第五章 電波広告の成熟期

5-1 多様化時代の電波広告 5-2 テレビ広告費の時代的変化
5-3 マーケッテイング活動の新しい潮流 5-4 地域活性化を目指すメディア活動
5-5 道内民放共同企画の展開 5-6 本格的な地域情報番組と電波広告
5-7 北海道を巡る経済環境 5-8 北海道経済を支えた開発計画
5-9 王座を奪還した北海道地区テレビ広告費 5-10 北海道地区電波広告収入の推移

1981年ー1988年(昭和56年ー昭和63年)

1980年代は昭和時代から平成時代へと移り変わる最期の一時代であり、電波広告業界は1989年を境に、将来の衛星放送時代を見据えた新しい時代即ち「衛星元年」と言うに相応しい時代を迎える事となる。
我が国が第二次大戦に敗れ平和国家を目指して第一歩を踏み出した1945年から昭和時代の終焉(1989年)迄の44年間の政治・経済を含めた我が国の歩みは、誰もが想像し得なかった戦後の復興から世界の先進国に追いつく経済成長を遂げ、遂に世界に冠たる経済大国の地位を不動のものとしたのである。1980年代は1973年の第一次オイルショツクそして1979年の第二次オイルショツクを経てその幕を開け、1985年、'86年の円高不況を克服してその後順調な歩みを始めたのである。
 
1970年代の終盤勃発したイラン革命を契機とした第二次オイルショツクにより我が国経済は1980年以降'83年まで景気の後退を余儀なくされたが、この景気後退局面も1984年に入り輸出や設備投資に支えられ拡大基調に転じたのである。しかし1986年に入るや日本経済は円高による輸出の停滞、設備投資の伸び悩み、個人消費の低迷などにより景気も悪化の一途を辿った、この景況も1987年一転して内需の拡大と個人消費により拡大基調に戻り1980年代の終盤である1988年の日本経済は久方ぶりに明るさを取り戻し産業界は挙げて好景気に酔いしれたのである。円高不況についてエコノミスト金森久雄氏はその著書「わたしの戦後経済史」の中で1987年後半からの景気回復の要因を次の様に記述している。それによると1986年の11月が不況の底で、それから景気が回復し'87年後半から急激な景気の上昇が起こり平成景気が展開した。景気回復の最大の原動力は、円高デフレを緩和するために実施された積極的な公共投資の拡大と減税である。そして各企業が近代化投資を行いこれによって生産性を高め円高に対処した、このことが投資の拡大と内需の拡大に大いに寄与したと述べている。消費を高めた一つの要因は円高でありこれによって消費が活発化し、そして円高不況は意外にも平成景気という投資主導型の大ブームを生みだし、1986年11月から1991年4月迄の53ケ月間の平成景気が続いたのである。一方このような経済環境下にあって広告費はどのような推移を辿ってきたのであろうか。1984年10月18日盛岡市で開催された第32回民放大会で当時の民放連会長中川順氏が会長挨拶の中で、1980年代の民放業界は「低成長」「多局化」「ニューメディア」と言われる三重苦に直面していると述べられたが、将にこの言葉に象徴される業界環境の中で電波広告費もこれまでとは違った厳しい局面を迎えたのである。一言で言えば1980年代は「多様化時代の営業戦略の構築」が求められる時代の潮流であった。この時代の景気を反映してテレビ広告費は1985年には民間放送発足以来最低の伸び率である101.9%、続く'86年も102.6%と前途に一抹の不安を覗かせたのである。亦、ラジオ広告費は'85年103.8%と健闘したものの'86年には101.3%に落ち込んだのである。総じてこの時代はテレビ広告費主導で推移してきたと言えよう。広告費の全体的推移は別途記述する事とするが、この時代テレビ広告費についても年々その内容に変化が生まれてきた。即ちテレビの広告費の中で占めるスポット広告費の増大と、大都市を中心とする広告費の集中化傾向が顕著な事象として現れてきた、この傾向は既に1070年代終盤にも散見されたが、ここに来て大きな流れとなって動き始めたのである。
この大きな要因は価値観の多様化と言う時代的変革と、これに対応する「多品種少量生産」「商品サイクルの短期化」「広告費の販売直結型利用」等、広告主のマーケッテイング活動に大きな変化が生まれてきたことによるものである。これらマーケッテイング関連については別項で述べて見たい。
図 34 全国媒体別広告費推移
 
