北海道神宮

[開拓三神]と島義勇


札幌神社の創建 札幌神社創設の動きは、「北海道鎮座神祭」から始まります。
1869年(明治2年)蝦夷地が、北海道と改められ、その年天皇の詔により東京の神祇官において大国魂神、大那牟遅神、少彦名神の開拓三神を祀る「北海道鎮座神祭」が執行され、北海道開拓の守護神として[開拓三神]が鎮祭され、太政官訓令の中に、石狩に本府を建て、祭政一致の建前から神を祀る事を命令されました。そのため、島は北海道に渡る際、神祗官から[開拓の三神]を授けられていました。明治2年9月21日、御霊代は2代目開拓長官東久世通禧が奉戴し英船テールス号にて函館に渡り、函館より開拓判官島義勇が背負い札幌の地に入りました。島は単身開拓三神を背負って陸路札幌に向かい10月12日銭函に到着後札幌市内に仮宮殿を設けました。また、銭函到着後直ちに先発隊を札幌に向かわせて神社予定地を見定め現在地に決定しました。この案内役を務めたのが渡守志村鉄一であり、宿泊所が吉田茂八宅でした。

[札幌神社]創建の功労者 島義勇



明治3年5月15日、北5条東1丁目に仮社殿を造営して遷座し「一の宮」と称されましたが明治4年5月14日「札幌神社」と社名が定まり、国幣小社に列せられました。開拓判官島義勇は、この地を宮地と決め社殿を造営し鎮座しました。
現在北海道神宮神門脇に札幌神社創建の功労者である島義勇を称えて島判官像が建立されています。 左図開拓判官島義勇 所蔵 北大付属図書館
この像は、北海道神宮が昭和39年に造営が竣功しその10周年にあたる昭和49年に記念事業として建立されたものです。この碑は、4メートルを越す大きな像で、島義勇が背中に開拓三神を背負っています。島は札幌に入ると神宮の裏山に登って石狩平野を見下ろし、札幌本府の計画を練ると同時に、三神を祀る社地を選定し現在地を決定しました。像の前には、前田勝也宮司が書いた[島義勇判官銅像建立の記]説明板があります。

創建された[札幌神社]


(明治4年)当時の判官岩村通俊によって現在地に移されています。写真左は現在地に移された札幌神社で右は草創期の札幌神社の鳥居です。(所蔵 北大付属図書館)。

社殿の変遷










写真左は明治10年当時、写真中は大正2年当時、(所蔵北大付属図書館) 写真右は現在の社殿です。
北海道神宮は、札幌市中央区宮が丘474にあります。約18万平方メートルの境内地は、桜の名所としても知られていますが、現在の北海道神宮の社殿は、昭和49年放火に遭い、昭和53年に復興されたものです。札幌神社が現在の北海道神宮に変ったのは昭和39年です。この年明治天皇を増祀し、現在は、北海道神宮には、四柱(大国魂神、大那牟遅神、少彦名神、明治天皇)が祀られています。

北海道神宮例大祭の歴史

写真左は明治10年右が明治20年の例大祭の様子です。所蔵北大付属図書館。 北海道神宮(札幌神社)は明治4年5月14日付けで国幣小社(こくへいしょうしゃ)に列せられ、同5年2月25日「6月15日をもって例祭日」に決まりました。しかし、この年は幣帛(へいはく)が不着のため7月7日、例祭に替わって小祭祀(しょうさいし)が執行され、翌6年の例祭は改暦のため7月9日(旧暦6月15日)に斎行されました。同年7月29日には全道民に「当日は休暇とし、参拝または遙拝するよう」にと布告が出されました。同7年から新暦6月15日に例祭が行われるようになりました。
 明治11年6月15日の例祭には、札幌中教院・神道事務局(現在の北海道神宮頓宮=中央区南2条東3丁目)開設の神事が斎行され、札幌神社の祭神と中教院の四神の神霊をそれぞれに招き、神輿一基が市街地をご巡幸した。これが渡御(とぎょ)の始まりです。
 そしてこの年8月、伊藤博文卿へ正式に「札幌神社神輿市中巡幸之儀願」を提出し10月承諾の指令が届きました。12年の例祭から市民は札幌神社の鳳輦をお迎えする事になりました。やがて神幸(しんこう)を各辻々に奉迎する意味で山車が始まり、神幸の順路は頓宮までの往復を基本とし、神幸祭は年々華麗なものとなり、行列にも種々の工夫が凝らされました。
(註) この記事は北海道神宮のホームページの記事を引用させて頂きました。
明治20年代の札幌神社祭礼と明治10年代の札幌祭りの街頭風景   所蔵 北大付属図書館

