宮が丘・宮の森・円山西町
[宮が丘]と[宮の森]は隣接したエリアです。[宮が丘]の地名は昭和10年北海道神宮一帯が小さな丘であるところから名づけられたと言われています。一方[宮の森]はウインタースポーにご熱心だった秩父宮殿下・高松宮殿下の来札を機に名付けられたそうですが、この地域の歴史は古く、明治4年東本願寺が現在の山鼻地区に新潟県から40戸を入植させその他の入植者と併せて50戸で[辛末一の村]としましたが、同年開拓使の命により他の地区へ移住することとなり、一派は円山に向かいましたが一派以外は新入植地の名前は戸数名を使いました。現在の宮の森は12戸から12軒に変わりその後前述の[宮の森]となり現在に至っています。このエリアは[文化・スポーツ」の香り漂うエリアで下図の四角で囲った処がそれらの場所です。
[北1条宮の沢通]の北海道神宮第二鳥鳥居前を過ぎると左手のビル壁面の彫刻と右手の教会の建物が目に映ります。
宮の森2条11丁目にある[宮の森街づくりセンター](北1条宮の沢通から少し小路を入る)玄関前に本郷新さんの作品[鳥を抱く女]が建立されています。本郷さんの制作の拠点だけに随所に本郷さんの作品に接する事が出来ます。
写真左は宮の森2条11丁目ミュージアムガーデン壁面の彫刻です。緒方良信さん制作の[Duo]です。
写真右は[宮の森フランセ教会]の建物です。3本の尖塔が特徴的です。
[宮の森緑地]
上図の赤○の場所が[宮の森緑地]ですが、宮の森には[三角山]を挟んでもう一つ[宮の森4条緑地]があります。
[宮の森緑地]はかって[なまこ山]と呼ばれ[宮の森4条緑地]は[馬場山]と呼ばれていたそうですが、別に[宮の森緑地]を[小なまこ山]、これに対して[宮の森4条緑地]を[大なまこ山]と呼んでいたという説もあるようです。[宮の森緑地]は南北両サイドから登ることが出来ます。北サイドから登るには[北1条宮の沢通]を進み[藻岩山麓通]との交差点を曲がると[宮の森緑地]の入り口です。この緑地は海抜85m幅数十メートルの細長い丘です。北側の木段を登り木立の中の遊歩道を暫く歩くと反対側の本郷新記念彫刻美術館の前の宮の森モールに出ます。
周りを住宅に囲まれた中に緑地の登り木段があります。
[北1条宮の沢通]の[宮の森フランセス教会]が目印で[藻岩山麓通]の直ぐ側です。
入り口の本郷新さんの[太陽の母子像]です。何時見てもほのぼのとした情愛が伝わってくる彫像です。
南側の木段を降りると本郷新記念彫刻美術館の前の宮の森モールに出ます(右図)。
宮の森緑地の南側木段を降りた処に
[宮の森緑地]の標石の隣に本郷新さんの[鳥を抱く女]の彫刻が建立されています(写真左図)
[宮の森モール 彫刻の道]
宮の森3条12丁目の道路880㍍に亘り、コンクリート、ブロック、煉瓦ブロック、御影石の組み合わせた歩道を敷設して本郷新記念札幌彫刻美術館へと続く道として整備したものです。道端の広場には本郷新さん制作の[奏でる乙女]の像も配置されています。
本郷新記念札幌彫刻美術館
[宮の森緑地]南側の木段を降りると目の前が[宮の森モール 彫刻の道]です。道路を挟んで2つの建物が現れます。1つは本郷新記念札幌彫刻美術館の記念館ともう1つは本館です。本郷新記念札幌彫刻美術館はかって本郷新さんが昭和52年に小樽市の春香山にあったアトリエをこの地に移したものですが、本郷さんは昭和55年に74歳で他界したため、没後この建物を記念館とし、隣接地に本館を建て昭和56年[札幌彫刻美術館]として開館しました。この美術館には本郷新さんの作品1800余点が所蔵されています現在は[
本郷新記念札幌彫刻美術館]として運営されています。 本館の全景です。宮の森4条12丁目の本館は著名な建築家である田上義也氏の設計によるもので館内では郷新の作品展や彫刻に関する企画展を開催しています。館の
前庭は芝生でこの中にいくつかの彫刻が配置され野外ギャラリーの趣です。
本館前庭の彫刻はいずれも本郷新さんの作品です。写真(左) きけわだつみの声 (中) 裸婦 (右) 男のトルソー
写真下図(左) 堰 (右) 砂
