第四章  電波広告の競合期

4-1 景況の変化に富んだ経済環境 4-2 トップの座を射止めたテレビ広告費
4-3 加速化する札幌への一極集中 4-4 急速に拡大する札幌圏の商業環境
4-5 情報化が進むメディア広告 4-6 地域広告で力を発揮する新聞広告
4-7 主要エリアの広告費を検証 4-8 加速化する北海道広告費のシェアダウン
4-9 テレビ広告費の拡大を目指して

 1971年ー1980年(昭和46年ー昭和55年)

 
1970年代は我が国経済にとって極めて影響力の強い状況変化が続出した時代である。1971年8月15日アメリカは金ドル変換の停止、輸入課徴金の実施等の緊急対策を発表した。いわゆるニクソンショツクであるが、これにより主要国は変動相場制に移行した。我が国も1971年12月のスミソニアン協定により1ドル308円の時代を経て翌'72年2月変動相場制に移行したのである。しかしながらこの間の混乱から景気は後退したものの大幅なレートの引き上げの割には実質GNP成長率は1971年7.3%、'72年9.8%、'73年6.4%を記録し、1970年から'73年までの4年間の平均生長率は9.1%と比較的安泰であった。
一方1973年10月勃発した中東戦争を契機にオペックによる石油供給制限と石油価額の高騰を伴ったオイルショツクにより景気は後退を余儀なくされ、1974年の実質GNP成長率はマイナス0.2%と戦後初めてのマイナスを記録したのである。この結果1974年から'79年までの成長率は4.1%に下降した。1981年の経済企画庁発行の年次経済報告では1979年・'80年の日本経済の特徴として[景気上昇の力強さ][第二次石油危機とその影響][これに対する経済政策の展開とその効果]を挙げているが、中でも景気上昇が政府の景気刺激政策ではなく、主要な国内民間需要が景気上昇を支え、比較的持続的な力強さがある点を指摘している事が注目されよう。
このことを裏付ける様に、OECDの統計資料では1970年代の先進5ケ国の経済成長率を比較しているがその中では、日本4.4% 、米国3.2%、イギリス1.9%、ドイツ2.7%、フランス3.3%と我が国がトップの座を占めている。
 
一方総広告費は1971年7.868億円が1980年には22.783億円と10年間で約2.9倍の伸びを示した。媒体別で見てもこの10年間の伸びは新聞264.0%、ラジオ301.0%、テレビ304.0%と、ラジオ・テレビ等電波広告費が顕著な伸びを示して来たが、1975年は電波広告関係者にとって永年の夢であったテレビ広告費が新聞広告費を追い抜いて媒体別広告費の王座を確保した記念すべき年となったのである。以降テレビ広告費の王座の地位は揺らぐことなく平成の今日まで持続している。
1970年代の半ば我が国経済はオイルショツクにより1974年の経済成長率はマイナスを記録し、続く'75年も低成長を余儀なくされた。しかしながら広告費に関しては、新聞・ラジオ・テレビ各媒体とも堅調に推移した。因みに1974年の各媒体の前年比対比では新聞106.0%、ラジオ111.7%、テレビ111.2%の伸びを確保している。
シェアの面から見ると新聞広告費シェアが年々電波広告に比較して低減する傾向にあるが、中でもラジオ広告費は微増の傾向を示しつつも1979年には待望の1000億突破を果たすのである。テレビ広告費は前述の様に1975年新聞広告費を凌駕し、1970年代終盤に至りいよいよ電波広告が広告界の主流となる時代を迎えたのであるが、同時に電波広告費を巡る地域間・系列間の競合が本格化する電波広告戦国時代を迎えたと言う事も出来るのである。 
図 23 全国媒体別広告費推移
 
 
1971年は北海道総合開発第三期計画がスタートした年である。第三期計画の目指す処は、豊富な資源と自然環境に恵まれた北海道の特性を活かした生産と生活が調和する高度地域社会の建設であり、1971年を初年度とし1980年を最終年度とする10ケ年計画である。