北海道神宮頓宮(旧札幌神社遙拝所)の開設


写真左は現在の[頓宮]右は遥拝所 引用先[札幌繁栄図録(高崎龍太郎・財界さっぽろ)] 。
当時の札幌神社は、札幌本府(札幌市街)からは遠隔地にあり、特に冬季間は参詣にも大変だった事から市街地に遥拝所が設けられました。遥拝所は、1878年(明治11年)現在地である南2条東3丁目に建立され地域の住民はここから札幌神社(現北海道神宮)を遙拝していました。この頓宮も1901年(明治34年)に失火により全焼しましたが、その後1910年(明治43年)には北海道神宮の大造営による旧材で現在の社殿が造営されました。このときに[頓宮]と称せられる様になりました。その後昭和22年9月30日には御分霊を奉斎して北海道神宮の末社となりました。[頓宮]は毎年の北海道神宮例大祭(札幌まつり)の御神輿もお休みになる場所です。

開拓の歴史を偲ばせる[開拓神社]

公園口鳥居から境内に入る直ぐ近くにこの[開拓神社]が鎮座しています。開拓神社は、北海道神宮の末社で その前身は昭和13年に北海道開拓70年を記念して建立された開拓奉斎殿です。現在神社には功労者37柱の御祭神をお祀りしています。神社の鳥居脇にある由緒書きには次の様に記されています。
一、由緒 開拓神社は開道七十周年に当り北海道開拓に偉大な功績のあった物故開拓功労者の御霊をお祀りし、永久に尊崇申し上げたいという、時の北海道長官石黒英彦の提唱によって昭和十三年八月十五日に現在の地に御鎮座になりました。その後昭和六十三年御鎮座五十年を記念して拝殿が御造営されました。
二、御祭神 北海道開拓の功労者 三十七柱
武田 信廣 命 鈴鹿甚右衛門命 吾妻  謙 命 松前 慶広命井上 長秋 命 佐野孫右衛門命 佐藤 信景 命 松前 徳廣命伊達 邦直 命 村山 伝兵衛命 田崎  東 命 黒田 清隆 命松田 傳十郎命 鍋島 直正 命 小林 重吉 命 本多 利明命
島  義勇 命 永山 武四郎命 伊能 忠敬命松川 弁之助命 岡本 監輔 命 高田屋嘉兵衛命 続  豊治 命 伊達 邦成 命栖原 角兵衛命 下國 安藝 命 東久世 通禧命 最上 徳内 命 清水谷 公考命 田村 顕允 命 近藤 重蔵 命 早川弥五左衛門命 岩村 通俊命 間宮 林蔵 命 松浦武四郎命 依田 勉三 命 中川 五郎治命 
三、例 祭 八月十五日 エゾ地を北海道と改称した日。
開拓神社の並びに[札幌鑛霊社]と[穂多木神社]が鎮座しています。いずれも歴史の流れを留めている祠です。[札幌鑛霊社]には、北海道開拓の先駆をなした鉱業に従事しその発展に尽くされた殉職者を奉祀しています。昭和24年から北海道神宮の末社として現在地に鎮座されています。北海道にとって石炭産業はかつての主力産業の一つでしたが、現在では道内炭山が殆ど閉山しています。かって繁栄した炭坑の町は過疎地となっている歴史の流を今に伝えている社です。
一方、この[穂多木神社]も、歴史の流を留める神社です。旧拓銀は、北海道開拓の牽引車として1世紀にわたり北海道のリーダーとしての役割を担って来ました。平成9年に営業破綻して現在では[拓銀]の名前は忘れかけています。この神社には北海道拓殖銀行に永年勤続していた物故者を奉祀しています。

神宮の鳥居(第一鳥居・第二鳥居・第三鳥居・公園口鳥居)


上の写真は北1条西25丁目の[第一鳥居]です。北海道神宮には4つの鳥居がありこれはその1つです。この鳥居は1895年北海道神宮第一鳥居として札幌軟石で建てられましたが、1928年に外側に銅板を巻いた高さ8.7mの鉄筋コンクリートに生まれ変わりました。写真下左図は、市内の中心部を俯瞰したものです。



上の写真は北海道神宮の[第二鳥居]です。北1条宮の沢通に面し通称[表参道]と言われています。この鳥居の奥に本殿が鎮座しており参詣客は参道を進んで境内に向かいます。

上左図は明治30年代の写真で[札幌神社桜花の景](北大付属図書館所蔵)と言うタイトルがつけられています。第二鳥居から境内までの参道は桜並木として昔から有名だったようです。参道の左手の道路沿いに上右図の[桜の由来]が書かれた銘板が設置されています。ここには凡そ次の様に書かれています[明治8年4月手稲村の住人福玉仙吉は山々を歩いて集めた桜(エゾヤマザクラ)150本を始めて献木しました。当時の境内周辺は、巨大な老木や潅木が鬱蒼と茂り昼なお暗い状況で道路という程の道もなく、参拝する人は殆ど見られませんでした。このエゾヤマザクラは、第二鳥居から参道に向かって左右両側に植えられましたが、これが北海道の桜の名所となった境内の桜の始まりです]。
大正5年福玉仙吉記念碑が参道右側の木立に建立されましたが損傷のため平成8年この銘板が現在地に建立されたものです