上記に見る通り1985年、'86年は新聞・ラジオ・テレビ各媒体とも低成長を余儀なくされた。1987年に入り広告費も復調の兆しを見せ、翌'88年には各媒体とも大幅な伸び率をあげる事が出来た。1985年以降の広告費動向で注目すべきは、SP広告費とニューメディア広告費である。広告主のマーケッテイング手法が'85年、'86年の不況を契機として販売に直結したセールスプロモーション広告に重点が置かれる機運が高まりを見せた。亦、新しいメディアに対する広告費利用も時代を先取りする形で動き始めた。電通の日本の広告費も1987年これまでの推定範囲を改定して新しい方式を採用したのもこのような実体を踏まえての事であろう。これまで述べて来た様にSP広告費は'85年以降各媒体を通してトップの広告費となっている。特にSP広告の中でも「DM」「折込」広告が好調に推移している実体は全国的傾向であるが、北海道地区に於いても同様な現象が見られる処であり、広告メディアとして侮れない存在と成りつつある。亦、ニユーメディア広告もケーブルテレビの広告出稿が大半であるが、既にケーブルテレビを含めた衛星デジタル放送が国内外の資本参加により大きな動きを示しており今後の広告面にどのような影響を与えるのかは予測できないが充分関心を持って対処しなければならない媒体となつた。
1985年以降テレビ広告費にも新しい変化が表れ始めた。前項でも触れたが中央広告主のマーケッテイング活動が、テレビ広告の利用面で大都市集中による広告費の効率的運用、そしてこれまでの番組内CM露出よりも販売に直結したスポット広告へのシフトへの転換が顕著な事象として動き始めたのである。
 図 35 テレビ広告費地域別投下額シェア
 1985年以降のテレビ広告費の推移を見ると各地区のシェアは毎年ほぼ同じレベルで推移している。これはタイム・スポット・制作費を含めたグロス広告費であり、大都市集中の動きはスポット広告に顕著であるが、東・阪・名地区はもとより全国各地区でもテレビ収入の比重はタイムに比べてスポットにウエイトがかかる傾向にある。加えて東・阪・名地区のスポットシェアが年々拡大するのに対し、これ以外の地区でスポットシエアは年々減少の傾向が強まってくる。この現象をなんとしても阻止し、中央広告主の目を地方に向けさせる事が今後の地方局にとって最大の課題と成ってきたのである。
次に各地区スポットシエアの推移を見る事とする。
 
  図 36  全国主要地区スポット収入シェア
 
上のグラフは、全国主要都市におけるタイム(制作費を除く)とスポット収入シエアの推移である。この表からもスポット増加の流れが大都市を中心として加速している実体が理解出来る。電通の調査資料によっても全国レベルのテレビ広告費も年々スポットのシェアが増大し、1988年には50%、89年には52.1%とテレビ広告費のメイン商品としての位置を確立しつつあることが報告されている。。下のグラフ図36からもスポット広告費シエアが東阪名を中心に上昇し、年々大都市集中化の傾向が強まり、反面その他地区へのスポット投下額減少の傾向を読みとる事が出来よう。
 図 37 全国主要都市テレビスポット投下額シェア
 
1980年代に入り、これまでの高度成長を支えてきた「大量生産ー大量販売ー大量消費」と言う全国画一的なマスマーケッテイングは消費者の価値観が多様化する中で広告主のマーケッテイング活動にも大きな変化を促す結果となった。
即ちイベント・セールスプロモーションの重視、エリアマーケッテイングの展開、そして販売に直結した広告計画が主流となり、広告費の効率的な投下目的が広告費の大都市集中化傾向に拍車をかける事となった。そしてテレビの利用形態にもこれらの状況に対応するように大きな変化が始まったのである。これまでのテレビ広告は番組提供が主流であり、スポット広告は商品の販売キャンペーンに連動する形で利用する集中スポット(限られた期間に大量の広告を重点的に露出する)型の戦略商品として位置づけられ、番組CMは企業のステイタスを高める事を意図した企業広告的性格が強かったが、多品種少量生産ー販売のためには商品の認知率を高め販売に直結する広告露出に重点が置かれる様になりスポット広告費がタイム広告費を追い抜いてテレビ広告費の主流となりつつあった。 この事は前項でも述べた通りである。
亦、この時代広告業界、わけても広告費の多くをネットワークによる電波収入と、ナショナル広告主の出稿に依存していたテレビ業界(地方放送局)を中心に、エリアマーケッテイングの推進によって電波広告を活性化しようとする動きが急速に高まった。一方中央広告主の間でも今後の販売活動を更に強めていく為には、全国画一的なマーケッテイングではなく各エリア毎のきめ細かな対応が不可欠であるとの考えが広まってきたのもこの手法を一層盛り上げる力となった。
 