この計画の目標は1968年を基準年としてこの年の経済規模を最終年度には3倍に拡大し、人口も600万を想定したものである。また、産業構造も最終年度に於いては第一次産業9%、第二次産業35%、第三次産業56%を指向する第三次産業重点型の計画であり、個人の可処分所得も最終年度には92万円と1968年の2.8倍を指向したものである。そしてこれらの目標を達成するための基本計画として次の6点を掲げている。
 1.近代的産業の開発振興
 2.社会生活の基盤強化
 3.新交通、通信、エネルギー、輸送体系の確立
 4.国土保全と水資源の開発
 5.観光開発
 6.中核都市圏の整備
これらに投入される公共資金は85.500億円が見込まれたのである。これらの計画の中には苫小牧東部の大規模工業基地の開発を始め、世紀の事業と言われた青函トンネル、北海道新幹線、石狩湾新港、根室新酪農村、天北地域農業開発等広範な計画が盛り込まれていた。
 図 24 北海道主要都市人口動態 (札幌・函館・旭川・小樽市)    国勢調査参照
 上記のグラフで見る如く、1970年札幌市は人口100万人を突破し、以後年を追う毎に人口が増加し集中化の傾向を強めるが、1955年には札幌に次ぐ商都として発展を続けた小樽市が1970年を境に年々人口が減少、代わって旭川市が1965年函館市を抜いて札幌に次ぐ人口を擁する主要都市としての地位を確保するに至った。各地域における地域経済環境の変化がこのような人口の増減と深い関係を持っていることを顕している。 
一方札幌市は1972年2月開催の冬季オリンピック札幌大会を契機に、競技施設及び関連施設の建設は勿論のこと、交通・生活環境関連等含めた基盤整備が進められた。このオリンピツクでは14ケ所の競技施設や道路、下水道、地下鉄南北線、地下街等に合わせて2059億8千万円が投入されたが、今日の価値で換算すれば5700億円以上の資金が投入された計算になると、1997年8月6日の北海道新聞記事は報じている。
1971年12月には札幌地下鉄南北線が開通し、これと合わせてオーロラタウン・ポールタウンの本格的地下ショツピングゾーンが誕生した。100万人都市の仲間入りをした札幌は1971年8月川崎・福岡両市と共に政令都市指定を受け、翌'72年4月より区制を施行して7区制となったが、その後1989年11月6日には厚別区(白石区と分区)、手稲区(西区と分区)、更に1997年11月4日には清田区(豊平区と分区)が誕生して現在10区制となっている。1971年12月16日北24条ー真駒内間12.1キロでスタートした地下鉄南北線はその後北24条ー麻生間2.2キロを延長し1978年3月16日、麻生ー真駒内間が開通した。亦、東西線も1976年6月10日、琴似ー白石間9.9キロの部分開通であったが、1982年3月21日、白石ー新さつぽろ間が開通した。東西線は1999年2月25日琴似ー宮の沢間2.8キロが延長されている。そして1988年12月2日、東豊線が栄町ー豊水ススキノ間8.1キロで開通したが1994年10月14日、ススキノー福住間が延長され、地下鉄によって市内を結ぶ大縦断路が形成されたのである。
 
 
1972年2月開催の冬季オリンピックを契機に札幌の商業地図は大きく塗り替えられた。既存の丸井今井、三越札幌支店、五番館、ステーションデパート、そうご百貨店、池内デパートに対し、1971年12月の札幌地下鉄南北線の開通に併せて同年11月16日オーロラ・ポールタウンが誕生し、152店舗から成る地下商店街はその規模に於いて市内最大のショツピングセンターとなつたのである。1971年当時の札幌市における百貨店は、丸井今井、三越札幌支店、五番館、池内、カナリヤ、ステーションデパート、金市館、そうご、緑屋、長崎屋が挙げられるが、これ以降本州資本のデパート、大型店の札幌及び道内拠点都市への進出が続くのである。亦、既存デパートもこれに対抗すべく増改築が相次ぎ、これに連動した専門店のリニューアル、ブランドショツプの進出など活気に満ちた商業環境が醸成される処となった。