冬季オリンピック札幌大会

オリンピツク開催決定祝賀パレード
1966年(昭和41年)4月26日は、札幌市民にとって忘れる事の出来ない日でした。この日ローマで開催されていた第64回[IOC総会]で、札幌は72年の冬季オリンピックの開催地に決定しました。この大会には、バンフ(カナダ)ラ八チ(フインランド)ソルトレーク(アメリカ)というライバルが立候補していましたが、札幌はこれらの強豪を破って積年の夢を達成する事が出来ました。札幌は、1940年の第5回冬季オリンピック開催が決定していましたが、日華事変のため大会を返上した経緯があります。それだけに今回の決定には市民挙げて喜びも最高潮に達しました。この決定を受けて、各競技場を始め都市整備は急速に進めら札幌の近代都市化は大きく前進しました。
(写真は、北海道放送社史より転載しました)
開催事前イベント雪と氷と幻想 武道館
[オリンピックを成功させよう]というキャツチフレーズのもと官民挙げての様々なイベントが展開されました。札幌ばかりでなく首都圏でも馴染みの薄いウインタースポーツのPRとオリンピックへの関心を高めるためのイベントが展開されました。中でもテレビの全国中継はPRに大きな役割を果たしました。写真は、開催1年前、武道館で開催された[グランドショー雪と氷と幻想と]です。
[第11回オリンピック冬季競技大会札幌大会]は、昭和47年(1972年)2月3日から2月13日まで札幌で開催されました。参加国35国で6競技35種目で熱い熱戦が展開されました。開会式は真駒内の屋外競技場(オープンスタジアム)で開催され、快晴に恵まれた冬空に聖火がともされ、会場を埋め尽くした観衆は世紀の祭典に酔いしれたものです。当時の北海道新聞写真からこの感動を蘇らせたいと思います(この時代は、特集版を除いてまだカラー化されずモノクロ写真時代でした)。
札幌オリンピツクの華は、ジヤンプ70b級の金・銀・銅メダルの独占という快挙でした。3本の日章旗が翻ったのは、宮ノ森ジヤンプ競技場でした。スタンドは興奮の坩堝と化し、君が代と共に青空に昇る3本の日の丸に我を忘れて歓喜の声を挙げたものです。

開会式での入場行進(昭和47年2月3日北海道新聞夕刊)

開会式の航空写真(昭和47年2月3日北海道新聞夕刊)

開会宣言される天皇陛下(昭和47年2月3日北海道新聞夕刊)

観戦される皇太子殿下・妃殿下(昭和47年2月14日北海道新聞朝刊)

閉会式(昭和47年2月14日北海道新聞朝刊)


虹と雪のバラード碑
札幌オリンピツクの華は、ジヤンプ70b級の金・銀・銅メダルの独占という快挙でした。3本の日章旗が翻ったのは、宮ノ森ジヤンプ競技場でした。スタンドは興奮の坩堝と化し、君が代と共に青空に昇る3本の日の丸に我を忘れて歓喜の声を挙げたものです。大倉ジャンプ競技場の正面には、2004年亡くなった詩人の川邨文一郎さんが札幌冬季オリンピツクのため作曲した[虹と雪のバラード]の詩碑が建立されています。この詩碑は、歌詞を記した黒御影石の銘板と、ギリシア神話の勝利の女神[ニケ像]をモチーフにした、高さ2.5メートルの翼の形をしたモニュメントで国松明日香さんが制作されたものです。

雪華の像
オリンピツク開催を記念して[五輪大橋][五輪小橋]の欄干には8基の像が建立されています。この像は[雪華の像]でオリンピツクのメイン会場となつた真駒内公園に建てられています。北海道が生んだ彫刻家本郷 新さんの作品で、オリンピックをイメージして作られた高さが12 メートルもある像です。台座の上には2人の女神がオリンピツクを祝福するような躍動的なポーズです。二人が持っているのは金色の月桂樹です。

大倉山ジヤンプ競技場真駒内アイスアリーナー真駒内屋外競技場