第二章 電波広告の揺籃期

2-1
大きな成長を遂げた戦後経済
2-2 テレビ主導のメデイァ広告費
2-3 北海道・札幌市の戦後経済 2-4 発展途上の経済環境
2-5 商業発展の基盤を築いたデパートの誕生 2-6 初の民放ラジオ局の企業戦略
2-7 北海道市場のPR戦略 2-8 地場広告主開拓の積極的展開
2-9 小樽の斜陽化と札幌への集中化 2-10 北海道大手企業の新たな船出~雪印乳業・サッポロビール~
2-11 北海道市場を巡る麦酒各社の熾烈な競合朝日麦酒・麒麟麦酒 2-12 ラジオ・テレビ広告費の逆転現象
2-13 市場を席巻する新聞広告費 2-14 広告費から見た媒体特性

1951年ー1960年(昭和26年ー昭和35年)

 
北海道における電波広告の揺籃期を1951年から1960年と位置づけたが、1951年は本道で初めての民間放送である北海道放送が創立され、1960年には札幌テレビ放送が新たに加わって、これまでの北海道地区におけるテレビ一局時代から実質的な二局競合時代に入った。しかしながら誕生間もない電波広告はこれまでの長い歴史を持つ新聞広告に対して名実共に揺籃期そのものであつた。
 
 
1950年代は我が国が第二次大戦の荒廃から立ち上がって復興から自立、成長への転換を図った時代であった。戦後いち早い1946年には荒廃した経済を立て直す為の多角的な施策の第一弾として[傾斜生産方式]が採用され、それを実効あらしめる為の[傾斜金融方式]が実行されたため経済復興は序々ながらも軌道に乗り始め実質GNPは1952年には戦前の水準に達する事が出来た。しかしこの間インフレは依然として進行していた為1949年には[ドッジーライン]が採用され、超均衡財政政策が推進された事によりインフレは収束に向かったものの、同時に経済成長率は1948年の17.5%から翌48年には7.0%と大きくダウンし、企業倒産や失業が急増し[安定恐慌]と呼ばれる社会不安が拡がつた。このような不況が進行する中で1950年6月に勃発した朝鮮動乱は日本経済に大きな明かりをもたらし[特需ブーム]が巻き興った。
これらの結果、戦後の10年間の経済成長率は平均して8.5%と予想を上回る高い経済成長を記録した。そして1955年には生産水準も概ね戦前平常時の水準に戻り、1956年の政府の経済白書では[もはや戦後ではない]と宣言されるに至った。朝鮮動乱による景気の上昇局面から3年経過した1953年の経済環境はどのような状況にあったかを経済白書およびその他の資料から引用して述べてみたい。
1953年度(昭和28年度)の各種の水準を動乱の始まった1950年度(昭和25年度)を基準として比較すると実質国民所得は約3割、実質賃金は3割5分、消費水準は4割の増大を示している。消費水準に関してこれを前年と比較すると大凡13%の伸び、1951年〜52年に比較しては16%の伸びとなっている。これらの実績を基に政府は白書の中でこの時期の景気を[消費景気]と規定している。消費品目でも乳製品、煙草、ビール等一人あたりの消費量は戦前戦後を通じて最高値を記録し国民生活の回復の速さを示し、これら消費の伸びによる内需拡大が経済を押し上げる大きな力となった。
このような良好な経済環境が反映した結果、1956年発行の経済白書に於いては、1955年は戦後経済で最高の年であると述べられその要因として@ 国際収支の大幅な改善、A インフレ無き経済の拡大、 B 経済正常化の進展を挙げているが、[数量景気]と言われるように様々な分野での経済の拡大が顕著となった、特に消費水準は依然として高く'55年の消費は前年に対し5%の伸びを示したが、消費動向にも変化が見られこれまでの食品を中心とした消費支出から娯楽、行楽などのレジャー・サービス、家具、家財などの耐久商品、テレビ、冷蔵庫、洗濯機などに対する消費が増えたのが特徴的と言えよう。そして11月には不況から脱却して'57年6月までの43ケ月に及ぶ[神武景気]を迎え将に高度成長時代の幕開けであつた。1956年には前述の様に[もはや戦後ではない]と宣言され、景気も本格的な軌道に乗り実質成長率は前年度比6.4%、鉱工業の生産指数も前年度比23.1%と大幅な伸びを示した。
この年の経済白書で注目すべき事は我々民放産業とも密接に関わりのある[通信]についての記述であろう。この中では電話電信の急激な需要増に加えて電波利用の進歩発展についても触れている。以下この部分についての記述を引用する。[更に電波利用の進歩発達は最近殊にめざましく、応用分野も拡大されて国民経済活動に対する役割は大きい。特に最も効率的な利用形態であるラジオ放送は驚異的な普及によって国民生活上なくてはならないものの一つとなっており、全世帯に対する普及率は74%である。更に戦後はテレビジョン放送が出現し利用地域の制約は未だやむを得ないが、昭和29年以来急激に増加して、17万件に達し、今後ラジオ放送に代わって大きな地位を占めることが予想される。このように大衆通信をはじめとし、国民経済活動のあらゆる面に於いて近代的通信手段を提供した電波の利用は、将来の通信政策を大きく左右せしめることとなろう]。このように経済白書の中に於いても電波の経済に果たす役割の重要性が指摘される等、良好な経済環境が電波メディアの草創期の営業基盤を大きく支えた事はその後の電波広告成長に向けての力強いバックボーンでもあった。
この後の経済環境を外観すると、1955年11月を始点とした[神武景気]は43ケ月の好況期をを経て'57年6月終息期を迎え、不況期への突入を余儀なくされた。所謂[ナベ底不況]と呼ばれ、これまでの加熱した景気に対する本格的な引き締め政策により経済は急速に収縮したのである。この[ナベ底不況]も12ケ月をもって終わり1958年秋には景気は上昇局面に転じたが、この年6月より始まったこの好況は神武を遡って[岩戸景気]と名付けられた。この景気は結果的には42ケ月継続しこの間技術革新を中心に産業構造が大きく代わる変革期であり、設備投資を主導として経済は1950年代終盤も堅調に推移しながら1960年代を迎える事となる。
1990年はじめに報告された研究レポート[戦後日本の景気動向:定型化された事実](大蔵省財政金融研究所発行ホームページ参照)によると1950年代から1980年代にかけて10の景気循環が記録されており、景気循環の長さは1つのサイクルは平均して46.8ケ月間持続し、そのうち拡張期が31.3ケ月、後退期が15.4ケ月となっている。このレポートによれば第2循環である1951年10月から'54年11月(37ケ月)の所謂[数量景気]時の実質成長率は年率換算で12.7%、(拡張期)、−3.5%(後退期)、第三循環である1954年11月から'58年6月(43ケ月)所謂[神武景気]時の実質成長率は年率換算で9.1%(拡張期)、5.2%(後退期)、第四循環である1958年6月から62年10月(52ケ月)所謂[岩戸景気]時の実質成長率は年率換算で11.5%(拡張期)、7.2%(後退期)となっているが、岩戸景気の拡張期間は42ケ月でこのあと10ケ月は後退期に入る事となる。しかし後退期を終えた1960年代は第五循環が始まり景気の拡張局面は暫く持続する事となる。
 
