北大キャンパスが連なる[北大通]は、正式には[西五丁目樽川通]です。地下鉄開通前はこの道路を市電が走行していましたが、地下鉄開通後はバス路線に切り替えられました。北大キャンパスへのアクセスは、地下鉄北12条か北18条です。
札幌駅北口北7条通りを少し西に進むと西5丁目、[西五丁目樽川通]に出ます。写真の奥(南方向)に高架が見えます。先に紹介したようにこの処にかつては跨線橋が架かつており、ここを市電も走っていました。国鉄函館本線の踏切のため常に渋滞する道路でしたが高架化により現在では車もスムーズに流れている様です。この路線橋の北側には大型家電店や書店が店舗を構え、さながら札幌の[秋葉原]といった趣です。札幌駅前の旧西武百貨店の跡地に絡んでこの地区の大型店舗にも変化が見られるかも知れません。
石川啄木の下宿跡
[西五丁目樽川通](北7条西4丁目)のビルの1階エントランスに[石川啄木下宿跡]があります。ガラスのケースに収められた[石川啄木胸像]が台座の上に置かれ、横には札幌市の案内ボードが並べられています。石川啄木が函館から札幌に入ったのは、1907年(明治40年)9月14日で午後1時頃札幌停車場に着き詩友とともに落ち着いた先が、この場所(北7条西4丁目田中サト方)でした。彼が満21才の時でしたが、札幌滞在2週間で小樽へ移りました。
胸像の台座には、啄木の[秋風記]が刻まれています。[札幌はまことに美しき北の都なり。始めて見たる我が喜びは何か例へむ。アカシアの並木を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ。札幌は秋風の國なり、木立のまちなり、おほらかに静かにして人の香りよりは樹の香りこそまさりたれ。大いなる田舎町なり。しめやかなる恋の多くありそうなる郷なり、詩人の住むべき都会なり]。
この5丁目通りを北に進むと左手一帯は北大のキヤンパスです。北大正門前です。正門からキャンパスを見ると中央ローン一帯は緑濃い樹木で奥を眺望する事が出来ません。正門のすぐそばに[新撰組 永倉新八来訪の地]碑が建てられています
ここには大凡次の様に書かれています[新撰組の永倉新八は、徳川幕府崩壊後は杉村義衛と改名して剣道の指南に努めた。晩年には北大剣道場でも指南している。新八ゆかりの道場は、現北大本部(写真のビル)の北西にあった。新八は大正4年小樽市で77才の生涯を終えた]。(註)小樽市中央墓地に彼のお墓があります)。上図は、歩道に埋め込まれたレリーフです。
正門から北へと歩を進めます。左手一帯は緑の木の間からキヤンパスの建物が顔を見せていますが、都心の中の原始林的なイメージが漂よいます。道路を挟んで向かい側は、かつては学生相手の飲食店、古本屋なとが店を並べ学生街の様な町並みでしたが、今は大きく変わりビジネスホテル、マンション、コンビニになど時代を反映する町並みとなつています。
この碑は、北12条西3丁目の一角に建てられています。有島武郎は大正2年8月札幌に永住を決意してこの地(北区北12条西3丁目)に自宅を新築し、大正13年11月に妻安子の病気療養のためこの地を去るまで住んでいました。洋風の洒落た家で、その後長男行光(森雅之)主演の映画のロケにも使われました。
北8条西5丁目から北24条周辺まで広がる北大キャンパスです。下図は構内マップです。
路線バスの停留所[北大病院前]です。市電がなくなりこの通りは市の北の地域と繋がる路線バスが走っています。この道路と平行して近くには地下鉄[南北線]も走っており、この場所は[地下鉄北12条]と[北18条]の中間地点といえましょう。東側一帯は事務所、マンション、商業施設が軒を連ね、古い住宅は殆ど姿を消して新しい町並みを形成しているようです。
地下鉄南北線(大通ー麻生)
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