札幌移住の先駆者達

1869年(明治2年) これまでの[蝦夷地]は[北海道]と改称され、開拓使が設置されて本格的な開発が進められる事となりましたが、それ以前にも札幌地方に移住していた開拓の先駆者達がいました。

荒井金助札幌の母なる川[豊平川]に架けられている[豊平橋]の歴史は古く、最初に架けられたのが1871年(明治4年)です。豊平川と深い関わりを持っていたのが荒井金助で、1855年(安政2年)幕府は蝦夷地を直轄地として函館に奉行所をおき、石狩に[調役]を設けましたがこの三代目の調役が荒井金助でした。荒井金助は、豊平川の渡し守として志村鉄一、吉田茂八を川の右岸、左岸に住ませました。
荒井金助は、1808年(文化5年)江戸で生まれ、1857年(安政4年)7月石狩役所に着任していますが、その後50人ほどで現在の篠路に移住して1860年[荒井村]を開村して開拓に努力しました。荒井金助のお墓が篠路の龍雲寺に建立されています。
一方荒井金助と並んで篠路開拓の祖と呼ばれているのが、早山清太郎です。早山清太郎は1817年(文化14年)現在の福島県白川郡西郷村に生まれ、1852年(嘉永5年)蝦夷地に渡ってきました。当初は現在の手稲星置で伐木下請けの仕事をしていましたが、幕史の薦めもあつて農夫に転向し琴似に移住しましたがその後1860年(万延元年)篠路に入植しました。荒井村はその後徳川幕府の崩壊、明治政府の樹立、箱館戦争の勃発などで、全村あげて開拓を放棄して戦争に参加したため開村14年にして一応廃村となりましたがその中で毅然として開拓の鍬を振ったのは早山清太郎で、1871年(明治4年)南部藩士10戸が伏籠川の川沿いに永住したのでその他の移住民を合体して早山が名主となりこの地で生涯を終えました。早山清太郎のお墓も荒井金助と並んで篠路の龍雲寺に建立されています。
志村鉄一豊平川の渡し守(右岸)を命じられた志村鉄一は、信州出身の剣客で、1857年(安政4年)に、豊平川渡し守兼駅逓として入植した先人のひとりであり、札幌開祖と呼ばれています。大正9年に[札幌開祖 志村鉄一碑]が、豊平川畔の遺跡に建碑されましたが、昭和42年に新豊平橋の架橋に伴い、志村鉄一の碑は豊平橋を挟んで東岸の一角に移設されています。 
吉田茂八吉田茂八も志村鉄一と同じように豊平川の渡し守を命じられましたが、茂八は狩猟を業として、豊平河畔に群れてくるエゾ鹿の狩猟にも当たっていました。茂八は福山(松前)の出身で1868年には大友亀太郎のサッポロ村に移住し、札幌本府の建設にも寄与しています。特に1871年(明治4年)に開削された札幌の中心を流れる創成川(南6条から南3条までの[堀割])は、吉田堀と称されて今尚記録にとどめられています。吉田茂八の碑は、豊平橋を挟んで西岸の一角に[札幌開祖 吉田茂八碑]として建立されています。
大友亀太郎は、1834年(元保5年)現在の神奈川県小田原市に生まれました。1858年(安政5年)には石狩地方開拓の命を受け、旧元村(現在の札幌市東区)に土地を選んで1866年(慶応2年)御手作場(箱館奉行所直営農場)を開き、[大友堀]を開削して本格的な農業の基盤を作りました。大友亀太郎が最初に入植したのが元村ですが、明治4年には、[苗穂村][丘珠村][札幌新村]が元村と合併して[札幌村]となりました。現在東区に[札幌村郷土記念館]があります。
所蔵 北大付属図書館

札幌村郷土記念館
大友堀
(左)の写真は、志村鉄一、吉田茂八が渡し守時代の豊平川の姿です(所蔵 北大付属図書館)。(右)の写真は大友亀太郎が開削した[大友堀]、現在の創成川の姿です(所蔵 札幌市公文書館)