このような好景気に支えられ電波広告費は大方の予想を覆して大幅な伸びを続けるのであるが、電波広告の中でもテレビ広告費を急速に引き上げた要因の一つに挙げなければならないのは1959年4月10日の皇太子明仁親王と正田美智子さんのご成婚であった。
民間人として初めて天皇家に嫁がれるこの世紀のドラマはご成婚前年の1958年11月27日のご婚約発表を機に一挙に全国民の注目の的となりご成婚に至る迄日本全国にミツチーブームを巻き起こしたが、ご成婚のテレビ放送はわが国のテレビ受像機の保有台数の引き上げに大きな効果をもたらした。1958年の保有台数が全国で91万台であったものが'59年4月には200万台を突破、同年12月の受信契約数は414万に達したのである。
テレビ局も既に放送を開始していた日本テレビ放送網・東京放送に加え中央テレビ局としてご成婚目前の1959年2月1日日本教育テレビ(NET)現全国朝日放送、同年3月1日フジテレビジョン(CX)が開局し、その後全国主要都市に20数局のテレビ局が一斉に開局した。これは1957年テレビ局の大量免許交付(NHK7・民放36局)に基づくもので、1958年には12局、又、'59年には21局が開局した。この中には'59年4月1日開局した札幌テレビ放送も含まれている。このように全国の主要エリアが視聴可能エリアとなり、ご成婚当日のテレビ放送は全国民をテレビの画像に釘付けにした事は言うまでもないが、このスペシャル番組がその後のテレビのネットワークの形成に大きな影響を与えたと言われている。
この様に皇太子ご成婚はわが国のテレビ受像機の普及に拍車をかけると共にテレビのネットワーク・スポンサーの番組提供のあり方等にも様々な影響を及ぼしたが中でも広告費に及ぼした影響は極めて大きいものがあった。
以下、 1959年のご成婚スペシャルが広告費にどのような効果をもたらしたかを数字の上から検証してみたい。(以下数字は電通日本の広告費による)

 図11958−1959年の全国媒体別広告費


図1で見るように、1959年の新聞・電波広告費は大きな伸びを見せたが、中でもテレビの伸びは突出して大きく、同年の媒体別シェアではラジオが前年比△3.6%、新聞前年比△6.8%に対しテレビは6.5%のシェアアップとなつた。全国レベルではこのような状況になったが、北海道の場合も1959年のラジオ広告費は12.9億円で前年比119.4% 、テレビ広告費は9.6億円で前年比200.0%となっている。特にテレビ広告費の伸びた要因の一つは'59年4月1日開局した札幌テレビ放送の収入が加算された事によるものである。叉、'59年は全国レベルではテレビ広告費がラジオ広告費を凌駕する年であったが、北海道ではこの年はまだラジオ広告費がテレビ広告費に対して優位性を保持しているのが特徴であろう。北海道では翌'60年にテレビ広告費がラジオ広告費を追い抜く事となる。電通[日本の広告費]でも電波広告費が計上されるのはラジオが1951年、テレビは1953年であるが、ラジオ広告費も1959年遂にテレビ広告費に追い抜かれる事となる。
 
北海道の経済環境は戦後我が国に残された資源の宝庫と謳われ戦後いち早くその開発の必要性が叫ばれ1950年には北海道開発法が成立して、その実施官庁として北海道開発庁が発足し開発計画が具体的に推し進められる等、北海道の経済再生と活性化に向けて北海道の未来に明るい兆しが灯される時代でもあった。1952年は北海道総合開発第一期10年計画がスタートした年である。全国土の22.1%を占める北海道は敗戦後のわが国に残された資源の宝庫として全国的に注目され、戦後いち早くその開発の必要性が叫ばれる中、前述のように北海道開発法が成立し、北海道開発庁の発足によって開発計画が具体的に押し進められる事となった。そして1952年4月1日の第一次10年計画スタートと機を同じくして新しい放送メディアとしてのラジオ放送がスタートしたのである。北海道放送は北海道開発の一翼を担っての輝かしい船出となったのである。
第一期開発計画の具体的テーマーは@ 開発の原動力となる電源開発 A 道路・港湾等のインフラ整備  B 食糧基地の開発等であり、具体的には16.300f に及ぶ江別・当別・月形・新篠津地域の造田開発、根釧原野パイロットフアーム開発、水力発電所の建設が推進されたが当初計画した通りの実績があがらず、1958年4月1日からスタートした第二期計画は第一期計画の反省の上に立って第一次産業よりは第二次産業にウエイトを置いた基盤整備に力が注がれた。第二期計画に投入された国費は1933億円と言われている。これらの計画の中には札幌オリンピックのメイン会場であり、亦札幌の一大ベットタウンとして有名となった真駒内道営団地の造成も含まれている。
このような北海道に対する開発計画、石炭産業に対する傾斜生産方式などに加え、北海道においても朝鮮動乱後の特需ブームの影響などにより人口の増加率も高く1947年に実施された戦後初めての国勢調査による北海道の人口は385万3千人(全国シエア4.9%)であつたが、1955年には477万3千人と増加し全国シエアも5.3%に上昇した。この間1951年10月25日には東京・千歳間の民間航空が再開、叉、1952年5月には北洋漁業が再開するなど経済環境を引き上げる上でも大きな影響をもたらした。この年11月には全国的にも有名となった「弾丸道路」札幌ー千歳も開通し話題を呼んだ。
 
 図2 北海道各地域の人口動態比較


 一方、札幌市も1922年8月1日市制が施行された。当時の人口は127.044人、世帯数僅かに22.915戸であったが戦後いち早く計画的な街づくりに着手した結果、戦後の1945年、札幌市の世帯数は40.590戸、人口は224.729人と言う全国的に見ても中規模の都市を形成した。戦前は北海道における中心的都市は港湾を抱える小樽、函館であったが、戦後はその経済的比重は札幌に移り札幌は北海道経済の中心地としての性格を強く滲ませる処となった。[2-1]項でも述べたが、1950年勃発した朝鮮動乱は日本経済にも大きな明かりを灯し、[特需ブーム]が巻き起こった。この特需ブームにより1951年から1953年の実質個人消費の成長率は戦後30年を通じて最も顕著となり、敗戦直後戦前の約65%迄落ち込んでいた経済成長率は1955年に至っては戦前水準を35%上廻る迄大きく伸長し、[数量景気]と言われる成長の時代を迎えるのである。この好況の波を受け札幌もこの頃から人口も増加の傾向を辿り、道外からの観光客の入れ込みも増加し、札幌は北海道観光の基地としての活動にも一層の拡がりが見られた。
このように発展の緒に就いた札幌の人口の増加は相次ぐ隣接市町村との合併 、全国的な人口の都市集中化傾向併せて道内産炭地からの炭坑離職者の流入などの要因が重なり、図3に見られる様に札幌は全道人口に占めるシェアは年々増大化の傾向を示し、一極集中の色合いが濃くなってきた。