テレビ広告費の大都市集中化が顕在化し、北海道地区マーケットに対する投下広告費シェアが年々落ち込む状況に道内テレビ関係者の危機感は最高潮に達した。そしてこれまで述べてきたように地方の広告費の活性化を図る為には、地方放送局が進んで「エリアマーケッテイング」を積極的に展開すべきとの有識者の発言が飛び交う時代背景でもあった。
1985年10月北海道地区テレビ4社のHBC・STV・HTB・uhb(平成元年TVh開局後5社)社長会はこのような状況を打破する為にはテレビ各社が結束して共同キャンペーンを展開する事が必要との認識に達した。直ちに各社営業関係幹部を中心に在札テレビ4社連絡協議会が設立された。
この協議会では翌'86年1月26日在札4社の営業担当役員以下本社・東京・大阪支社幹部が一同に会して道外市場に対するPR活動のあり方、北海道地区スポットシェアを高める為の具体策等真剣な討議を展開した。
北海道市場を売り込んで行く為にも、中央広告主が北海道地区のテレビ局にどのようなマーケッテイング活動を期待しているのか、今後のステーションマーケッテイング活動に対する要望は何かをテレビ関係者が正しく理解することが必要であるとの観点から、中央広告主のマーケッテイング担当役員、宣伝担当幹部の方々にご講演をお願いする事からキャンペーン活動をスタートした。各講師とも異口同音に地方民放に期待するのは地域の情報センターとしての機能であり、地域の生活文化の情報発信機能であると力説された。これらの示唆を踏まえてその後各テレビ局とも地域情報番組に精力的に取り組む事となるのである。このキャンペーンは各社が持ち回り幹事社となり東京市場に対してはPR誌の発行、大阪市場に向けては当時の北海道知事横路孝弘氏を始めとする道内エコノミスト・ジャーナリスト等の講演を継続的に実施したが、同業間・系列間競合が激化する中でテレビ各社が利害を超えてテレビメディアの活性化に取り組んだ姿勢は高く評価されるべきであろう。
 
この目的に沿って展開された具体的事例として、道内全局が参加して行われたのが[おおーい北海道キャンペイン]であった。1984年サッポロ・ビールサイドから、北海道活性化の一役を買い上記キャンペィンを協賛したいとの申し出を受け、在札マスコミ各社が共催して実施することとなり、1986年8月30日午後1時から54分間、最初のイベントとして[ビアトーク・イン・サツポロ]がテレビ4社の共同制作、同時間放送が実施された。この企画は全国的にも大きな反響を呼び、同年9月4日発行の週刊新潮には[サッポロビールが電波ジャツク?]というタイトルで次の様に紹介された。
[8月30日に北海道地区で放送される正味1時間のトーク番組は、なんと、地元の民放テレビ局が呉越同舟、すべて同時に放送すると言うから驚きだ。たとえ一つのブロックの事とは言え、全民放が一社提供の同じ番組を流す事は類例がない。サッポロ・ビールでは北海道の一村一品運動をテーマーにした公共性が高いものだから実現した、と語っている]。
その後この企画はラジオ・テレビサイマル企画として五年余継続して続けられたが、北海道地区という地方エリアが大都市集中の広告戦略に大きな危機感を持ち、地域内メディアが連携して取り組んだエリアマーケッテイングの具体的実例と言えよう。
                                  