第二鳥居から参道を進むと[神門(写真左上)]の手前左に[判官島義勇]の彫像があり右手前には[さざれ石(写真右上)]がおかれています。
[さざれ石]の傍の案内板には次のように記されています[国家君が代に[さざれ石の巌となりて苔のむすまで]と詠まれており、石灰石が雨水に溶解して次第に大きくなりやがて地上にでて国歌に詠まれている如く小石が終結して巌となった過程をよく知る事が出来ます。
この石は岐阜県春日村産の学名[石灰質角礫岩]で平成5年皇太子殿下(徳仁親王)ご成婚記念に設置されたものです。

神門を通りぬけると境内です。神宮の境内は140.9坪(465平方㍍)で本殿は神明造りで、神門を含めて大正2年に造営されたものです。
下図左は神宮の社務所で写真右下は境内から駐車場に繋がる道路わきにある[参拝者休憩所]です。

北海道神宮の狛犬(阿吽像)
神門手前の[島判官像]の裏手に建物があり現在は職員専用の通用門になっている場所に1対の阿吽像を見る事が出来ます。これは明治  44年5月に奉納されたものです。

北海道神宮の梅園
参道左手に広がる[梅林]には白87本・紅21本の梅木が植栽されていますが、神宮境内全体では200本以上あるそうです 。


[公園口鳥居]

写真左図は、[円山公園口鳥居]です。この鳥居を過ぎると緑豊かな神宮境内が広がり、四季折々の花々を愛でる事が出来ます。写真の右手には[梅園]が広がっています。また、神宮拝殿に至る途中には末社が鎮座していますが、それぞれの祠が歴史の重みを感じさせる様の静かな森の中に鎮座しています。
[第三鳥居]
この鳥居はかっての[裏参道]に通ずる鳥居です。鳥居を過ぎると両側は巨木の原始林です。西側には[明治天皇増祀二十年記念植樹林]が拡がっています。昭和60年5月12日の植樹でヒノキ・アスナロ等が植栽されています。


「北海道神社庁] と[養心館道場]
[養心館道場]は剣道の道場です。

時代を映す境内の碑


梅林に建立されている碑です。左が[梅林碑]中が[吟魂碑]右が [須藤隆城先生門人桜植樹碑]です。
[梅林碑]碑文には[大典記念 梅林碑]と刻まれており、大正天皇の即位礼を記念して梅の植樹を行った記念碑です。
[須藤隆城先生門人桜植樹碑]
碑面には[祝 還暦 須藤隆城先生 門人桜植樹記念北海道正調追分節隆城門人会]と刻まれています。須藤隆城さんは正調追分節のお師匠さんです。

左が[興風会歌集千号記念碑]中が[中山周三先生歌碑]右が[長谷部虎杖子句碑]です。 [興風会歌集千号記念碑]碑面には、「英一  世の海の そこれ玉藻も   としと志す 花さきそひて 世にぞ かをれる 北海道神宮宮司 中野尹亮書」と刻まれています。 [中山周三先生歌碑]平成12年9月23日建立された碑で[沙羅の碑に添えて]の中で先生の功績がたたえられています。[木のもとに 来て拾へるに ひるのまの ほとぼり持てり 沙羅のしろはな 周三] [長谷部虎杖子句碑]この碑は、開道百年記念として昭和43年6月に建立されました。[今日のいのち 神の謝しつつ 東風にあり]と刻まれています。


表面には[御鎮座五十年記念玉垣門]と刻まれており、裏面には[玉垣門寄付芳名」という文字は判読出来ますが、芳名は全く読み取ることは出来ません。[札幌神社」が遷宮して50年にあたり玉垣門を造成した記念碑だと思います。 この碑は、白野夏雲顕彰碑です。白野夏雲は第6代札幌神社の宮司で、札幌神社を官幣中社・大社に昇格させるなど大きな功績がありました。明治43年に建立されましたが、風雪にさらされ文字は殆ど判読できませんが、碑の上部に刻まれた[白野夏雲]は読み取ることが出来ます。 この碑は宮崎芳男歌碑です。 [われの住む 北の一生は さだめならむ 空も神苑も みな蒼無限 芳男]裏面には、昭和61年9月28日 建立宮崎芳男歌碑期成会、[歌歴]新墾社代表と刻まれています。
写真左は[樺太開拓記念碑]中は[皇軍全勝祈祷之碑]右は[日露戦没祀念碑]です。 [樺太開拓記念碑]この碑は、北海道神宮の公園口鳥居をくぐった直ぐ側にあります。建立は昭和48.8.23碑で当時の堂垣内尚弘北海道知事の揮毫によるものです。4㍍の白御影石で、台座には[第十二代樺太庁長官 今村武志氏遺墨 丹心貫明 武志]と刻まれています。 背面の碑文には、樺太の歴史が綴られ多くの先人の偉業を称え、犠牲者の慰霊の碑として引揚者40万人の赤誠を結集して建立したと記されています。 [皇軍全勝祈祷之碑][皇軍全勝祈祷之碑]という碑文が刻まれていますが、建立の由来など詳しいことは分かりませんが、日清戦争の勝利を祈願してのものだと言われています。 [日露戦没祀念碑]御影石のシンプルな碑です。建立の由来など詳しいことは分かりません。