 図3 札幌市の人口動態


 (註)比率は全道人口に対する札幌市の人口の割合
札幌市と近隣町村との合併の先鞭となったのは白石村との合併であった。全村合併か或いは一部地域のみの合併かを巡って札幌、白石両サイドで検討が繰り返された結果1950年7月1日全村合併が成立した。次いで札幌村の合併が1952年頃から具体化したが、同時期篠路村、琴似町でも札幌市との合併の機運が高まりつつあった。その後紆余曲折を経ながらより具体的な合併交渉が札幌市と琴似町、篠路村、札幌村との間で進められた。その結果1955年3月1日札幌市は札幌村、篠路村、琴似町の1町2村を同時に合併した。その後合併の焦点は豊平町との合併問題であった。札幌市、豊平町両市・町の合併に対する消極的な動きに対し、積極的な運動を展開したのが市民サイドから興った合併促進運動であったが、最終的な合併への道程は多くの問題を抱えての連続であったが1961年5月1日豊平町は札幌市に合併され人口も55年の426.607人に対し623.046人と急激な人口増となった。札幌市と最後の合併を行ったのは手稲町である。手稲町との合併は豊平町合併直後から進められ、手稲町も原則的に合併に賛成の立場を採っていた。この機運を一挙に進めたのが1966年4月であり、冬季オリンピツクの札幌開催が決定した事がその後の交渉を加速化し1967年3月1日札幌市と手稲町との合併が行われ、札幌市は名実共に[大札幌市]として誕生することとなつた。
 