本館と道路を挟んでいるのが記念館です。この記念館の前庭にも彫刻が配置されています。彫刻はいずれも本郷新さんの作品です。
写真(左)鳥の碑 (中) 男のトルソー (右) 男のトルソー
横たわるトルソー
ウインタースポーツのメッカ(Mecca)宮の森
円山地区には、夏・冬の競技施設があり[円山陸上競技場」[円山球場][テニスコート]などは[宮ケ丘」ですが、宮の森には、かっての冬季オリンピック札幌会場となった[大倉山ジャンプ競技場][宮の森ジャンプ競技場]や古くから少年・少女のジャンプ台として馴染みの深い[荒井山シャンツエ]などがあります。
札幌冬季オリンピツクを始め数々の国際大会を繰り広げ、幾多の名ジヤンパーを輩出した現在の[大倉山ジャンプ競技場]は、かつては[大倉シャンツエ]と呼ばれていました。このジャンプ台は、昭和3年に秩父宮から世界的なシャンツェの建設についてお口添いがあり、大倉喜七郎男爵が私財を投じて建設することを快諾し、昭和6年大倉土木株式会社(現大成建設)が工事を引き受け60メートル級のシヤンツェが完成しました。完成後は札幌市に寄贈されました。これまで市内には荒井山などにジャンプ競技施設がありましたが、大倉シャンツェの完成で本格的なジヤンプ競技が展開出来る様になりました。左の写真は、昭和6年10月に完成したジャンプ台ですが、建設は、シャンツエ構築の世界的権威者であるオラフ・ヘルセット中尉の設計によるものでした。総工費は5万円余りでアプローチの全長100m、幅6m、ランデイングバーンの全長130m、幅10-13mの[60m級シャンツエ]でした。所蔵 北大付属図書館
翌年の昭和7年1月に開場式が行われ、当時の札幌市長橋本正冶さんが大倉男爵の功績に応えて[大倉シャンツエ]と命名しました。(シャンツエは、ドイツ語でジャンプ台の事です)その後永年にわたり[大倉シャンツェ]の名前で親しまれてきました。
所蔵 北大付属図書館
現在の大倉山ジャンプ競技場
大倉山に功績を残した先駆者
大倉喜七郎男爵と大野精七博士は、大倉山に多くの功績を残した先駆者として夫々の顕彰碑が競技場に建立されています。
[大倉喜七郎男爵顕彰碑](左図)
この顕彰碑は、大倉男爵の功績を讃えてジャンプ競技場のリフトの側に建立されています
[大野精七博士顕彰碑](右図)
観覧席側の遊歩道に顕彰碑が建立されています。
大倉ジャンプ競技場寸描
[札幌市宮の森ジャンプ競技場]は、中央区宮の森1条8丁目で宮の森の山間の中にあり、公共交通機関も[円山公園駅]からの[宮の森シャンツエ前]だけで、バスの終点から坂道を登る事約10分です。この競技場は、1972年の冬季オリンピック札幌大会開催に合わせて70㍍級のノーマルヒルのシャンツエとして新設されたものです。観客席の収容人数は3万人です。
競技場入り口を入るとブレイキングトラックに沿って冬季オリンピックを記念して五輪のマークが掲示された壁が設置されています。
札幌オリンピツクの華は、ジヤンプ70㍍級の金・銀・銅メダルの独占という快挙でした。3本の日章旗が翻ったのは、宮ノ森ジヤンプ競技場でした。スタンドは興奮の坩堝と化し、君が代と共に青空に昇る3本の日の丸に我を忘れて歓喜の声を挙げたものです。
写真は当日の北海道新聞掲載のものです。
[荒井山シャンツエ]
札幌で最古のジャンプ台は[荒井山シャンツエ]です。
このジャンプ台は、昭和4年に始めての台が作られましたがその後幾度となく改修が行われ、シャンツエの名称も変わりましたが、現在は、ミデアムヒル(k点55㍍)、スモールヒル(K点25㍍)の二台のジャンプ台が整備され、主として小・中学生ジャンパーが使用しています。各種の大会で多くの記録を残した名ジャンパー達の少年時代大きな夢を描きながら飛び続けた思い出のシャンツエでもあります。このジャンプ場の直ぐ下には大倉山小学校があります。
[荒井山]
このエリアは、かって建築用材や薪炭材の伐出のための開発が進められて来ましたが明治30年代に入ってからは農耕地として払い下げを受けた後は入植者も増加し、地名も12軒(現在の宮の森)の奥の沢地と言うことで[12軒沢]と呼ばれていました。その後昭和21年には[12軒][12軒沢]はともに現在の[宮の森]に改められました。一方この地一帯を所有していたのが荒井保吉であった事から[荒井山]と言う名前で呼ばれていました。