1980年代は放送メディアの分野でも[地域に根ざした放送活動]が求められる時代であり、地方の自立と言う大きな政策目標に呼応して地域社会を主たるターゲットとした情報番組が展開される時代的趨勢にあった。一方広告主の電波広告利用もこれまでの売りを主軸としたマーケッテイングツールとしてのラジオ・テレビのCMから視聴者のニーズに応える情報化に大きく軸足を変えつつあり、このことが地域情報番組のCM提供という形で展開され、番組とCMの両面の活性化に拍車をかける事となつた。 
地域情報番組の先鞭をつけたのはHBCテレビが午後6時台に編成したローカルワイドニユース[テレポート6]であつた。放送は開始は1975年2月3日であるが、当時午後6時台と言えば子供対象の時間帯として、漫画など子供対象の番組が犇めいていた時間帯であった。この時間帯を子供の時間からニユースという番組に変えると言うことは営業サイドから見れば極めて大きな冒険であり、安定していた収入源を放擲する事を危惧した事は言うまでも無い。しかしこの番組編成は時代の流れであり、ニユース番組の営業化は困難というこれまでのイメージを払拭して、放送開始後日を追って視聴率の急増と共にCM提供スポンサーの需要が増え、限られた放送枠を巡る営業部門の嬉しい悲鳴が続いた。この番組は今日まで続いているが、2000年1月1日からは装いも新たに[テレポート2000]として再スタートした。
このように地域情報番組は先ずローカルニユースを中心に展開されされたが、HBCテレビが先鞭となってその後1979年3月にはSTVテレビ[ズームイン!!朝!]がスタートし、これらを契機として各局とも朝、夕の時間帯でのニュース番組での競合が激化した。地域情報番組はニュース番組にも見られる様に電波広告の対象番組としても完全に定着し、ジャーナリズムとコマシャリズムが相乗効果をもたらす状況になった。このことがHBCテレビの[ほっとないと22]STVテレビの[どさんこワイド120]等へと発展する。HBCテレビの[ほっとないと22]は本格的な地域情報番組として1986年10月7日(火)午後10時から54分の番組としてスタートしたが、翌'87年10月6日からはタイトルも[ほっとないとHOKKAIDO]として午後8時から54分の番組となる。このように地方テレビ局がプライムタイムを使って自社番組を制作することは画期的な出来事であり、地方の時代を表徴するこれからのメディアのあり方を示唆した感があった。これに対しSTVテレビでも開局以来初めてのプライム枠での制作が行われる事となったが1989年10月1日より(日)午後10時30分から始まった[日高晤郎のスーパーサンデー]である。北海道エリアでHBC・STV2局がプライムタイム枠での情報番組制作に意欲を燃やしている一方で、午後夕刻帯の自社制作に取り組んだのがuhbである。午後帯の情報番組は既にHBC・STVでも実施されていたが、uhbは北海道新聞の豊富な情報源を活用した情報番組の制作を意図したものである。1989年10月2日午後4時台にスタートした[TVポテトジャーナル]である。更に同社は1994年10月3日からは午前帯の情報番組として、元HBCアナの佐藤のりゆき氏を起用した[のりゆきのトークDE北海道](月ー金9.00〜)を編成したが、この番組も2002.11.11日には放送開始2000回を数える事となつた。一方午後帯についてはこの時間帯の情報番組として話題を集めたSTVテレビの[どさんこワイド120]を挙げることが出来よう。この番組は1991年10月7日から午後5時からの2時間番組としてスタートしたが、地方局としては異色ともいえる長時間の情報生番組として注目を浴びたこの番組も'93年10月からは[どさんこワイド212]として再スタートし現在に至っている。この時間帯にはHBC[ビタミンTV]、HTB[夕方Don!Don!]、更にはNHK[ほくほくテレビ]が自社制作の情報番組を編成し道内民放テレビの熾烈なる闘いが続けられている。
このように幾多の試練を経ながら各社の地域情報番組への取り組みは、現在全放送時間の中での自社制作の比率を高め、各時間帯での熾烈なニユース、情報番組の闘いが繰り広げられ、この視聴率が電波広告収入にも大きな影響力を及ぼす処となったのである。
 