このような人口増大を反映した札幌の当時の産業、商業活動は発足間もない民放にとつては営業活動の面でも主要な広告ソースであった。この当時の札幌の経済的発展ぶりは全国的な高度経済成長の先駆けとして注目されたが、札幌市の経済的特徴は産業別人口動態にも見られる如く、第三次産業が第一次、第二次産業と比較して圧倒的に高く、札幌市の統計書によっても第三次産業の就業人口数は1947年の61.5%に対し1950年67.2%、1955年67.3%と、戦後復興の過程で第三次産業のウエイトが益々高まってきた。又、1950年当時の工業出荷額を見ると最大の部門は食料品で全体の37.0%を占めているが、5年後の1955年にはそのシェアも増加し44.9%に達した。1950年作成されたデーターによれば1949年12月現在、札幌市には職工数20名以上の食品工場は23軒しかなかったが、その中には雪印乳業の前身である北海道酪農協同(株)、サツポロビールの前身である大日本麦酒(株)なども含まれているが、その他にも[フルヤのキャラメル]として全国的にも名声を博していた古谷製菓の前身である古谷産業食糧工場、福山醸造の前身である福山食糧工業、清酒の関係では[千歳鶴]の日本清酒、[北の誉]の北の誉酒造、[金富士]の中川酒造、[君万歳]の札幌酒精工業など。その他の産業として化学工業が挙げられる、日本ゴム(株)札幌工場、藤倉ゴム(株)札幌工場、白熊ゴム製造所、帝国ゴム(株)等であつた。
次ぎに1950年代の札幌市の商業の実態はどのような状況にあつたのかを、市が戦後初めて行った[商工業実態調査]で見ると札幌市の全商店数は4099軒で全市戸数の13軒に1軒の割合で商店があり、企業形態としては個人商店が全体の83%を占め、株式会社は12%、有限会社は僅か1.5%にすぎなかつた。これらの商店の創業年次も全店4099軒の内、約1500軒が終戦後創業した店で終戦を境にして古い暖簾を誇る店と新たに開業した店との新旧交替が進んだ時代でもあった。店舗の新旧交替は札幌を代表するショツピング街としても有名な[狸小路]も例外ではない。
 <狸小路の変遷と電波広告>
狸小路の発祥は道都として札幌が建設された明治初期にまで遡る。北海道の中心都市として急激な開拓が進められた札幌では、商工業者の移住も盛んで、1871年には南1条から南3条にかけて、210戸の町並みが形成されていたと言う。1873〜4年頃には、男をたぶらかして金を儲ける女達、所謂白首(ごけ・売春婦のこと)が多くなり、一帯は[白首小路]と呼ばれる様になっていた。男をたぶらかす、化かすことから、やがて[狸小路]と呼ばれる様になった。当時の狸小路は[白首]と呼ばれる売春宿、落語家による[寄席]、そして明治のスーパーマーケットとも言うべき[勧工場]の三つを大きな柱として形成されていた。
(http://homepage2.nifty.com./folk/bunko/036.htm参照)狸小路は戦前は200軒以上の商店が軒を連ねていたが、戦中転廃業が進み敗戦直前にはその数も6〜70軒を数える様な状況であった。加えて戦後の1945年7月には1丁目、4丁目、9丁目、10丁目などが強制疎開の対象となる等、狸小路は闇市と化し、多くの露天商が出現して[青空市場]と呼ばれるようになっていた。その狸小路も1946年から47年にかけて戦中転廃合したり休業していた店舗も続々と再開し始めた。1947年11月18日には札幌狸小路商店街商業協同組合も設立され、商店街の活性化に向けての努力が払われた
狸小路商店街と電波広告との結びつきは古く、[狸小路お買い物案内]は今尚北海道放送の電波を通じて放送されているが、この放送が最初に放送されたのはHBCラジオが開局して1年後の1953年12月27日であつた。この電波利用の顛末記が狸小路商店街が編纂した狸小路発展史の中に記載されているので一部を引用して紹介する。
[そもそもHBCラジオの放送の話は、電通道支社から狸小路に持ち込まれたものだったが、何しろそれまでは全然ラジオ放送の経験が無かったので話は容易に進まなかったが、電通道支社からの強いての要請によって、漸く放送に応ずる事となった。その後扱い代理店が新生広告社に代わった。この放送がかってない企画で有ったため、全国的にも大きな反響を呼び、一層狸小路商店街の名声を高めたが、スポンサーの中には”お焼きや”もあって、お焼きやでラジオ放送をしているのは全国でも只一軒であろうと話題の一つになった。この放送も1967年9月7日を迎えると放送回数は連続五千回を記録する事となり、まさに放送界における金字塔を樹立するものと関係者から多大の期待が持たれている。(中略)又、テレビ放送は1959年8月16日からHBCテレビの午後5時40分から5分間でお買い物案内をスタートしたが、この放送も1967年1月7日で二千五百回の記録を達成した]。 
このように狸小路商店街は民放初期の地場広告主としても大きな役割を果たしたが、この放送を円滑に運営するために1954年5月<狸小路スポンサー会>が設立され、会員数も40社(1967年3月現在)を数えた。
当時のHBCラジオが広告ソースの拡大を図るため販売促進企画として道内スポンサーを対象に[HBC金のれん会]を結成し、名実共に優良な商社、商店から選定した[金のれんの店]百社を電波を通じてアピールしたが、狸小路商店街も積極的に参画し[金のれん会]の中核としてこの企画を成功させた。このような電波利用への努力は電波広告と販売促進が一体となって行われた画期的イベントとして業界の注目する処となりラジオ収入拡大に大きく貢献した。
このような札幌市の商業地図を大きく塗り替えたのが1951年9月13日増改築工事が開始され翌年12月15日竣工した札幌駅に併設されたショツピングゾーンの新設であつた。同年12月25日ステーションデパートが開業し91軒の出店者による新しい地下商店街が生まれた。この時代の札幌市の経済の流れについて札幌商工会議所編[50年の歩み]では以下このように記述されている。
1951年
1950年6月に興った朝鮮動乱は所謂特需景気を煽り需要の増加とそれに伴う思惑も手伝って非鉄金属、鉄鋼、木材、バルブなどが急激な値上がりを示し産業界は活発となった。又、この年3月には大幅な統制の解除、停止が行われ、自由経済体制が一層強化された結果これが市の工業・商業にも大きな影響を与え活気を帯びた。しかし本州商社の進出も目立ち商圏争奪の前哨戦が顕れ始めた。
1953年
生活水準の向上によって洗濯機、冷蔵庫、ラジオなどの電気製品、カメラ、スクター、モーターバイク、小型三輪車などの車輌類の購買力が業界を賑わした。
1954年
消費の増大によって蘇ってきた商況も53年下期からの金融引き締めとデフレによって消費需要が減退し、小売業、デパートの売り上げにも少なからずの影響を与えた。
1956年
百貨店法の成立を見越して各デパートの新、増築が続く。
1957年
丸井今井、三越、五番館、ステーションデパートの市内4デパートの年間売り上げが70億円を突破し前年比21.4%の大幅な伸びを示した。
1958年
7月8日から8月31日まで北海道大博覧会が札幌(桑園、中島公園)、小樽(埠頭,祝津)で開催され、大きな経済効果をもたらした。
1959年
58年秋以降本格化した[数量景気]を反映して家庭電化ブームを呼び、札幌市のテレビ普及率は58年12月の20.7%から30〜35%へと大きく伸長した。
この間56年12月22日にはNHKがテレビ放送を開始し、道民に新しい映像メディアを提供したが、翌57年には本道初の民放テレビ局が誕生引き続き59年民放第二局目がスタートするなど、既に放送を開始していたラジオ放送と併せてその電波広告は消費拡大に向けて大きな力を発揮する処となつた。
前述のデパートの新増築と本州商社の進出について若干触れて見たい。1956年6月の百貨店法の施行により、百貨店が店舗の新築や増床を行う場合は通産大臣の許可が必要となるため、市内各デパートは'55年〜'56年にかけて揃って新増築を行った。三越は既存の店舗に接続して地下二階地上七階、延べ1290坪の増築を行い、丸井今井は北海道で初のエスカレーターを設置し全館八階建ての増築を行った。一方五番館は'56年12月1日現在地に地上六階、地下一階の新館を落成した。又、札幌の経済の発展を見据えて本州の総合商社の進出も相次ぎ、'47年の日商岩井、トーメンに次いで'52年住友商事、'53年三菱商事、'55年丸紅、'57年伊藤忠商事、'59年安宅産業、兼松工商、'64年には日綿実業など十大商社が支店を開設している。
このように民放草創期の1950年代主要な地元広告主の一つはデパートであった。当時、北海道就中札幌にとってデパート言えば丸井今井と言われる程、丸井の存在は非常に大きいものがあった。1970年当時、百貨店法に基づく店舗は全道で18店舗、札幌市では丸井今井本店、三越札幌支店、五番館、カナリヤ、池内の5店舗であったが、 民放発足当時札幌には丸井今井、三越札幌支店、五番館の3デパートが存在しておりこれら百貨店は民放誕生以前からの札幌市における活字メディアの主要な広告主であったが、民放誕生に伴うラジオ・テレビのコマーシャルの出現によってその後の営業方針にも大きな変革が見られる様になった。その具体的事例は別項に譲るとしてここでは各百貨店の誕生とその後の経緯について若干述べて見たい。
最初に取り上げるのは丸井今井百貨店であるが、同社のHPhttp://www.marui-imai.co.jp/history/丸井今井物語の中から抜粋して紹介したい。この物語には丸井の生い立ちから戦後の社名変更までの様々な事象が38編にわたって紹介され、当時の札幌の珍しい話題なども豊富に取り上げられており極めて興味深い読み物でもある。
さて、丸井今井の歴史は1871年(明治4年)店祖である今井藤七氏が新潟県から渡道した事から始まる。渡道後氏は函館で陶器商を営んでいた武富平作氏の店で奉公、翌年の'72年札幌で独立して小間物屋を現在の南1条創成橋付近に開業した。開店早々良品販売で商品は飛ぶように売れた為、藤七氏は2ケ月に一度商品仕入れのため函館まで通わなければならなかった。その後'74年(明治7年)藤七氏は当時の胆振通り(現在の南1条西1丁目)に新店を構え始めて丸井今井の[のれん]を出し、呉服太物と雑貨を扱った。丸井今井のマークは藤七氏の生家が代々”いげた”の家号であった事に加え、今井の井の字は”いげた”と共に清水が滾々と尽きることなく湧き出る井戸という吉相の文字に、これを円満、無限、永遠を表す円相の○で囲み、商売が無限に繁盛する事の願いが込められているものであった。父の七平氏没後、藤七氏は今井家の7代を継ぎ、新潟の三条を[いげた]の本店とし、札幌を今井藤七支店として本人は店主として仕入れに専念し、次弟武七氏を札幌支店長とした。
* 当時の札幌市の町名は北海道の国群名が付けられ、現在の大通が[後志通]南1条通は[渡島日高通]北1条通は[浜益通]などと呼ばれていた。藤七氏が創業した地名も[渡島日高通、西創成通今井藤七]と、ややこやしい名称であった。これらの地名は1881年6月、現在の条丁目改正が行われた。
その後の経緯は1886年新たに今井洋物店を開設したが、'88年には呉服店から洋物雑貨を分離して新たに店舗を新築して札幌丸井今井洋物店を開店した。
時代は進み我が国の経済も自給自足経済から商品経済に移行しつつあったが、後述する三越の前身である[越後屋]が1904年(明治37年)に株式会社三越呉服店を設立したのを機に、東京、大阪地区で百貨店が続々と誕生した。このような状況を踏まえ藤七氏は丸井今井本店の百貨店開設を志した。百貨店開設の動きは着々と進められ1914年4月から現在の場所で建築工事が始まり、翌'15年(大正5年)10月 1日北海道で最初の百貨店が誕生した。最初の店舗は総3階建て総建坪1260坪であった。この新装なった本店も1924年12月28日火災に見舞われたが、昭和に入り1937年札幌本店の大増築工事に着手し、同年11月1日新装開店となった。同社は1957年7月にはこれまでの株式会社丸井今井商店から株式会社丸井今井へと改称した。
三越札幌支店は1932年5月(昭和7年)十字街4丁目京屋呉服店跡に地下1階地上6階のビルとして新築開店した。三越の歴史は古く、遡れば1673年三井高利氏が江戸本町1丁目に呉服店[越後屋]を開業した事から始まる。その後1893年越後屋を合名会社三井呉服店に改め、次いで1904年株式会社三越呉服店を設立したがこれが我が国で最初の百貨店である。1928年三越呉服店の商号を[三越]と改めた。
これに対し五番館の前身は札幌興農園で1893年小川二郎氏が現在の南2条西1丁目に東京興農園札幌支店を開設し、農産種子、農具などを販売していたが、その後[札幌興農園]を独立させて1899年に現在西武百貨店がある札幌駅前に移り和菓子、食料品、雑貨を扱いその後1906年に百貨店を開業した。しかし当時札幌は景気も悪く商売はふるわない為、1909年氏は興農園の経営に専念することとしてその他の事業を小田良治氏に譲つた。小田氏は店名を[五番館]とし、1912年から百貨店形式の店舗を開店したが五番館の名前の由来については幾つかの説があるが、浦内典信氏(取締役店長)はこの由来を次のように解説している。
[五番館と称したのは初めて札幌に電話が開通し、前年建築の興農園に五番の電話番号が架設され、本建築は横浜外人居留地の煉瓦造洋館に模して建築され、横浜の居留地では何番館と称していたので、電話番号に因み[五番館]と名付けた]。ルイズ・ヤング氏は新札幌市史の機関紙である[札幌の歴史35号]にデバートの研究記事を掲載しているが、五番館については他の大都市圏の百貨店とは対照的に周辺の郵便サービスの拡大によって成長を遂げたデパートであり通信販売によって成長を遂げたが、通信販売は1910年から始めたもので現在の通信販売の先駆者と言えよう。
1958年には本館を竣工し、丸井今井、三越と並ぶ札幌の三大デパートとして民放を支える主要な広告主でもあった。
更に1952年12月15日には札幌の玄関口国鉄(現JR)札幌駅舎も近代的装いで開業しこれと併せて札幌で初めての地下商店街そして「年中無休の札幌ステーションデパート」のキャッチフレーズが話題を呼んだステーションデパートが同月26日開店した。この結果1950年代の札幌のデパートは、丸井今井・三越札幌支店・五番館・そして新たに開業したステーションデパートの4店であり、1960年に入り地元資本の「そうごデパート」(南2西3)に三愛札幌店が入店、1962年には「サンデパート」「カナリヤ」が大型専門店として脚光を浴びる事となった。札幌の商業界はこの後1960年代に入り札幌冬季オリンピック(1972年2月3日ー13日)の開催を機に道外デパート、大型流通店の進出が相次ぐがこれは別項に譲る事とする。