本州デパートの第一陣は東急百貨店で、東急グループの総師五島慶太氏の北海道進出作戦の三部門である、ニュータウン建設、ホテル、ショツピングの一環として「さつぽろ東急百貨店」が1973年10月15日開業した。その後1977年8月1日、同百貨店は東急百貨店札幌店となる。続いて1974年6月には松坂屋がススキノを拠点に開業したが、1979年4月には社名を「YORK松坂屋」と改称しイトーヨーカ堂の資本傘下に入り、1994年には社名を「ROBINSON’S」と変更して再出発をはかっている。更に'75年8月には札幌PARCOが開業、'77年7月には札幌副都心として開発が進む新札幌地区に「サンピアザ」が誕生、'78年9月1日には「札幌そごう」が開業した。同デパートは1978年9月JR札幌駅前の複合ビル[札幌ターミナルビル]の核テナントとして開業。店舗面積は約3万2千平方メートルで、道内百貨店では三番目であつた。年商も90年度400億円であったが、2000年経営不振から民事再生法の適用をうけ、グループ22店のうち9店が閉店、札幌そごうも12月末で閉鎖に至った。
80年代にはいると1982年6月1日には新札幌地区に「プランタン新札幌」が開業したのである。その後同デパートはこれまでのダイエーが経営面から撤退した為、2000年3月22日から店名を[カテプリ新札幌]に改め現在地で営業を継続している。
<躍進を続ける流通業界>
亦、この時代大型店の本道進出も激しく、道内拠点エリアにおける新店舗開設を巡るグループ間の競合は熾烈な闘いを全道各エリアで繰り広げたのである。
各グループの動向を掻い摘んで記述すると、先ず西武グループが1975年8月札幌にPARCOを開業したが同時に旭川に西武旭川店、'77年11月には函館店を開業した。札幌市内でも1973年10月の札幌月寒店を皮切りに' 76年には西野・旭が丘・手稲前田等4店が開業したのである。これに対するダイエーグループも1973年10月札幌ショツパーズを開業するや続いて'75年9月白石店、'77年6月厚別副都心等6店をオープンした。その他イトーヨーカ堂が帯広・苫小牧等4店、東急系ストア6店、長崎屋グループ7店等が相次いで開業し、北海道の流通業界も新しい時代を迎え、百貨店、大型店、セルフサービス店、既存の商店街を含んだ商業環境が大きく変化する時代となったのである。因みに1980年の通産省「セルフサービス店統計」によれば1976年小売業に占めるサービス店の割合は全国平均12.1%に対し北海道はこれを下回る11.7%であったが、1979年には全国平均14.9%に対し北海道は15.1%と全国平均を上回り、全国レベルでも上位にランクアップしたのである。 
このように各グループがしのぎを削った本道進出作戦も、その後時代の変化と共に勢力地図も大きく変わり道外資本、これを迎え打つ地場資本の更なる競合が現在も繰り広げられつつある。本道における流通の現況を述べて見たい。 (註)各社のホームページを参考に記載。
@ (株)イトーヨーカ堂の発祥の歴史は1920年吉川敏雄氏が東京浅草に[羊華堂洋品店]を開業した事に始まる。1958年4月[(株)ヨーカー堂]を設立、1965年6月社名を[(株)伊藤ヨーカー堂]に、更に1971年3月社名を[(株)イトーヨーカ堂]に改称した。本道進出は1977年10月の札幌を皮切りに全道各都市に店舗を開設し現在札幌他を含めて15店舗を開設している。
 
A (株)セブンーイレブン・ジャパンはイトーヨーカー堂のグループとして
 1973年11月に設立された[(株)ヨークセブン]が1978年1月現行の社名に変更されたものである。1970年末には22店舗を展開していたが、その後全国的にも店舗の拡大を図り2002年7月現在全国で9,196店、本道では764店が営業を展開している。
B (株)ダイエーは1957年4月(株)[主婦の店ダイエー本店大阪] を設立しその歴史が始まる。1970年には社名を[(株)ダイエー]に改称し、その後業績も急増し1972年には三越を抜き小売業売上高日本一を達成した。現在本道では札幌市を中心に18店舗を開設している。