日本経済は円高不況を克服して1986年末からいわゆる「平成景気」が始動するのであるが、この時期北海道はどのような状況で推移したのであろうか。
1980年からスタートした国の財政再建政策に伴う公共事業抑制策は北海道経済の停滞に拍車をかけることとなった。北海道の経済を支えているのは公共事業と観光であり、その目玉である公共事業の削減は極めて大きな打撃を与えたのである。加えて1980年、'81年、そして'83年と相次ぐ農業の冷災害、1985年以降の北洋漁業の減船、鉄鋼・造船などの基幹産業の構造不況等により1980年から1985年の経済成長率は年平均1.1%と全国平均3.7%を大きく下回る結果となった。
 図 38 経済生長率の推移                      
図 39 実質経済生長率
上記の資料に見る如く1980年代の北海道経済は戦後最悪の状況であったと言えよう。北海道の実質経済成長が1981年、'83年いずれもマイナス成長となっているのは前述の様にこの年の冷災害に伴う影響が第一次産業ばかりでなく地域経済に大きな影響を与えたものと言うことが出来よう。
1986年の円高不況の波は北海道地区にも押し寄せたが、翌'87年以降全国的な景気の回復と併せて緊急経済対策による公共事業の大幅な増加により局面の転換を図る事が出来たのである。
北海道経済白書によると、1987年北海道に投入された開発事業費は10.991億円と過去最高であった前年を2.9%上回る大型なものであった。これら公共投資は本道に於いては景気対策として高い効果を持っており公共投資が最終需要に占める大きさを考えると民間設備が弱い中で1987年の景気回復の牽引力としての役割は極めて大きなものがあった。加えて北海道経済を支えるもう一つの柱である観光も1987年は大きく伸びたがこれも景気回復に繋がる大きな要因の一つである。その他の経済指標の中で特筆されるのは建設関連であり、商業用ビル建設は前年比11.6%と1981年の水準まで回復したが、住宅着工数は前年比25.6%の増でこれ亦 1979年以来の着工数を記録した。住宅着工数がこのように大きく伸びたの要因の一つは札幌圏への人口流入の増加による世帯数の増加と、今一つは札幌市の相次ぐ地下鉄の路線延長に伴う住宅地の開発が挙げられている。亦、景気回復を進めた要因として個人消費の拡大を忘れてはならない。一つの指標として百貨店とセルフ店を合わせた大型小売店の売り上げも前年比5.3%と伸び、道内における自動車販売台数も前年比2.6%と伸びるなど景気は着実に回復基調を歩み始めたのである。      
 