<参考資料> 北海道テレビ登録台数


北海道放送ラジオは、出力3KWで札樽を中心とする道央圏の約24万3千世帯を対象として1952年3月10日放送を開始したが、同社が放送を開始した時点では既に前年の1951年、東京地区(ラジオ東京)、大阪地区(新日本放送)、名古屋地区(中部日本放送)での放送も軌道に乗りつつあり、必然的にHBCラジオ開局時の営業環境は東・阪・名のスポンサー依存度が高い状況にあった。草創期の同社ラジオにとって永続的な経営の安定と収入の拡大を図るためには聴取率の向上と放送エリアの拡大が喫緊の課題であった。
聴取率については、北海道に初めて誕生した民間放送という事も幸いして聴取者の期待も予想以上に高く、開局1年半でNHKを抜いて優位に立つことが出来た。伝統的なこれまでのNHKに対する聴取慣習に対抗するためには、聴取者に主眼をおいた2ウエイコミュニケーションを取り入れた番組編成が必須との観点から、聴取者参加番組、リクエスト番組の編成に主力をおいた成果でもあった。
又、今ひとつの課題である放送エリアの拡大についても道内各エリアへの置局計画が開局早々から進められ、放送開始後の翌1953年9月には本社札幌局の出力が3KWから10KWに増力され、これを手始めに各エリアの置局が順次完成を見る処となった。其の結果1961年3月現在での北海道におけるラジオ受信機契約台数634.650台の98%がHBCラジオ聴取可能となりSTVラジオが開局する1962年12月15日時点では北海道全域でのHBCラジオ聴取可能エリアは大幅に拡大し置局計画もほぼ完成度の高い状況になっていた。
一方これらの置局計画と合わせて道内主要都市に対する拠点づくりにもいち早く乗り出しラジオ放送開始の1952年10月1日には当時札幌と並んで北海道の商都と言われた小樽に放送局を開局、次いで翌1953年7月1日に函館放送局、同年11月28日旭川放送局を開局した。叉、1955年 8月1日には帯広放送局、1956年10月10日釧路放送局、同年10月23日室蘭放送局、同10月30日網走放送局、31日北見放送局を開局するなど放送開始数年にして北海道を縦断する放送ネットワークを完成させたのである。新しく道内各拠点に開局したHBCラジオでは各放送局毎に独立した制作体制を配備し各地域毎の番組を制作するなど地域密着路線を強力に押し進めた。このことが地域住民の共感と新しい民放に対する期待感を高め聴取率でも既存のNHKに対し大きな優位性を保持する処となった。
このような道内各エリア別の放送システムは北海道独自のシステムとして全国的にも注目されたが、営業面でも地域広告主のエリア別ラジオ出稿の機運を高めると同時に地域経済活性化にも大きな役割を果たしてきた。
1952年ラジオ放送開始当時には、全国的にも民間放送が経営的にも成立するか危惧される中で北海道放送もスタートしたが、民間放送の番組がこれまでのNHKの放送とは一味違った新鮮さが聴取者に受け入れられると同時に、北海道が生んだ自分たちのメディアと言う意識が予想以上の反響を呼びこのことが広告出稿面にも大きな波及効果を及ぼしたのである。
この様に北海道初の民放発足以来5年間は北海道放送ラジオが道内電波広告市場を独占していた。この5年間のHBCラジオ収入を時系列で検証したい。
図4は1952年から1956年までの5年間のHBCラジオの収入と伸び率の推移を示したグラフであるが、グラフが示すように毎年高い伸びを挙げ、ラジオメディアの将来に大きな希望をもたらした。この様な収入を確保出来たのは、前述の様な道内市場に対する地域密着の営業路線強化による営収拡大と、併せて中央広告主の地方に対する販売拡大戦略が広域商圏としての北海道を重点エリアとして注目し、新しいラジオ広告がネット番組の提供などを通じて積極的な動きとなって現れていたことによるものである。中央広告主の依存度が高いことを示したのが図5のグラフであるが、1958年から1960年の3年間の平均シェアは道外で75%、道内が25%となっいる。このように1950年代前半のラジオ広告費に占める道外投下広告費の比率が極めて高い事も 一つの特徴として挙げる事が出来る訳である。
 
図4 HBCラジオ収入    推移        
 
 
 図5 ラジオ広告費地域別シェア
 
 
 