C (株)ローソンはダイエーの関連会社として1975年[ダイエーローソン(株)]が設立された。その後1979年社名が[(株)ローソンジャパン]に変更された。2002年2月現在店舗数は国内で7,734となり全店舗の売上高は1兆2,823億円に達している。本道には1978年から店舗の開設が始まった。
D (株)西友 は1963年設立された[(株)西友ストアー]が、1983年創立20周年を迎え社名が[(株)西友]に変わったものである。本道には1973年以降の進出で現在札幌市に9店、他に岩見沢、滝川に大型店を開業しているが、2001年3月1日、11店舗が(株)北海道西友に譲渡されている。
E (株)東急ストア は1966年東京急行電鉄(株)の関連会社として誕生し1975年3月商号を[(株)東急ストア]とした。現在道内は[(株)札幌東急ストア][(株)北見東急ストア]の管理下にある。札幌東急ストアは1972年7月15日設立され、東急ストア20店舗、北見東急ストアは5店舗の店舗の運営に当たっている。
F イオン(株)は2001年8月21日従来のジャスコ(株)を改称したものであるが、設立は1926年9月で現在[ジャスコ系3店][マックスバリュ系12店][フードセンター系24店]の3つの形態での営業を行っている。
G (株)サンクス は1980年7月に設立された会社で北海道には第1号店を1982年4月札幌市豊平区に開業した。同社は1991年10月社名を[(株)サンクスアンドアソシエィツ]と改称した。2002年2月現在全国で店舗数3,066を数えているが本道は300店舗となっている。
H (株)長崎屋 は経営破綻により2002年7月1日、更正計画の許可により(株)長崎屋、(株)長崎屋エステート、(株)金沢長崎屋は合併し、今後(株)長崎屋を存続会社として再建を図ることとなつたが、今回[(株)キョウデン]の資本参加を受けキョウデン・グループの一員となった。現在道内には、室蘭、帯広、小樽など9店舗が営業を行っている。
これら本州系資本に対して地元流通業界の成長ぶりも眼を見張るものがある。その中から急進撃を続ける代表2社を紹介する。
I (株)ラルズ の前身は1961年10月設立された[(株)ダイマルスーパー]である。ダイマルスーパーはその後1969年8月商号を[大丸スーパー(株)]に変更、更に1989年丸友産業(株)と合併して商号を現在の[(株)ラルズ]とした。新会社発足後相次いで道内量販店との合併、営業譲受を行い2001年12月現在のラルズグループの店舗数は連結で75店舗、単体で46店舗を数え道内流通業界のトップランクに位置するに至った。
2002年11月1日にはラルズと福原(本社が帯広で十勝を中心に道東で事業を展開)が新たに経営統合し新会社[アークス]を設立した。この統合により[アークス]は店舗数121、売上高約1800億の道内最大級の流通グループとなつた。[アークスARCS]はAIways常に、RIsing上昇する、Community地域社会に、Service奉仕する、と言う意味が込められている。
 J (株)セイコーマート は1974年設立されたが設立後5年後には店舗数100店を達成し続いて'85年には200店舗、'91年にはエリアフランチャイズを含め500店舗を達成したが、'94年には道内の店舗数も500店舗を達成した。2000年には道内の店舗数800店を達成すると共に、営業エリアも道内のみならず道外エリアでの積極的な展開を行っている。
 (註)上記の店舗数などのデーターは2002年9月現在のもので、その後各社の統廃合、   新設などが行われている。
 
 
