東15丁目屯田通と地下鉄沿線


地図[東15丁目屯田通]は、[東区役所駅]から[北13条北郷通]を少し進んだ、北13条東15丁目から北区に入り[屯田町(追分通交差点)]までの約10キロに及ぶ道路です。
この道路下を地下鉄が走り、[環状通東駅][元町駅][新道東駅][栄町駅]があり、この間[環状通][北18条通][宮の森北24条通][札樽自動車道][丘珠空港通]と交差しています。(左図参照) 下図は、東8丁目篠路通(東区役所前)
東8丁目篠路通 東区役所前

地下鉄東豊線[東区役所前]周辺は、東8丁目篠路通に面しており、地下鉄開通以前から市の再開発地域として整備されてきた為、公営住宅(光星団地)など高層住宅が立ち並ぶ都心のような趣の町並みを形成しています。写真下左図は、東区役所で、右図が、光星団地です。

東区役所・区民センター集合住宅が並ぶ街並み

[環状通東駅]周辺

花畔札幌線地図東区役所前を走る[東8丁目篠路通]は、北10条東7丁目で[花畔札幌線]と交差し北12条東15丁目では[北13条北郷通]と交差しています。この線は、札幌市内の北7条東1丁目から石狩市花川北7条1丁目までの20.7キロに及ぶ道路です。この道路は別名で[元村街道]とよばれています。元村街道は明治時代札幌から篠路、丘珠、茨戸の村々をつなぎ石狩川に出る唯一の道でした。1888年(明治21年)に新しい石狩街道が創成川沿に作られたときに、この名前が付けられました。街道沿いの札幌元村に因んで名付けられたものです。[環状通東駅]周辺ではまだ[東15丁目屯田通]との間隔が狭いものの、次第に方向を変えていきます。
[環状通東駅]周辺は、早くから大友亀太郎が開拓した地域だけに、開拓に纏わる史跡なども多くあります。[花畔札幌線]の沿道にある[ 大覚寺]は、[環状通東駅]からは離れていますが、沿道にあることからここで紹介します。

[大覚寺]の歴史は古く明治37年8月16日に開教しましたが、最初は現在の近くで、現在地に創設されたのは明治40年3月12日だそうです。 境内には赤い頭巾を纏ったお地蔵さんが来館者を出迎えてくれます。お地蔵さんを眺めているだけで心が和んできます。

大覚寺大覚寺のお地蔵さん

大覚寺で有名なのは[五百羅漢堂]です。羅漢堂の内部は右左、正面と全面に仏像が鎮座されています。お寺から頂いたパンフレットには次の様な解説がありました。[羅漢]とは正確には[阿羅漢]と言って、インドの古い言葉で(アルハン)と言う言葉を音写した語でこれを日本語で[応供]と訳します。仏道修業の中で功徳を育てる畑となり、あらゆる煩悩を滅し、これ以上学ぶべきことのない覚りの境地に達した尊い方を[羅漢]と言います]。鎮座されている羅漢の表情は実に豊かで喜怒哀楽に溢れ正に生きているかのような錯覚に陥ります。

五百羅漢堂の仏像五百羅漢堂の仏像

林檎の碑[林檎の碑]
[元村街道]沿、北11条東12丁目の個人邸宅の前庭に建立されています。裏面には次のように記されています。
[札幌村元村の林檎は橘仁が此地に定住し苗木を植付せる時より始まる]。仁は東京に於て津田仙氏の学農社に学び明治十七年春、苗木・妻・戸籍を携へ此地に住付き栽培す、適地で順調に生育せる樹は明治二十三年より結実初めて販売す、橘林檎園の誕生なり、隣地の農家にて之を倣ひたる約十名も全て林檎園とし以後十余年は年々収穫を増し当時仁は札幌の林檎栽培の第一人者として知られ北海道果樹協会会長北海道大学南鷹次郎博士の役員を務め全国博覧会に優等賞を受けその果実は宮内省に献上の光栄を担うに至る。其後病害に会い他の農園は全て玉葱に転向せしも仁は再度作付し二十余年の後昭和五年六月十四日仁没と共に林檎園は消滅す。仁が此地に基を定めて百年以上経ち其の孫三十余名は国内はもとより米国伯国に在る今祖父を偲びて此の碑を建立す。 昭和六十一年(一九八六年)九月橘忍誌]

[札幌村郷土記念館]
東区は、大友亀太郎によって拓かれた処です。地下鉄東豊線の環状東駅を降りた直ぐ近くに[札幌村郷土記念館]があります。展示室は1階と2階にあり、札幌村のタマネギ栽培に関する資料や、大友亀太郎の資料、[札幌村]の歴史を一堂に展示しています。

