地下鉄[琴似駅]の次は[発寒南駅]で、最西の駅は[宮の沢駅]です。これらの駅はいずれも[二十四軒手稲通]の下を走行していますが、[宮の沢駅]前は、この通と交わる[西野屯田通]が走っています。[西野屯田通]は、西区西野6条3丁目(手稲左股通交点)を起点として左図のように[北1条宮の沢通][山の手通][北5条手稲通』[二十四軒手稲通]と交差しながら北進を続け、北区屯田6条10丁目(東15丁目屯田通交点)を終点としています。
この幹線は、[西野][宮の沢][発寒][新川][新琴似][屯田]などの地域を縦断しています。かつての屯田兵を中心として開拓が進められた地域で当時開削された道路がベースになって現在の姿になっています。この通は9.1キロの長さの通りです。[宮の沢駅]は、路線バスのターミナルとして各方面の路線が運行しています。下図は、宮の沢バスターミナルです。
[宮の沢駅]を中心にして走行している[西野屯田通]と[二十四軒手稲通]の姿です。上段左図は、[西野屯田通]の新琴似方面、右図は、西野方面に向かう道路です。下段左図は[二十四軒通]の手稲方面、右図は、琴似方面に向か
う道路です。
[宮の沢駅]の地上に上がるとタクシー乗り場と大型商業施設[SEIYU]です(写真下左図)。下右図は、札幌市の生涯学習センター[ちえりあ]です。2000年8月に開館しましたが、建物は6階建てで、ホールを始め各種の研修施設などを完備した、まさに市民学習のセンターです。地下鉄から地下通路でつながりアクセスも大変便利な場所にあります。
[seiyu]や[ちえりあ]を右手に見ながら[西野屯田通]を進と間もなく[北5条手稲通]にでます。写真下左図は、札幌方向からの車の流れです。写真下右図は、逆に札幌方向に向かう車の流れで、写真の左手の赤いレンガ建ての建物が[白い恋人パーク]です。
[白い恋人パーク]
[白い恋人パーク]は、石屋製菓[白い恋人]の製造工場の他、おもちゃの展示室や、ローズガーデンなど古典的な建物と見学コースの充実で、札幌の観光スポットとして脚光を浴びています。建物の外観はヨーロツパ調のデザイン
が施されています。
隣接する[サッカー場]から見た全景です。
[白い恋人パーク]に隣接して[コンサドーレ札幌宮の沢サッカー場]があります。このサッカー場は、2000年10月に完成したコンサドーレ札幌の専用グラウンドです。グラウンドには、芝ヒーティングシステムを採用し、ヒーティング用のパイプが埋め込まれています。3月中旬から12月中旬まで使用が可能ということになっています。夜間照明付きで、見学者用の固定椅子席も設置されています。クラブスポンサーの石屋製菓が土地を購入し造成しました。
[白い恋人パーク]を離れ、再び[西野屯田通]に戻ります。今度は南に向かって歩くと左側の木の陰に[手稲記念館]の建物が見えます。敷地内には[手稲開基百年記念碑]が建立されています。この記念館は、1969年に旧手稲町の開拓の歴史を永く保存することを目的に開設されたものです。現在此処は札幌市西区西町南21丁目で、札幌郊外の住宅地として大きく発展しており開拓当時の面影が残っていませんが、この記念館の中には当時の記録が数多く展示されています。[手稲開基百年記念碑]の碑誌には次のように記載されています。[今ここに手稲開基100年を迎えた。このときに当たり手稲草創の時代より今日まで数代に亘つて厳しい風雪と血のにじむ困苦に堪え、たゆまぬ努力を町造りに捧げられた先人の先達に感謝の誠をこめてこの碑を建立し、以て永く後世に伝えることとした]この碑は、1971年(昭和46年)4月20日に建立されました。
宮の沢は、旧手稲町に属する地域で、明治5年に三木勉をはじめとする旧仙台藩白石城主片倉小十郎家臣の武士たち47戸の集団移住によって開かれました。 前年の明治4年に佐々木重五郎という人の入地の記録がありますが、歴史上は片倉家臣の移住をもって手稲開拓の始まりとしています。 宮の沢という地名は、この地に移住した人々が、中の川の沢地の一角に小祠(のちの上手稲神社)を祀ったことに由来します。
[手稲記念館]
[上手稲神社]
[手稲記念館]の前を更に進むと、右手の小高い丘の上にあるのが[上手稲神社]です。上手稲神社は明治9年仙台藩からの移住者が、現在の宮の沢2条4丁目に小祠を建立して上手稲神社と呼んでいました。現在地に移転したのは昭和40年の事で平成18年は創祀130年を迎えている大変古い神社でもあります。この神社には御祭神として天照大神、須佐之男命が祀られています。社殿の屋根が急勾配で一見教会風な建物と間違えそうなイメージです。
このご神木は、神社が昭和40年現在地に移った後も、西町20丁目の旧神社跡で生育を続けてきた銀杏でしたが、地下鉄の開通のため平成6年に現在地に移植されご神木として崇められています。
写真右図は、神社の境内から、宮の沢駅方面を俯瞰したものです。
[時習館記念碑]
[上手稲神社]から再び[北5条手稲通]に戻り、西町19丁目の[中の川橋]です。この川の周辺が[中の川公園]です。この中に、さっぽろふるさと文化百選に選定されている[時習館記念碑]が建立されています。
橋の麓に[時習館記念碑(手稲教育発祥のち)]の木柱があります。
公園内に建立されている記念碑です。この碑は、手稲町と札幌市が合併を控えた1967年(昭和42年)2月20日に時習館ゆかりの地に建立されました。学制が施行されたのが1872年(明治5年)ですが、この当時札幌には、資生館(現資生館小学校)、善俗堂(:現白石小学校)、そして時習館(現手稲東小学校)の3校がありました。碑の台座には、時習館命名のゆわれが記されています。之によると[学んで時に習う]と言う中国の古語を引用して命名された様です。この時習館の創始者である三木 勉が開いた私塾は、間口4間、奥行き6間の茅葺きの建物で、最初の入学児童は7名でしたが、札幌の学校の嚆矢をなすものとして注目されました。その後児童数も増え3年後には30名に達しています。このような三木 勉と弟の格の献身的な努力が認められ、明治11年(1878年)には[公立上手稲教育所]が創設されその後上手稲小学校(現手稲東小学校)になつています。