1974年のオイルショックによる不況時にもメディア広告費は着実に伸びたがこの要因は1960年代の個人の消費支出が堅調に推移した事による処が大きい。1960年代の後半から1970年代にかけて[情報社会論]が展開され[情報]の果たす役割の重要性が急速な高まりを見せた。通産省の情報産業部会の答申[飛躍する情報化]では、1960年から70年代の[情報化]を中心とした変化を[第一次情報革命]と呼んでいるが、本道とりわけ札幌における商業の中心的な役割を果たしてきた百貨店がオリンピック開催を契機として、これまでの伝統的な新聞などの活字メディア中心の宣伝広告から時代の寵児と化す迄に成長し、市民生活にとって最大の情報源であるテレビメディアを活用した宣伝広告に軸足を移したことは電波広告史上特筆されるべき事象であつた。
翻って札幌市の商業統計による札幌市の百貨店の売上額を振り返ると1970年3.700.048万円、'71年4.514.568万円、そして'72年5.634.175万円、'73年7.402.645万円と増加を続けたが、特にオリンピックの開催年である1972年は前年比124.8%、翌'73年は131.4%の伸びを示したのである。これら札幌市内デパートの売り上げを伸ばした要因には当時の経済環境など様々な要因が考えられるが、売り上げに貢献した新しい事象の一つとしてテレビメディアを使った通販即ちテレビショツピングを挙げる事が出来よう。1960年代後半には道内テレビメディアも4局体制となり、本格的な視聴率戦争に向けて、各テレビ局も地域密着路線にあわせた情報番組の開発と、在宅主婦を主たるターゲットとした午後帯編成に力を注ぐ処となり、生活情報・娯楽・グルメなど幅広いジャンルから構成されたワイド番組編成が各局の編成方針の柱になりつつあった。先鞭を付けたのはHBCテレビであり、これまで午前枠で放送して一定の実績をあげてきた「奥様スタジオ」を全面的に衣替えして、当時メロドラマの放送帯として定着していた午後2時台に情報ワイド「パック2PM」を1972年5月29日よりスタートした。この番組の1パートとして登場したのがテレビによる通信販売即ちテレビショツピング情報である。 現在では通販番組・通販CMは日常化しており、目新しい物ではないが、当時としてはその斬新さは視聴者に大きな衝撃さえ与え、これまで新聞広告重点型であった百貨店広告をテレビに向けさせ、デパート広告として新機軸を作り上げた功績は極めて大きいものがあった。このテレビショツピングについて和田朗氏(HBC)は同社の50年史のコラムで次の様に当時を回想している[〜今では当たり前のTVショツピングだが、このテレビでの買い物は、主婦に必ず歓迎されると信じて[ショツピング情報コーナー]を設定した。しかしこのコーナーには思いもかけぬ難問が山積していた。商品の選定、流通、価格、注文の受付など。そして何よりの問題はHBCの定款に物品販売の項目が無いことであった。通産局と郵政局に日参して、怒られながら考えたのがデパート5社とのタイアップだつた。[HBCテレビのショツピングはTVバーゲンではない、地域のプライス・コミュニケーションである]〜奥様の琴線に触れるように使ったセリフだつた。]
ワイド番組編成はHBCテレビに続きSTVテレビでも「2時のワイドショー」として編成され1973年1月8日より番組がスタートした。遅れてこの番組コーナーにもテレビショツピングが登場することとなる。
何故この時代このような新しい商品販売方式が生まれてきたのか、其の時代背景を考えて見たい。1965年以降国内経済は堅調に拡大の路を歩み、個人消費も可処分所得の増加によって拡大の一途を辿る事となる。消費の拡大は消費者の価値観の多様化とそれに即応した新しい付加価値重視の商品開発と流通チャンネルの拡充によって購買意欲を更に高める様な時代背景であった。
特に北海道と言う広域圏においては、テレビメディアが出現する以前は都市部の住民を除く多くの道民は多様な商品知識と購買チャンスに恵まれなかった為、テレビを通じて紹介される商品情報に対しては敏感に反応し始めた。このような状況下登場したのが、全道どの地域でも茶の間に居ながらにして手に入れる事の出来るテレビショツピング情報だったのである。商品提供者が在札有名デパート(当時参加していたデパートは、丸井今井、三越、五番館、東急、松坂屋の5店)であり、そしてテレビ局推奨と言う、視聴者にとっては極めて信頼性の高い安心して購入できる通販であると理解され、毎々日各デパートが紹介する商品に興味と選択視を広げて行ったのである。それだけに送り手としてのテレビ局の責任も大きく、消費者保護の立場に立ってクレーム処理の迅速・的確なシステムの確立、適正料金の設定、魅力ある商品開発など各デパートとの協力関係の中での日々の努力が続けられ、その努力と実積がテレビショツピングを今日まで永続し、テレビの持つ生活情報としての機能が完全に市民権を獲得するに至ったのである。我が国での電波ショツピングは1971年のテレビ、