 因みに[電通広告年鑑]によれば、1956年の全民放39社のタイム提供ランキング上位10社は@旺文社A大正製薬Bロート製薬C松下電器   D武田薬品E塩野義製薬Fヱスビー食品G桃谷順天館H森永乳業I三共となっており、全国39社のAタイムの契約率は全局平均84%と高い数字を示している。それだけに東、阪スポンサーに対する営業戦略は民放ラジオ局にとっては極めて重要な課題であり、当然北海道地区に対する広告費の配分についても積極的な活動が展開された。1953年には東京に全日本広告連盟が設立され、その中核となる東京広告協会が積極的な活動を展開していた。因みに北海道では1955年、[北海道広告協会]が設立され会長には当時の広瀬札幌商工会議所会頭、副会長には北海道放送の阿部社長が就任された。
 
北海道広告協会設立に当たってはこの後述べる[弥生会]の全面的なバックアップがあり、北海道広告協会は、北海道を広告市場として開発し中央広告主に対し市場への参入を積極的に促す諸々の計画が進められた。その一環として有力広告主のグループである[弥生会]のメンバーを北海道に招待し新しい市場についての理解を求めるべく北海道放送による招待会が1954年1月行われたのである。開局間もない北海道放送にとっては経営安定のための料金改定に有力広告主の理解を求める事もこの招待会の大きな目的の一つでもあった。この招待会の顛末が脇 哲氏(HBC)が書いた<かわら版20年史>1972.5月HBC社報 の中の[弥生会 雪の道行]として掲載されているが、草創期の営業活動の努力が偲ばれるので引用して紹介する。
[本間隆東京支社長は考える。日本の広告界をリードするものは全広連だ、そして全広連の中核体は東広協〜、更に東広協を制する者は弥生会の8人衆という論法が成り立つ、とすれば電波料金値上げの側面からの説得策として、大手筋スポンサー宣伝担当幹部のグループ弥生会のお歴々を北海道に招待する事が先決でないのか〜(中略)
ダグラスDC4機で1月23日雪の札幌に着いたのは 衣笠静夫(丸美屋)、稲生平八(森永製菓)、平井鮮一(壽屋)、小林辰四郎(ライオン歯磨)、氏など(中略)、山本業務部長を指揮官とする接待チームの涙ぐましい演出がスタートした。ラーメンの[三平]と予め打ち合わせしておいて振る舞ったラーメンを題して[トリスラーメン]。宿舎の各部屋にはミツワ石鹸、森永キャラメル、ライオン歯磨を揃えて置くという気の配りよう、定山渓の一夜では阿部社長も土木技師時代に会得した[ヨイトマケ節]を披露、又、登別への移動には1両を貸し切りにするなど徹底したサービスぶりにVIPは大いに気を良くしたのである]。以下省略
 
このような中央広告主に対する積極的な営業対応と並行して地場広告主に対する電波利用の営業活動も本格的に展開された。北海道放送10年史によればラジオ放送開始3日目で山口商事が地元スポンサー第一号として番組を提供し、それ以降、東本願寺、いすゞ自動車などとの契約が決まり営業活動も活況を呈する状況になったものの、これまでの新聞広告とは違ったラジオCMについてスポンサーの理解を得るのは並大抵の苦労では無かった。中には街頭放送と混同するスポンサーもおり、放送会社を包装会社と混同する、HBCを当時の農薬であるBHCと混同するなど、初めての民間放送のコマーシャルに対するスポンサーの理解を得て利用に繋げる為の壮絶な営業活動が日夜繰り広げられた時代であつた。当時の思い出を内藤晴雄氏(HBC客員)は同社の40年史で次の様に回想している。コラム抜粋[〜札幌も当時は人口31万程度、メーカーと言っても酒屋さんは酒造米が割り当てで宣伝しなくても造れば売れる時代、後は古谷製菓、札幌酒精、白熊ゴム、ネージュ石鹸など数える程度、残るは出先の工場という訳で、自然都心部のデパート、商店がスポンサーの対象となりました。南3西2の山口家具店が週1回15分のレコード番組の提供で地元契約第1号になりました。よくスポンサーになってくれたと思います。当時地元では新聞はまだしもラジオのスポンサーなどというのは贅沢だと言う概念が強かったのです。〜]。氏のコラムにも記載されているように当時の地元広告主として、今では懐かしいスポンサー名が挙げられているが、当時の主要な広告ソースとして小樽のスポンサー群の存在も忘れる事が出来ない。1952年のラジオ開局時の地元広告主としてはバンビキャラメルで評判の[池田製菓]が群を抜いていた。その他にも中野製菓(カリント)、北海屋(シトロン)、林屋(お茶)、三馬ゴム(靴)、西製麺(ラーメン)等が健在でテレビ開局後も札幌スポンサーの出稿を上廻る状況が続き、小樽経済界の繁栄ぶりを表徴しているおもむきがあった。 
 
小樽市は1869年[オタルナイ]を[小樽]に改められ明治の初期、国の殖産興業政策で天然の良港であり運輸の要地として重要な役割を果たしていた。1922年8月1日市制が施行されたが、1940年には高島町、朝里村を合併、続いて1958年には塩谷村を合併し、人口も203.486人となった。しかし戦後1955年以降の高度経済成長期が始まると共に流通需要の変化、流通機能の変化が始まり、金融、物流の拠点が逐次札幌に移動する事となり、斜陽化が急速に高まってきた。顕著な例として下記のグラフをご覧頂きたいが、当時小樽は道内外の流通取引の拠点として[卸売業]の販売シエアも1956年では札幌に次いで高いシェアを持っていたが、1970年以降急減傾向を示すに至った。1999年の商業統計調査では卸小売業年間販売額では全道34市のなかで第9位販売シェアも1.7%となっているが、'80年代以降既にこのような状況が始まっていた。一方札幌のシェアは同上の調査では50.9%と全道の半数強となったが'80年代の集中化がその後旭川、函館などの中核都市の発展と共に若干減少する傾向が出てきたことによるものである。
 
 図6 小樽・札幌の卸売業販売シェア対比
  

2-10 北海道大手企業の新たな船出  〜雪印乳業・サッポロビール〜

これまで1950年代の札幌市場での広告主としての企業について述べ、百貨店については創業からその後の発展の経緯についてそれぞれ概観してきたが、地場産業を代表して北海道の顔と言われつつ今日に至っている雪印乳業と、サツポロビールの戦後の変革について述べてみたい。戦後の経済の民主化政策を推し進めるため1947年12月18日、[過度の経済力の集中を排除し、国民経済を合理的に再編成する]事を目的とした過度経済力集中排除法が施行された。この法律に基づき11社が企業の分割を求められ、これらの中に我々道民にとって親しみ深い北海道酪農協同株式会社、(雪印乳業)大日本麦酒株式会社(サツポロビール)が含まれていた。この2社の他に帝国製麻株式会社も指定を受けているが、本稿では電波広告と深い関わりのあった雪印乳業と大日本麦酒についてその誕生とその後の経緯について述べてみたい。
最初は雪印乳業についてであるが、同社の前身である北海道酪農組合聯合会は戦中道内の森永乳業、明治乳業と統合して北海道興農公社として存在していた。戦後、公社の民主化が叫ばれ北海道興農公社を北海道酪農協同株式会社に変更することとなった。北酪社は北海道の原料乳を一手に集荷し、バター、チーズの生産量は国内企業としては最大であり、北海道の酪農は発展途上にあることから分割指定に反対を続けたが、1949年北酪社の分割指令案が出されるに至った。分割指令に基づき北酪社は存続会社を[北海道バター株式会社]新会社を[雪印乳業株式会社]に分割した。雪印乳業は1950年6月10日設立されたが乳業以外の事業は分離すべく勧告され、この結果雪印食品工業(株)、雪印種苗(株)、雪印皮革(株)、雪印薬品工業(株)の4部門が新たに設立された。

