|
豊平橋の歴史は古く最初に架けられたのは明治4年(1871年)である。この時代、豊平川と深い関係にあった人物の一人として志村鐵一氏を挙げる事が出来よう。安政2年(1855年)幕府は蝦夷地を直轄地として箱館に奉行所を置き、石狩に[調役]を設けた。三代目の調役荒井金助氏は豊平川の右岸に志村鐵一、左岸に吉田茂八両氏を渡し守として住ませた。渡し船の位置は現在の豊平橋の付近と言われている。現在豊平橋右岸の小公園(ルネッサンスホテルに近接)に[志村鐵一碑]が建立されているが、この碑は昭和42年(1967年)に志村氏の住宅の遺跡から移されたものである。
[志村鉄一碑]とは対照的に幌平橋の左岸の小公園の中に[吉田茂八碑]が建立されている。碑文によると吉田茂八氏は南部に生まれ、安政2年渡道し同4年、志村鉄一氏の話相手として左岸の渡し守となった。資質温厚にして剛胆、狩猟を得意として後年には創成川の南3条から南6条の堀割工事を請け負っている。このためこの堀割を[吉田堀]とも呼ばれている。
最初の豊平橋(明治4年1871年)
最初の橋は丸太を並べた極めて粗末なもので、相次ぐ風水害で幾度となく流失を余儀なくされた。最初の橋も完成後三ケ 月で流される。このため掛け替え工事が頻繁に行われた。
所蔵 北大付属図書館
ホイラーが修復した橋(明治11年1878年10月)竣工
所蔵 北大付属図書館
明治13年発行されていた[北門時事]にはこの橋を評して次の様に書かれている。
[豊平川に於いては縹緲霓虹(遠くはるかに見える様子はまるで虹の様だの意味)の如く広壮無比の釣り橋を見ては札幌第一の大観である]
資料<豊平川の橋物語 財団法人 石狩川振興財団発行を参照しました。
大正初年の豊平橋の全景
所蔵 北大付属図書館
|
|