大倉シヤンツェから大倉山ジヤンプ競技場へ |
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大倉シヤンツェの誕生(昭和6年) |
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札幌冬季オリンピツクを始め数々の国際大会を繰り広げ、幾多の名ジヤンパーを輩出した現在の[大倉山ジャンプ競技場]は、かつては[大倉シャンツエ]と呼ばれていました。このジャンプ台は、昭和3年に秩父宮から世界的なシャンツェの建設についてお口添いがあり、大倉喜七郎男爵が私財を投じて建設することを快諾し、昭和6年大倉土木株式会社(現大成建設)が工事を引き受け60メートル級のシヤンツェが完成しました。完成後は札幌市に寄贈されました。これまで市内には荒井山などにジャンプ競技施設がありましたが、大倉シャンツェの完成で本格的なジヤンプ競技が展開出来る様になりました。 写真は、昭和11年当時の大倉シャンツェの様子です。この後競技レベルの向上に伴いK点の延長、リフトの設置など施設の整備が図られましたが、本格的な改修は、昭和47年の冬季オリンピック開催が契機となりました。昭和45年からは国費が投入されて本格的なジヤンプ競技場の大改修が行われました。 (上記の写真は北海道放送社史より転載しました) |
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大倉山の歴史に残る二人の先駆者 |
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[大倉喜七郎男爵顕彰碑]
現在の大倉山ジヤンプ競技場は、昭和47年の札幌冬季オリンピツクのため改修して新しくなりましたが、その歴史は古く昭和3年秩父宮殿下のお声かがりで建設が決まり、大倉喜七郎男爵の寄付により完成しました。ジヤンプ場は昭和7年に完成しましたが、総工事費は5万円余といわれています。翌昭和7年に開場式が行われ、大倉男爵の好意に報いるため[大倉シャンツェ]と命名されました。[大倉シャンツェ]の名前は現在も愛称として広く親しまれています。この顕彰碑は、ジャンプ場のリフトの側に建立されています。 大野精七博士顕彰碑]
この碑は、北海道スキー界の発展に多大の功績を残された、大野精七博士の功績を称えて先生と縁の深い大倉山ジヤンプ競技場に設置されています。大野博士は医学界の重鎮でしたが、スキーの面でも良く知られた方で、歴史を重ねている宮様スキー大会生みの親でもあります。また、昭和47年の札幌オリンピツク成功の影の功労者でもあります。博士は、昭和57年12月97歳で逝去されましたが、碑はこの年3月に建立されています。 |
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大倉山ジヤンプ競技場 |
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