一方これまで北海道の経済を支えてきたのは諸々の開発計画であったが1952年の第一期総合開発時代から数えて第6期の計画が現在進行中であるが、
これまでも断片的に記述してきたが第6期計画の策定に当たり国土交通省北海道局が纏めた資料[北海道開発の沿革]から掻い摘んでその歴史を振り返って見たい。
@ 第1期総合開発計画時代(1952年−1962年)では1952年−56年を第1次5ケ年計画、1958年−62年を第2次5ケ年計画と定めた。第1次5ケ年計画の目標は[資源開発]で電源の開発、道路、港湾、河川等整備拡充、食糧の増産等、これに対し第2次5ケ年計画の目標は[産業の振興]で新たに国土保全、農林水産業の生産性の向上、文化厚生設備の整備が加えられ、第1次計画には4,335億円、第2次計画には6,600億円の資金が予定された。
A  第2期総合開発計画時代(1963年−1970年)では開発の目標を[産業構造の高度化]と設定し、これを推し進めるための総合的交通通信体系の確立、社会生活環境施設の整備拡充に諸政策が具体化される処となつた。資金計画も大幅に増額され3兆3,000億円となった。
B  第3期総合開発計画時代 (1971年−1977年)の目標は[高生産・高福祉社会の建設]で、更に交通通信エネルギーの輸送体系の確立、観光開発の推進が謳われ資金規模も20兆7,500億円が計上された。
C 第4期総合開発計画時代(1978年−1987年)では[安定性のある総合環境の形成]が開発の目標に、これまでの基盤整備を更に進める諸施策が計画され資金規模も47兆1,000億円となった。
D 第5期総合開発計画(1988年−1997年)は[我が国の長期的な発展への貢献、国の内外との競争に耐えうる力強い北海道の形成]を目標に、柔軟で活力ある産業群の形成、高度な交通、情報、通信ネットワークの形成、安全でゆとりのある地域社会の形成を主要な施策として掲げ総投資資金も60兆に及んだ。
E 第6期ほか移動総合開発計画(1998年−2007年)は、第5期計画では当初見込んだ水準に照らすと、人口や経済生長率は経済情勢の変化などの要因により必ずしも順調に推移しているとは言い難い。これらの反省に上に立って新しい対応が必要であるとの判断から新しい開発計画が立てられた。
このような国の施策に対応して北海道も独自の計画が策定され、先ず1978年には10ケ年に及ぶ[北海道発展計画]が実施されたが、1987年11月には[北海道新長期総合計画]が策定された。この計画は21世紀を展望して、@北方圏とアジア、太平洋地域を結ぶ拠点A個性を競う地域生活経済圏Bダイナミックな発展力を持つ産業C安心して住めるふれあいの社会D人間と自然との共生E新しいネットワーク、これらが新しい目標として掲げられた。この計画を実施するに当たっての現状認識として次の点が指摘されている。
1..経済成長率の鈍化1980年以降4年間の北海道経済成長率は全国平均の半分の水準である。亦、鉱工業生産、雇用面の指数は全国9ブロックの最低水準である。
2..産業構造の転換
  北海道の弱さは工業蓄積力にある。それらを強化するための産業構造の転換が必要である。
3..流失する人口
  1980年以降の人口増加率は1.9%に留まっており、人口減少の市町村は全体の80%に及んでいる。1986年の人口は前年比マイナスとなった。
この様な現状認識に基づき上記の10ケ年の総合開発計画が実施される事となり、前述した諸々の目標が設定されたが、具体的には多分野に亘って21世紀に向けて北海道を活性化するためのプランが計画された。戦略プロジエクトとして、「航空宇宙産業基地」「農業地域産業複合拠点」「海洋開発拠点」「臨森林型都市」「国際エアカーゴ基地」「国際リゾート連胆都市」「高速交通システム」「地域計画情報システム」「医療福祉INS」等スケールの大きな計画が打ち出され道民の夢を育んだのであるが、平成に入りバブル経済の崩壊後これらのプロジェクトもその計画が見直される等、計画原案とは違った姿で推移している。
このような開発計画とは別に北海道にとっての最大の話題は「青函トンネル」の開通である。1988年3月13日世紀の難事業と言われた青函トンネルが開通し、本州と北海道はトンネルを通じて陸続きとなり物流など経済面での波及効果は大きく、亦、この年7月20日には新千歳国際空港も第一期工事のA滑走路が完成、ターミナルビルも1992年7月装いも新たに開業し、陸、海、空のアクセスの充実は今後の北海道経済に新たな活路を生み出す事となった。しかしこの年、1988年6月3日から10月30日迄札幌月寒・大谷地・大通会場と函館会場で実施された「食の祭典」は北海道全域に亙るイベントとして道主導で展開されたが結果は大きな負の遺産を残して終了するという後味の悪い結果となったのである。
 