設立時の雪印乳業(株)札幌本社 北海道バター(株)
次に北海道にとっても馴染みの深いサツポロビールについてその誕生とその後の会社の変遷を同社の記念社史並びにホームページからその一部を引用しながら記述したい。
1876年6月、開拓史はドイツでビール作りを学んで帰国した中川清兵衛氏を主任技師としてビール醸造所の建設に着手した。翌1877年には開拓史のシンボルである北極星をマークとした冷製[札幌ビール]を発売した、これがサツポロビールの発祥である。
その後1886年北海道庁設置に伴い麦酒醸造場(これまでの醸造所が改称された)は、大倉喜八郎氏の大倉組に払い下げられたが、翌1887年12月渋沢栄一、浅野総一郎氏等が大倉喜八郎氏から麦酒醸造場を譲り受け札幌麦酒会社を設立した。一方東京では1887年9月日本麦酒醸造会社が設立され1890年2月には[恵比寿ビール]を発売したが、これがサツポロビールのもう一つの源流となっている。
1900年代初期にはそれまで全国に数多く存在していたビール醸造所も淘汰され、札幌・日本・大阪(旭ビール)・麒麟麦酒の4大会社が激烈な競合状態にあつた。このような状況下、日本麦酒の馬越恭平氏は1906年、札幌、日本、大阪麦酒の三社を合併しシェア70%台の大日本麦酒株式会社を発足させた。その後戦後に至り1949年9月大日本麦酒株式会社は[過度経済力集中排除法]の指定を受け、日本麦酒と朝日麦酒の2社に分割された。日本麦酒は新発足後[ニッポンビール]の商標でスタートしたが、愛飲家の要望に応えるかたちで商標を[サッポロビール]と改め、1964年1月社名もサッポロビール株式会社と改めた。
同社はその後の増大する需要と新しい市場開発を目指して1989年6月恵庭市戸磯にサッポロビール北海道工場を新設した。年間生産能力は11万6千4百キロリツトルである。この工場の新設に伴い永い歴史を誇っていた第一製造所を廃止しその跡地を企業パビリオンとして、都市機能を整備して複合的な街づくりを行う為これを[生活工房サッポロフアクトリー]と名付け、敷地面積41,217uの中に多面的な施設が網羅された。又、同社創業の地である札幌工場(1903年に札幌精糖から買収し1966年にサッポロビール札幌第二工場として稼働、北海道工場の稼働を機に札幌工場と改称)は2003年3月末をもって閉鎖される事となつた。
同社のホームページ(http://www.sapporobeer.jp/Company/history/index.html)に広告宣伝の歴史が記載されているが、1957年サツポロビールの復活と共に広告活動も本格化した、この時代は民放テレビが全国主要都市にも続々と開局を始めた年でもあり、北海道においてはHBCテレビが開局した年でもあり、新しいメデイアで放映された斬新なコマーシャルが視聴者に強烈なインパクトを与えた。そして現在でもキャツチフレーズとして語り続けられているのが1958年の[ミュンヘン・サツポロ・ミルウォーキー]の広告であつた。この時代は未だ我が国では自由な海外旅行は許可されておらず、当時の強い海外志向を背景に、世界のビールの本場を世界地図に図案化した広告とキャツチフレーズは斬新かつ実証的で説得力があり大きな反響を呼んだ。これなども広告が時代の流れを的確に捉えた事象として記憶されるべきでなかろうか。
                    
広告図案 サッポロフアクトリー
<資料 サッポロヒール120年史>

この同時期に分割した朝日麦酒、分割を免れた麒麟麦酒も民放にとっては現在も主要なナショナルクライアントであるが、この両社もそれぞれ北海道に工場を設立して北海道を生産拠点としている点からも北海道にとって関わりの深い企業である。そのような観点から両社の生い立ちからその後の企業発展の経緯について記述したい。
前述の様に1949年の分割指定により新たに朝日麦酒株式会社が発足したが、その歴史は古く1889年(明治22年)当時の関西の財界人の実力者であった松本重太郎氏を中心に設立された[大阪麦酒株式会社]を発祥とする。その後1906年前述のように札幌、大阪、日本麦酒の3社が合併して大日本麦酒株式会社を設立し、1949年9月分割により朝日麦酒として新スタートを切ったのである。分割時点での各社のシアは日本麦酒(現サッポロ)が38.7%、アサヒビールは36.1%、キリンは25.3%で、アサヒビールは日本麦酒とトップを争う状況であった。現在アサヒビールは業界NO1として快進撃を続けているが、分割後のアサヒのシェアは年々下がり続けた。1955年には31.8%、1960年28.2%、1965年24.2%、1970年17.2%、1975年13.5%、1982年10%と、年々減少の一途を辿ってきたが、その後の経営革新が実を結び飛躍的躍進を遂げる事となるのである。これらの過程は石山順也氏著[ドキュメント 快進撃への軌跡 アサヒビールの挑戦]の中で詳細に記述されている。同社と北海道との繋がりを更に強めたのは[北海道朝日麦酒株式会社]の設立である。北海道における二大酒類問屋の一つ[北酒販]が1961年から従来の日本酒に加え麦酒販売にも加わり、アサヒビールの総代理店として始動した。1963年には北海道におけるアサヒビールのシェアも10%台に達し、麦酒工場設立の機運が高まる中1964年9月27日札幌市白石区南郷に工場の鍬入れが行われ、37億円の巨費が投ぜられ年間20万石の生産能力を持つ工場が完成し、1966年4月からアサヒビールが全道一斉に発売される事となった。同社は1994年からは朝日麦酒株式会社の傘下に収められ支店としての運営に切り替えられた。
これに対し麒麟麦酒は[集排法]の適用を受けたものの 、所有株式のみの分割となつた。キリン史によれば麒麟麦酒の母胎となっているのは1885年(明治18年)当時の財界のリーダーであつた岩崎弥之助、渋沢栄一氏らが出資者となって[ジャパン・ブルワリー社]を設立し、その後88年にはドイツ風ラガービールを[キリンビール]というブランドで発売し、販売は明治屋が担当した。1906年に至り大日本麦酒株式会社が設立されるや、ジャパン・ブルワリーに対して買収の動きが強力に進められた為、明治屋社長米井源治郎氏が中心になり同社を外国人の経営から純粋な日本人の資本と経営にすべく買収する事とし、1907年2月麒麟麦酒株式会社が発足したのである。その後の麒麟麦酒の業績は順風満帆で1954年にはビール業界のトップシェアを獲得、1966年には50.8%という大台を超えて以来概ね50〜60%のシェアを維持し続けてきた。サッポロ、アサヒの北海道地区での市場戦略に対し麒麟麦酒は1986年同社14番目のビール工場として千歳工場を新設した。この工場は年間5万キロリットルの製造能力を持ち、[キリンガーデン]と言われる様な自然と文化の香り漂う憩いの場を指向した特色ある工場でもある。この他に宝酒造株式会社も1957年から[タカラビール]を発売し1959年10月10日札幌にも供給の迅速化を図るため瓶詰め工場を新設し稼働を始めたが先発各社の競争激化に抗しきれず1967年工場を閉鎖した。北海道地区では[(株)北酒連]が販売の中心的存在であった。このように北海道地区はビール業界の主戦場として、永い歴史を通じて熾烈な闘いが続けられている。このような競合の中から各社とも限定商品を生産しブランドの差別化を図っている。北海道限定商品として各社が販売している代表的な銘柄を挙げてみた。この他にも多様な銘柄が次々と生産発売されている。
 