札幌村郷土記念館全景

たまねぎ発祥の地碑
記念館の前庭には[札幌タマネギ記念碑]があります。碑には[我が国の玉葱栽培はこの地にはじまる]と刻まれており、台座の説明文には次のように記されています[日本の玉葱は明治4年開拓使が米国から種子を輸入して札幌官園で試作した後、多くの苦心が重ねられた。明治30年代には札幌村に始まった玉葱は次第に近村に広がり篠路、白石村を含めた大産地となる。札幌特産として全国に出荷されるばかりでなく、広く外国にも輸出されてその名声が一段と高まった]。この記念碑は昭和53年11月に建立されたものです。

[大友公園]

大友公園[大友公園]は、大友亀太郎が慶応3年(1867年)拓いた模範農場[御手作場]跡に作られた公園です。ここは御手作場に水を引く為に掘られた[大友堀]が伏篭川に注いだ場所です。
大友堀の地図
この地図は、[大友堀]の流れの経路を示した地図です。現在の創成川の原点も大友堀です。

下左図は[地図の広場]です。大友堀の全体像が一目でわかるように描かれています。この地図の広場に繋がって、大友堀を再現した小川があります。また、下右図は当時の大友堀の姿です。この堀は深さ1.5b、幅は1.8bで約4qの距離があったそうです。この堀のおかげで田畑の灌水、開拓者の飲料水など農業の開発のみならずライフラインとしても大きな役割を果たしていたのです。
写真右図 所蔵 北大付属図書館

大友公園

[本龍寺]
下左図は[本龍寺]の山門です。どつしりとした風格のある山門をくぐると[妙見堂(下右図)]があります。 慶応
4年(1868年)に建立されたもので、ここには[妙見大菩薩像]が奉安されています。妙見堂のお祭りである[妙見尊大祭]は札幌の祭の中でも最も古い歴史を持った祭だそうです。 入り口に[札幌妙見さまの由来]が書かれた案内ボードがあります。ここには概略次の様に記されています。[当山の妙見堂に奉安する妙見大菩薩の尊像は、右手に金の剣を持つ高さ約2寸の小さな木造で[札幌きりひらき]の二恩人と仰がれる開拓幕史大友亀太郎翁と初代開拓使島義勇判官が、札幌創建の心願成就を祈願した尊い開拓開運の守護神です。大友亀太郎は開拓の激務、心労の為病魔に倒れるも島判官の兜の八幡座に安置されていたこの妙見大菩薩を信仰し、眼病はもとより病気平癒し身体健全、開拓成就の利益を賜った。そのため慶応4年(1868年)この妙見堂を建立してこの尊像を奉祭したものである]。

本龍寺山門妙見堂

札幌村創建百年碑 札幌妙見霊場 島判官、大友亀太郎霊場 大友亀太郎史蹟

写真下図は、[札幌村神社]です。この神社は明治34年に創設され、当初は[札幌神社]とする予定でしたがこの名前では許可がおりずに[札幌村神社]となりました。この神社は大国魂神、大己貴神、少彦名神の三神を祀つています。以前は社殿も北14条東14丁目にありましたが、区画整理により昭和46年に現在地に奉還されています。

札幌村神社札幌村神社社殿

[元町駅]周辺

西15丁目屯田通宮の森北24条通

[新道東駅]

東15丁目屯田通 新道東駅前札樽自動車道

[栄町駅]

東15丁目屯田通丘珠空港線

札幌の地下鉄[東豊線]栄町駅を降り、北42条通(道々丘珠空港線)を10分ほど歩くと道路沿いに[烈々布神社]があります。このあたりはかつて烈々布と呼ばれており、この街道も烈々布街道と呼ばれていました。烈々布は現在の札幌市東区と北区にまたがる広大な地域で、この神社の正面の[日の丸公園]もかつての日の丸農場の跡地です。烈々布神社は、明治22年11月9日に天照皇大神を祀る為の小祠を建立し[烈々布神社]と称したのが始まりです。その後明治26年9月に横山久太郎が発起人となつて札幌三吉神社の祭神である、大穴牟遅神、小彦名神、藤原三吉命の三柱の御分祀をうけて新社殿を造営しました。現社殿は、平成元年に竣工したものです。広々とした境内は整然と整えられすがすがしい雰囲気が漂っています。現在御祭神は、先程の三柱の他に天照大神、倉稲魂神、埴安姫神、誉田別尊、崇徳天皇、菅原道真公が祀られています。

栄町駅から丘珠空港通 烈々布神社

ひのまる公園日の丸農場記念之碑
札幌開拓の先覚者の一人である、松本菊次郎が肥料や農機具の威力を農民に普及させるため自ら農業に従事して[日の丸農場]を経営して開発の発展に力を尽くしました。その農場の跡地である[日の丸公園]は、さっぽろふるさと文化百選にも選定されています。