全国レベルの広告費推移は5-1で述べた通りであるが、この時代厳しい経済環境に曝された北海道地区での広告費はどのように推移して来たのであろうか。
これまで記述した通り、広告界にとって大きな打撃を受けた1986年の全国媒体別広告費の伸び率は新聞102.9%、ラジオ101.3%、テレビ102.6%といずれの媒体も厳しい状況に終始したのである。同じ'86年北海道地区媒体の伸び率は新聞109.1%、ラジオ101.3%、テレビ102.6%と新聞が突出した伸び率を見せたのである。そして翌'87年は一転して新聞が前年割れの98.8%、ラジオ102.7%、テレビ110.9%の伸び率を示したが、北海道地区でのこの2年の推移をどのように分析すべきなのか、判断に苦しむのは'87年には経済も好転の兆しを見せ、全国広告費も新聞108.2%、ラジオ105.8%、テレビ107.7%と順調な回復を見せているのに対し、北海道地区での新聞広告費のみが1986年109.1%、87年98.8%と独自の動きを見せていることである。この面について私は次の様に分析している。北海道経済は1981年以降不況に見舞われたが、1987年の政府の緊急経済対策に伴う大型の公共投資により局面の転換を図る事が出来た。しかしこの景気回復も公共事業を中心とした公共投資に支えられての成長率であり、道内の実体経済は地場産業の中で大きな比重を持つ第三次産業等の景気回復は本州と比較して2年のタイムラグがあると言われている。地元景況は1986年よりはむしろ87年に不況のしわ寄せが強く、この面で地元シエアの高い新聞広告費にそのまま跳ね返ったのではなかろうか。其の点から言えば電波広告費、特にテレビ広告費は道外からの広告投下の依存度が高く全国の景気変動と軌を一にしており、この事から広告費の伸び率も全国と同じ推移を示していると理解している。いずれにせよ地場シエアの高い新聞広告費、中央依存度の高いテレビ広告費、この媒体の持つ営業特性がこの年代の媒体広告費の流れに大きな変化をもたらしたのである。
この様な状況に関連して北海道新聞社30年史の記述を紹介する。
上記30年史によれば、同社広告収入が1983年から連続3年に亙って前年実績割れを記録したのは北海道新聞広告史上初めての事であり、この期間は記録的逆風の期間であったと述べている。この傾向は道内だけの傾向で道外支社は順調に推移しているとも述べている。
北海道新聞の広告収入は、上記30年史によれば1971年の広告収入を100とした場合、1985年349.9、1988年434.5の伸びとなっている。1983年から1985年までは前年マイナスとなったものの、1988年は前年に比べて55.7ポイントの増加を示しており、1988年以降1990年代に入ってからの道新の躍進振りを窺わせているのである。
1980年代の北海道地区広告費推移で特筆すべき事は、テレビ広告費がこの年代で新聞広告費を追い抜きテレビ広告主導型の流れを作った事である。1975年全国レベルでテレビ広告費が新聞広告費を凌駕して以来、これに遅れる事10年テレビ関係者の念願を叶える事が出来たのである。残念なことに1981年まで電通北海道支社が算定していた「北海道広告費推定」が1982年以降作成されず、1985年以降は電通本社作成の「日本の広告費エリア配分」が作成された。従って1982年、83年、84年の北海道地区媒体別広告費が不明の為、テレビ広告費が正確に何時の時点で新聞広告費を凌駕したかは定かではないが1985年時点で追い越した事は次のグラフからも実証されるのである。
図 40 北海道地区媒体別広告費投下額
 
図 41 北海道地区媒体別広告費シェア
5-5「北海道を巡る経済環境」で記述した通り、1980年前半の北海道経済は戦後最低と言われる状況にあった。この事が広告費の面でも地元シエアの高い新聞広告費に大きな打撃を与え、結果1980年年代後半は上図に見る如くテレビ広告費を主流として推移したが、全般的な特徴として指摘できるのは雑誌広告費の台頭であろう。1975年以降札幌市場を中心とした出版の状況については前述した通りであるが、1985年雑誌広告費は投下額においてラジオ広告費を抜き、その投下額も10年前に比較して20倍以上の広がりを見せている。上のグラフでは北海道地区の新聞・ラジオ・テレビ広告費シエアを記載したが、新聞は1970年代後半までは常に50%を中心に推移してきたが1980年以降40%前半へとシエアダウンしている。代わってテレビ広告費シエアが50%台(1986年を除く)を超えるシエアを確保するに至った。戦後新聞広告独占時代からラジオ・テレビ等の電波広告の出現、電波広告の成長、発展期を経て電波媒体はテレビ4局(1989年5局)、ラジオ3局(1993年4局)と言う電波広告の成熟期を迎え広告市場は活字・音声・映像など多メディアの熾烈な闘いを続けながら昭和から平成へとバトンタッチする。平成時代を迎えた広告業界、特にテレビ業界は衛星時代の本格的到来を待つことなく放送通信を含めた大転換期を迎える事となる。
前段で1981年から1984年の電通による調査資料が作成されてない事を述べたが、1980年代後半にかけては地区広告費の面ではテレビの伸びが特筆されるものの、地元広告費については新聞広告費優勢の状況は変わっていない。4-7北海道主要エリア別広告費の項では1971年から1980年までの地元広告費について紹介したが、電通の資料がない1982年から1984年の地元広告費について、道新推定の数字が同社発行の年鑑に記載されているので紹介する。但し内訳は新聞・電波の二区分となっている。
                        単位 億円 ( )は前年比
  新  聞 テレビ・ラジオ  総計
 1982年 244.5 (3.7%)  98.0 (6.1%) 349.0 (△1.7%)
 1983年 351.0 (0.6%) 115.0 (10.1%) 351.0 (0.6%)
 1984年 344.0 (△2.1%) 118.0 (2.4%) 344.0 (△2.1%)
 
