真駒内通

[真駒内通]は、[石山通]の南36条西10丁目を起点として[藻岩橋(下図)]をわたり、[真駒内][石山][常盤]を通って支笏湖に至る国道453号の別名です。沿線は冬季オリンピックの会場となった真駒内や石山緑地、芸術の森など、歴史・文化の香りが漂う幹線でもあります。

藻岩橋[藻岩橋]は、オリンピツク開催のために作られた橋で昭和44年12月に完成しています。この橋の名前は[藻岩山を仰視する絶好の処にあるからこの橋にこの名前をつけたものである]と[豊平町史]に書かれています。確かにここから見る藻岩山の眺めは素晴らしい景観です。

[藻岩橋]を渡ると真駒内地区です。真駒内本町6では、[中の島通]と合流します。合流して間もなく左手に[曙団地]のマンション群が姿を見せますが、マンションの入り口に[真駒内第一公園]があります。小公園ですが園内には[真駒内神社][真駒内種畜場之跡碑]や、[行幸記念碑][開基百年記念碑]などが建立されています。エトウィン・ダンの時代に明治天皇が巡幸された記録がこの公園や曙公園にも遺されています。

[真駒内第一公園]

真駒内神社この神社は、1898年(明治32年)に馬魂を祀つたことから始まっていますが、1934年(昭和9年)当時の種畜場長が伊勢神宮から天照大神の分神を受けて神社を創始しました。その後、京都の天満宮から勧学の神である天満宮の分霊を合祀しています。祭神は、天照大神、倉稲魂神、菅原道真です。
真駒内神社由来
[真駒内神社]
由来パネル













[真駒内開基100年記念碑]

公園の中に設置されている[真駒内開基100年の記念碑]です。
昭和51年に真駒内も開基100年を迎えこの記念碑が設置されました。この石は日高地方の銘石ですが、開拓の祖でであるエドウイン・ダンが当時日高地方の馬の牧場を任せられており、馬で真駒内と日高を往復していたことに因んで日高の銘石が選ばれたと言われています。

[行幸記念碑]

この碑は明治14年明治天皇が行幸されたのを記念して建立されたものです。

[種牛場跡碑]

この碑は、エドウィン・ダンが開設した[種牛場跡碑]です。この像には[牛と少年]と名付けられ、未開地で将来に向かって大きな希望を膨らませる少年の気迫が迫ってくるような躍動感に溢れた作品です。
[第一公園]の前を南進すると右手に冬季オリンピックの会場[アイスアリーナー]があります。この施設も財政難の折から命名権が売却され、五輪のマークがなくなりスポンサー名入りの表示に変わっています。この建物から以南は広い[真駒内公園]です。

アイスアリーナー真駒内公園標石

真駒内公園は面積85haあり、戦後は駐留軍のゴルフ場として利用されていましたが返還後は公園として整備が進められました。園内には、2つの大きな競技場がありますが1972年に開催された札幌オリンピックのメイン会場として建設されたものです。園内には真駒内川が流れ、公園西側を流れる豊平川と公園北端で合流しています。公園の散策路から藻南公園に通じています。公園内には、ランニングコースや冬期間の歩くスキーコースも設けられ市民の利用も活発です。[真駒内通]の道路の両側はポプラ並木ですが、いずれも永い風雪に耐えて育った巨木で、かつての放牛場の名残を留めています(写真下右図)。

真駒内公園真駒内通のポプラ並木

[エドウィン・ダン記念公園]

エドウィン・ダン記念館[エドウィン・ダン]は、1848年アメリカオハイオ州チリコシで生まれました。1876年ダンは来札後札幌の西部に新しい牧草地を設け300頭を収容出来る札幌牧羊場を開設しています。ダンの功績として高く評価されるのは真駒内放牛場の建設です。1876年建設に着手して翌年からは放牛場としての活動を開始しています。ダンは酪農に必要な搾乳場、乳製品加工場、穀物貯蔵場など多くの施設を作ると共に、真駒内川の上流から用水路を掘って家畜管理用の水を確保するなど畜産分野の基盤整備に努め今日の発展の基礎を築いたのです。ダンが北海道に残した数々の功績は今も尚高く評価されています。今日近代的な都市に発展した真駒内の原点はエドウィン・ダンが築いた放牛場だと言つても過言ではないと思います。写真左図は、[エドウィン・ダン記念館]です。記念館の裏手には[エドウィン・ダン記念公園]が静かに佇んでいます。公園の東側には峯孝氏が制作した[エドウィン・ダン像](写真下中央図)が建立されています。



記念館の裏手には[エドウィン・ダン記念公園]が静かに佇んでいます。この公園は[旧真駒内中央公園]で、真駒内川と[真駒内通]の東側に位置しています。面積は2万4000uで公園の中央には[真駒内用水]が流れ公園内に池を作っています。公園の東側には峯孝氏が制作した[エドウィン・ダン像]が建立されています。