[札幌環状線 宮の森北24条通]のバス停[荒井山]と[大倉競技場入り口]のほぼ中間点に某宗教法人の施設への通用道路があります。ここから構内を進み本館の建物の前の木橋を渡って木立の間を進むとかっての[荒井山福寿稲荷神社]跡ですが僅かに本殿への階段のみが姿を留めるのみです。(写真左)
手前の標識に沿ってナダラカナ坂を登ると[荒井山展望台]です。
展望台といってもベンチがおいてあるだけです。ここからは先程の荒井山シャンツエや小学校を見る事が出来ます。南斜面から登って小学校下に降りる遊歩道がありますが勾配がきつく降りるには一苦労です。
写真中央が[札幌環状線 宮の森北24条通]です。
[円山温泉由来記]
先程登った南口の某宗教法人の施設は、以前は旧拓銀の研修所でした。この場所が[円山温泉]のあった場所だと言われています。このことに関して北海道立地質研究所報告第81号で藤本和徳さんは次の様に解説しています[荒井山の南麓には円山温泉があった。大正5年頃の2万5千分の1の地図には円山温泉の文字が見られる。現在の宗教法人の建物の西乃至南側の斜面と推定した。円山温泉は、明治33年に札幌の小泉健治氏が発見して浴場を経営していたが明治39年に荒井保吉氏が継承している。宿舎の名前は[遊仙館]である]。所蔵 札幌公文書館
写真は、円山温泉[光風館]です。所蔵 札幌市公文書館
札幌円山動物園
荒井山の小学校側の坂道を下り[札幌環状線 宮の森北24条通]から円山公園に入ります。南1条の南側が札幌円山動物園です。
1951年(昭和26年)わが国で10番目の動物園として開園した[札幌市円山動物園]は、円山公園内にありますが正式な住所は、中央区宮ケ丘3番地1です。2014年現在この動物園では182種、934点の動物が飼育されているそうです。周りを原始林に覆われた動物園の広さは、未使用の原始林を含めて224.780平方㍍あります。
園内の施設や動物については円山動物園のホームページに詳しく紹介されています。下記の[円山動物園]の[施設]をクリックしてご覧ください。
CLICK→
[円山動物園]
右の彫刻は動物園前広場の植え込みに設置されている山内壮夫さん制作の[よいこつよいこ]
です。2019年春修復作業を終えデビーユsウィました。
宮が丘(円山公園)の競技施設
円山陸上競技場
円山陸上競技場の正式な住所は、中央区宮ケ丘3番地です。この競技場は昭和9年8月[市立総合運動場]として竣工しました。昭和29年開催された[第9回国民体育大会]でのメイン会場として、また同年1月にはアジアで初めての[世界スピードスケート選手権大会]も開催されました。昭和57年には全天候型グランドとしてリニューアルされ第二種公認陸上競技場となりました。陸上競技の他にもサッカー・アメリカンフットボールの競技も行われる他、冬季間は屋外スケートリンクとして一般に開放されています。
札幌市円山球場
現在の円山球場の前身は[札幌神社外苑球場]で1934年(昭和9年)に札幌神社(現在の北海道神宮)の程近い場所に竣工しました。翌昭和10年札幌市に移管され同年7月14日開場しました。このときに名前が[札幌市円山球場]と改称されました。現在の球場の所在地も中央区宮ケ丘3で、収容人数25.000人、右・左翼98m、センターは117mです。平成13年札幌ドームが出来るまでは、札幌でのプロ野球の試合はすべて円山球場でした。オールドフアンにとっては思い出の多い懐かしい球場です。
円山庭球場
札幌市営の庭球場は、円山陸上競技場に隣接して12面のテニス専用コートがあります。
円山公園から一旦[北1条宮の森通]に出て北海道札幌西高校に向かいます。西校は[北1条宮の森通]と[山の手通]の中間にあり、都心からは通常は地下鉄[西28丁目駅]からの路線バスか[山の手通]を徒歩で行きます。
[西校野外プロムナード]