                   
サツポロクラシック 北のキリン アサヒ道産の生

2-12 ラジオ・テレビ広告費の逆転現象

北海道におけるテレビ放送は1957年4月1日開局した北海道放送を嚆矢とする。そして遅れること2年、1959年4月1日北海道地区第二局目の札幌テレビ放送が開局し、これまでの北海道電波広告市場は 本格的なラジオ・テレビ競合時代を迎える。これより先、1957年北海道放送がテレビ放送を開始した時点では北海道放送でのラジオ・テレビの収入のウエイトは圧倒的にラジオが高くこの傾向は翌1958年・1959年も続き1960年に初めてテレビ広告費がラジオ広告費を凌駕する。この点が全国レベルより1年遅れており、この面では北海道地区でのラジオの健闘を称えるべきであろう。
1959年4月1日北海道第二局目の札幌テレビ放送が開局したがこの事が北海道地区の広告費にどのような影響を与えたか、1958年の全国総広告費に対する北海道地区のシェアは5.0%で全国テレビ広告費に対してはシェア4.6%に留まっていたが、1960年には総広告費、テレビ広告費とも全国の5.2%に上昇した。これに対しラジオ広告費シェアは対全国比で1958年6.9%、1959年8.0%、1960年6.8%と高いシェアを保持し、北海道に関しては1950年代はラジオの上昇期であったことを実証している。次ぎにテレビメディアの開局による媒体別広告費の変化について検証してみたい。
これを示したのが図7であるが、1957年圧倒的なシェアを誇っていた新聞広告費(60.5%)もテレビ広告がスタート後は年々シェアを減らし、1960年には1957年に比較して11.6%のシェアダウン(48.9%)となった。同じ様にラジオ広告費も1957年新聞に次ぐ広告費シエア(27.8%)を保持していたが、年々シェアが浸され、遂に1960年には10.9%のシェアダウン(16.9%)となり投下額でもテレビに追い抜かれる結果となった。独りテレビ広告費が1957年の5.7%から1960年にはシェアを22.3%アップして28.0%となり新聞に次ぐシェアを保持する事となった。
この4年間のテレビ広告費の伸びはすざましいばかりで実に9.1倍の伸びを示し4媒体の伸び額(1960年対1957年32.9億円)の54.1%の伸びを見せたのである。
しかし北海道地区では新聞の力が強くテレビが大きな伸びを見せても投下額においては依然として新聞が王座を維持しており、この状況はこの後も北海道広告界の独自現象として続き、この関係を打破することは電波広告関係者の最大の課題でもあった。
  図7 北海道地区メイン媒体広告費シェア推移
  
当時の北海道地区での広告費の特色として新聞広告費のウエイトがいかに高いかは前ページのグラフ図7で示した通りであるが、電波広告がラジオ・テレビ揃って登場した1957年以降確かにこれまでのシェアは低減傾向を示したものの広告費としては年々2桁成長を続け新聞広告費は、1960年においても前年比113.3%の伸び率となり、媒体シエアもラジオ・テレビ合計のシエアを上廻る48.9%の王座を保持している。1950年代は電波広告の揺籃期であり永い伝統を持つ新聞メディアの力はそれなりに理解できるが、この傾向がその後の電波広告が成長期に入った1960年代、1970年代にそのまま維持出来得た理由を新聞広告の媒体特性、そして代理店・広告主に関わる営業面からも検証する必要があろう。この問題は別項において記述する。
1957年以降1960年に至るも地元新聞広告費は順調に伸びラジオの伸びが止まった分がテレビ広告費に流れている。下記のグラフでは新聞広告費の
地元広告費シェアが1957年以降メイン3媒体の中で常に70%後半から80%台を維持している事を表している。
 図 8 媒体別広告費投下額シェア
 これはテレビの広告主は中央広告主が主流であるのと好対照に、新聞広告主は地元広告主の比率が高い事の証左であろう。テレビと新聞の出稿業種の違い(新聞広告に占める案内・求人等の企業広告)を検証する必要があろう。
上のグラフは1957年から1960年までのメイン3媒体の北海道地元投下額を比較して新聞の地元投下額・シェアが3媒体広告費の中でいかに高いかを示した物である。北海道における新聞広告費の一面を知る手がかりが得られれば幸いである。
 

2-14 広告費から見た媒体特性

図9 ラジオ広告費地域別投下額    
  
図10 テレビ広告費地域別投下額
 
図11 新聞広告費地域別投下額
 図9、図10、図11は、北海道地区におけるラジオ・テレビ・新聞広告費の道外、道内投下額を示したものである。
1950年代の北海道地区広告費の特色として挙げられるのは、ラジオ、テレビの各媒体がそのメディアの持つ媒体特性による出稿状況の違いであろう。図9のラジオは媒体の特性として地域情報を主力としている関係から、テレビに比べて道内からの投下が多く、グラフが示すように1960年には道外の投下額が減り,代わって道内の投下額が増加している。これは1959年の全国レベルでのラジオ広告費と、テレビ広告費の逆転現象の影響もあるが、今一つの要因として、1952年開局した北海道放送ラジオがいち早く道内拠点都市に放送局を開局し放送体制の確立によりエリア毎の番組制作を行い、地域収入をあげるシステムを構築する事により年々ラジオ広告費の道内シェアを高めた事が大きな要因の一つであろう。
これに対し図10のテレビは道外からの出稿が大半を占めており、1958年から1960年の平均シエアは道外シエアが90.4%に対し道内のシエアは9.6%、出稿も其の大半が札幌エリアである。テレビメディアについては中央広告主からの出稿依存度が高く、経済全体の動向が広告収入と密接に関わっていることを物語っている。
これら電波広告に対し地元シェアに絶対的強さを誇る新聞は図11に示す様に3ケ年平均シエアは道外50.6%、道内49.4%となっている。


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