札幌の交通


馬車鉄道時代

現在の札幌は、地下鉄、市電、バスと交通アクセスも充実していますが、その原点を探ると最初の交通手段 は[馬鉄]でした。札幌は、明治2年開拓使によって札幌本府の建設が進められましたが、この時代は[駄馬]の時代でした。札幌にはじめて馬車がお目見えしたのは明治8年の事です。[馬鉄]とは、馬車鉄道の事です が、明治7-8年にかけて、石山での軟石の採掘が始められたのが大きなきっかけとなりました。明治12年には木造の開拓使本庁舎が焼失たため。石造りの建築が奨励され、軟石の需要も高まり馬車鉄道開通の機運も 高まる中、明治37年には[札幌石材馬車鉄道合資会社]が設立されました。この後明治42年7月には株式会社に変更し、石才の運搬の他に乗客の運搬も行う事としましたが、既に敷設されていた、平岸村穴の沢から藻 岩村山鼻(現在の南2条西11丁目)間での[客馬車]の営業をスタートしました。更に明治45年には社名も[札幌市街馬車軌道株式会社]と改め、札幌区内の各地域に路線を拡張し、馬50頭、馬鉄18台が常時運行していま した。したの写真(左)(中)藻南橋の欄干に設置されているレリーフです。(左)軟石採掘現場(中)馬鉄。写真(右)は、市街を運行する馬鉄 所蔵札幌市交通局

軟石採掘場馬鉄

定山渓鉄道開通

定山渓鉄道の歴史を振り返ると、1913年(大正2年)、2月13日、鉄道敷設の申請が提出され、大正4年設立された[定山渓鉄道株式会社]により、翌々年の大正6年4月6日に工事が始まり、翌年の大正7年10月17日には、白石-定山渓間の運行が開始されました。定山渓鉄道(定鉄)の開通によって定山渓温泉の知名度も高まり、札幌の奥座敷として利用客も増大する中で順調に推移してきました。札幌-定山渓温泉間の沿線宅地の開発も大いに進んだのも鉄道の大きな功績でした。その後の経過は、1957年(昭和32年)東京急行電鉄が定山渓鉄道の筆頭株主となり、東急の傘下に入りました。結果、1969年(昭和44年)11月1日、これまでの全線が廃止され、バス運行に転換しました。写真は電化後のものです。(写真は、Aworks h・Sさんのアルバムからお借りしました)。



札幌市電の開通

[馬鉄]時代に終わりを告げ、電車時代を迎える最大のきつかけとなつたのは、大正7年夏に札幌・小樽で開催された[北海道開道50周年記念博覧会]でした。このような世論を背景に、[札幌市街馬車軌道株式会社]は、大正5年10月には、[札幌電気軌道株式会社]と改めて電車による経営に乗り出す事を決定して、大正7年4月に工事に着手しました。博覧会開催に間に合わせるべく工事が進められましたが、開幕日には間に合わず、8月12日に運行を始めました。当初の路線は[南1条西14丁目-東2丁目][北4条西4丁目-中島公園][南4条西3丁目-東3丁目]でした。その後路線も順次拡張しました。大正11年に市制が施行され、電車の公益性に鑑み市営の方針が決まり、大正15年12月1日買収の仮契約が成立し、昭和に入った昭和2年12月1日、市営電車としてスタートすることとなりました。このときの営業路線は16.3キロメートル、保有車両63両でした。市電開通の契機となったは博覧会の開催でした。写真(左)札幌停車場前の歓迎アーチ、(右)は、メイン会場の中島公園正面ゲート。写真は 所蔵 札幌市 交通局



(左)市電開通後の駅前風景、(右)、三越前を通過する市電の様子。