる郷なり、詩人の住むべき都会なり]。