これまでは電通の[日本の広告費]を中心に広告費を検証してきたが、本章では視点を変えて1980年代終盤のテレビ・ラジオの広告費を営業収入という面から検証しその動静を分析する事とする。前著では各局別の収入についてその推移を検証したが、今回は広告市場を中心考え、各局別の収入には言及せず、ラジオ、テレビなどメディア別の総収入について検証する事としたい。
1972年に北海道地区第四局目のテレビ局として北海道文化放送が開局し北海道も本格的な中央ネツトワークに繋がる四系列体制が確立した。亦、1982年には北海道地区第三局目のラジオ局としてエフエム北海道が開局した。
図 42 北海道地区電波収入推移
 
 
上のグラフは北海道地区の電波収入の推移を示したものであるが、テレビ収入1988年度の実績は1981年を100とすると146.7亦、ラジオ収入は150.1の伸びを見せており、1984年から1986年にかけての不況を考えると順調に伸びたと言えるのではなかろうか。但しラジオ収入には1982年開局したFM北海道の収入が加わっての収入である。次にテレビスポットについて検証するが、先に5-2「テレビ広告費の時代的変化」で全国レベルでのスポット重視の流れについて電通資料を参考に検証したが、北海道地区の実績についても収入面から検証する事とする。
次ページのグラフは1985年度から1988年度の北海道地区テレビ局スポット収入実績の推移である。テレビ全収入に占めるスポット収入のシアを見ても1985年、86年が50.4%、87年52.8%、88年53.9%と、年毎にすポトのシェアアップの実態が明らかになった。このような推移を見るにつけ、北海道地区に於いてもスポットがテレビ収入の主流となり、今後益々其の傾向を強める事が想定されるのである。
次にスポット収入の地区別(道外・道内)シエアを検証する事とする。
1986年、87年度は北海道経済が戦後最低と言う状況で落ち込んだ時代であり、従ってスポットの伸びは道外投下額に依存せざるを得ない状況にあった。
1988年度は道内景気の回復に伴って道内投下額シェアも上向きの傾向に転ずるが、今後平成時代どのような推移を辿るかを注意深く見守る必要があろう。
図 43 北海道地区地域別テレビスポット収入
       
次に北海道地区ラジオ局の収入について分析してみたい。
下記のグラフは道内ラジオ三局の収入の推移を示したグラフである。 
 
図 44 北海道地区ラジオ収入推移 
 
 
前掲のグラフでも示したように1980年代の終盤、1985年から88年の北海道地区での新聞・ラジオ・テレビのシエアの内、ラジオはこれまでの3%台から7%台にシエアを伸ばしてきたが、88年にはシエアが6%台に下降しており今後平成に入ってどのような推移を辿るかを見極める必要があろう。
北海道のテレビ広告費も幸い1980年代の後半から新聞広告費を凌駕する事が出来たが、今後ともマスコミ4媒体の中でトップの座を保持し、全国並のシエアをキープしていくためには多くの課題を解決しなければならない。
その一つは対全国シェアの問題である。年々スポット広告費の北海道地区シエアが低下する中で強力に推進しなければならないのは前述した「エリアマーケッテイング」の展開による道外からのスポット投下額を高める事である。これには北海道消費市場の活性化が必要条件になることは言うまでもない処であるが、現状の広域圏におけるマーケッテイング戦略の展開次第ではまだまだ販売を活性化できる道があるのではなかろうか。更にこれと併せて重要な点は道内市場からの投下額シエアを高める事である。そのためには視聴率偏重の営業から視点を変え、メディアミックスによる企画展開、販売に繋げた販促企画等々の営業開発が求められて来よう。これらについては5-3で紹介した諸レポートが大いに示唆に富んだものと考えている。今後のデジタル衛星放送に対処する地上波の取り組みとしても、スポットマーケッテイングに対する絶えざる研究とこれを営業活動に具体的に反映していく実践活動が収入拡大の一つのポイントになるであろう。

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