札幌市内の[宮の森]地区にある道立札幌西高等学校は、1912年(明治41年)旧姓中学として創立され旧札幌二中として知られた歴史のある学校です。創立当初は現在の中央区北3条西19丁目にありましたが、昭和23年に学制改革で北海道札幌西高等学校となり、昭和37年に現在地である中央区宮の森4条8丁目に移転しました。校舎は地下鉄西28丁目駅前を通る[山の手通]側にあり、校舎と道路の間はフリースペースの広場が広がっています。
西校の前身である旧二中からは、本郷新、佐藤忠良、山内壮夫、本田明ニ等の著名な彫刻家を輩出しており、校舎の内外に多くの彫刻を展示するなど彫刻には理解の深い学校として知られています。プロムナードは2012.9.26日開通式が行われましたが、新たに山内壮夫の[家族]と本郷新の[鶏を抱く女]が設置され、既に設置されている佐藤忠良・本田明ニの作品と併せて4OBの作品がプロムナードに揃っています。
(左)
本田明二
[けものを背負った男]
(中)
佐藤忠良[)
[蒼穹]
(右)
本郷 新
[鶏を抱く女]
(左)
山内壮夫
[家族]
(中)
本田明ニ
[輔仁会員戦没者記念碑]
(右)
永野光一
[潜ーKirameki]
永野光一[潜ーKirameki]
この作品は、野外プロムナードではなく、校舎玄関前に設置されています。
[円山西町]
左図の茶線は[藻岩山麓通]です。.[藻岩山麓通(道道89号)]は、札幌市中央区南19条西16丁目(ロープウエイ山麓駅入り口)を起点として札幌の街を眼下に見下ろしながら丘陵地帯を走り、途中[伏見][旭ケ丘]を経由して[円山西町]からは[円山]の山側を迂回して宮の森3-11で[北1条宮の沢通]と交差し、ここが終点となります。この間、宮の森1-11から3-11までは[宮の森北24条通]と重複しています。
[円山西町]は、円山動物園西口前の藻岩山麓通を進むと道路の右手に西町の住宅街が広がっています。西町1-2丁目を過ぎ3丁目に入ると道路が二方向に別れ、一方は[藻岩山麓通]として[双子山」[旭ケ丘][伏見]へと向かい、もう一方の道路は[円山西町神社]へ向います。円山西町は、1-6丁目が山麓側にありますが、6-10丁目は、[藻岩山麓通]を挟んで位置しています。路線バスは、4丁目の[円山西町神社前]で終わりです。この先坂道が続き[幌見峠]と続きます。
[円山西町神社]
[円山西町神社]は、円山西町6丁目で、路線バスの始終発の[円山西町神社前]の道路を渡った場所です。大きな鳥居をくぐると神社の敷地ですが、境内というよりは[緑地]といった趣でかつての原始林がそのまま遺されている、歴史の重みを感じさせてくれる空間です。現在の[円山西町神社]は、1972年(昭和47年)現在名になりましたが、それまでは[滝ノ沢神社]と呼ばれていました。
鳥居をくぐった直ぐ側に建立されているのが上田善七碑です。現在の神社敷地は、円山在住の上田善七氏が所有していた853.3坪を神社用地として寄付したものです。この上田氏の功績を称えて1923年(大正12年)顕彰碑が建立されましたが、風雪に晒され刻字も殆ど見えない状態です。上田善七は、特に農業面での功績が大きく、円山地区を近郊一の野菜生産地に作り上げるほか、原野の開拓にも大変尽力を尽くされた先人の一人です。現在の円山会館前庭には、円山開村記念碑と並んで同氏の顕彰碑も建立されています。
木立の影に静かに佇む神殿と石碑です。神殿は極めて素朴で質素な造りのなかににも、威厳に溢れた雰囲気を漂わせています。この神社は1895年(明治28年)この地に入植した人々が[大山祇神]を祭神として祀ったのが始まりです。この神殿は、かっての拓殖銀行本店屋上にあつた神殿を譲り受け、あわせて札幌神社(現在の北海道神宮)から分霊を受けて合祀祭神としたものです。現在、祭神としては、大山祇神、大国魂神、大穴牟遅神、少彦名神の4神が祀られています。神殿の脇には[大山祇神碑]と[馬頭大神]の碑があります。[大山祇神]の読み方は、[おおやまづみのかみ]ですが、この神は、日本全国の山を管理する総責任を担った神だそうです。この神は、全国約一万社に祀られている大変有名な神様の様です。
左図が 神殿
右図が大山祇神