エドウイン・ダン記念公園エドウィン・ダン像牛を引くエドウィン・ダン
農作業衣に身を固め、肩には小牛を背負った逞しさを感じさせる像です。像の台座に[エドウィン・ダン]と刻まれた大理石の盤がはめ込まれ名前の上には上の写真のような[牛を引くエドウィン・ダン]のレリーフが飾られています。


[エドウィン・ダン記念公園]を左手に見ながら[真駒内通]を進み真駒内の住宅街を過ぎると[石山地区]に入ります。石山東地区に広がるのが[石山緑地]です。

[石山緑地]

[石山緑地]は、札幌軟石の採掘跡地を利用しており、高台で見晴らしの良い[北ブロック]と古代ローマを思わせる様な[ ネガティブマウンド]のある[南ブロック]があります。この緑地は平成8年にかっての軟石の採掘場を史跡として保存しようとして作られたもので、南ブロックでは自然の軟石で作られた舞台で毎年薪能が催される他音楽祭など のイベントも行われています。処でこの軟石は今から3万2千年前、現在の支笏湖を形成した火山帯が噴火して火山灰が噴出し、支笏湖から20q離れた石山地区 に降り積もり冷却したものだと言われています。

[石山開拓神社]

真駒内通 石山東5付近写真下左図は、石山東5の停留所です。左図の右側が山林でここから山道を登り[石山開拓神社]に向かいます。途中には、ケアハウスや老人ホーム、老人保健施設などがあるのみで、わずかに農家が点在する集落です。
下の写真は、山間にひときわ目立つケアハウスの近代的
施設です。
ケアハウス


地区のセンターとも言うべき[八区会館]の建物に隣接して鳥居があり、ここからはなだらかな坂を上り詰めると社殿があります。鳥居から社殿までは札幌軟石の敷石が整然と並べられており、素朴な佇まいの中にも清々しい雰囲気を醸し出しています。参道の両側にはシラカバの並木がこれまた整然と植えられています。この神社は、1949年(昭和24年)に[豊受大神碑]が建立されたことに始まると言われています。社殿はその後1965年(昭和40年)頃、赤平炭坑にあったものを移転したものです。写真下段左図は、神社側に保存されている開拓時の[炭焼窯]です。

石山開拓神社石山開拓神社社殿

炭焼き小屋

[芸術の森]

[真駒内通]も石山地区を過ぎると常盤地区です。この常盤地区は、[芸術の森]が完成して大きく変わりました。バス停[芸術の森入り口]の道路を挟んで目の前が正面ゲートです。歴史的な軟石採掘の場に相応しくゲートを挟んで両サイドには石が積み重ねられその造形美からも芸術の森のイメージが漂ってきます。元気な子供さんがロツククライミングのように岩によじ登っています。この芸術の森は、3期15年の年月をかけて40ヘクタールの広大な敷地の中に様々な施設が設けられ、緑豊かな自然環境の中に北の芸術・文化の拠点として大きな役割を担つています。正面ゲートから園内に入り少し歩くと池があります。この池には、真駒内川からの水が流れこんでいて池の中には3つのオブジェが浮かんでいます。詳細は判りませんが、フランスの女流彫刻家[マルタ タン ]の制作したもので、素材はプラスチックで中は空洞になつており、風が吹くとゆらゆらと揺れる様に造作されているとの事です。水面に映る影が情緒に溢れたロマンを感じさせてくれます。

芸術の森正面ゲート

写真左図は、芸術の森美術館。写真右図は、旧有島武郎邸です。

芸術の森美術館旧有島武郎邸

芸術の森を過ぎ山間の[真駒内通]を過ぎると常盤地区のはずれ[常盤神社前]です。常盤の歴史は[1899年(明治32年)常磐に苗穂監獄の分監が設けられたが、翌年に移転したので、跡地を当時の典嶽高津八郎が払い下げを受けて[高津農場]を拓いた。1901年(明治34年)農場の支配人、中川千吉が譲り受け、郷里の石川県から数世帯を入植させた。この年が、常磐開基の年と言われている。入植当時の人々は、農業の傍ら札幌軟石採掘の作業や、伐採・造材の仕事などで生計を維持していた。現在の[常磐]はかつては[土場]と呼ばれていた。かつて現在の[石山陸橋]から以南の真駒内川流域一帯の国道453に沿う地域は大正から昭和の時代にかけて材木の集積地であった。木材の積み上げる場所を[土場]と呼んでいた。昭和19年の字名の改正により[常磐]に改称されたが、[常磐]は、[常磐木(常緑樹)]の多いと言う事から名前が付けられた]((常磐開基百年記念誌より抜粋)
[常盤神社]
写真下左図は、常盤神社まえを走る[真駒内通]で、右図は、[常盤神社]です。境内を取り巻く四囲は鬱蒼たる山林で、ここだけが綺麗に伐採されて整地されています。この神社が創建された正確な年月はわかりませんが、現在、天照大神と明治天皇が祀られています。当初は天照大神のみが祀られていましたが、1917年(大正6年)9月14日明治天皇が合祀されています。

真駒内通 常盤神社前付近常盤神社