1973年のラジオであり、本道の電波ショツピングもこれと相前後してスタートしたことを考え合わせても、将にこの時代は電波広告が情報化へ転化する出発点ともなったのである。
 図 25  通販の売上高              図 26 個人の購入媒体
 
 上のグラフ図25は日本通信販売協会の統計情報であるが、1992年から2001年までの通販業界の売上高推移を示したものである。平成不況の一時期を除き順調に売り上げを伸ばしていることが理解できよう。
更に図26は通販の購買がどの様なツールで行われたかの資料であるが、利用媒体としては[カタログ]が最も多いが、1955年以降テレビがカタログに次ぐ媒体として定着しており、このことは年々テレビショツピングが通販の中で大きな役割を果たしていることの証左であろう。
現在全国各ラジオ・テレビ局では様々な形でショツピング情報が放送されているが、中でも一ローカル(九州佐世保)から全国に情報を発信し、通販事業で一躍脚光を浴びた[ジャパネットたかた]は1990年地元放送局でのラジオショツピングを契機に1994年にはテレビショツピングも開始し、テレビ通販の取扱局は全国で118局、ラジオ通販のレギュラー番組は38局に及んでいるが、高田明氏社長はBSフジでの対談(堺屋太一のビジネスリーダー)の中で、通販成功の鍵はメディアミックスであると強調され次の様に語っている、[ラジオ・テレビ(地上波)には時間の制限があり、紹介できる商品も少なくなる。衛星放送は24時間自社で使えるので、多くの商品を提案できる。又、若い人にはインターネットでもいいが、ご年輩の方はチラシなどの紙媒体でないと安心できない。だからメディアミックスが必要である]。(註)同社は自前のテレビスタジオを開設し、CS放送で通販専門のチャンネルをスタートしている。
 
 
全国的には1970年代は電波広告が成長から成熟に至る過程での広告費の主流を形成する時代であった。1975年全国レベルではテレビ広告費が新聞広告費を追い抜いたことは再三記述してきたが、北海道地区ではどのような状況にあったかを検証してみたい。 
1975年の北海道地区での新聞広告費は182.1億円、これに対しテレビ広告費は160.5億円と21.6億円の開きを生じている。同年は北海道地区も1972年開局した北海道文化放送が本格的な営業活動に入り、四局体制が本格化した年でもある。しかしテレビ四局プラスラジオ二局の収入を合算しても未だ僅かながら新聞広告費に追いつく事が出来ない状況であり、1980年年代後半の一時期テレビ広告費が新聞広告費を凌駕した時代があったものの、この状況は1989年北海道地区第五局目のテレビ北海道が開局した以降も媒体別広告費シエアの王座を新聞が確保しているのである。
図 27  北海道地区媒体別広告費推移
 上のグラフで見る如く1971年の新聞・ラジオ・テレビの北海道地区投下額は233.5億円であるが10年後の1980年にはその額も703.5億円と470億円(301.3%)の伸びを示している。亦、媒体別でも10年間の伸び率は新聞327.7%、ラジオ303.4%、テレビ269.4%となっている。この伸び率を同年代の全国レベルと比較すると新聞264.3%、ラジオ301.3%、テレビ304.0%であり、10年間の伸び率のみを見ると北海道地区においては新聞・ラジオ広告費が全国の伸び率を上回っているがテレビ広告費については全国を下回っている。一方10年間の三媒体のシェアの年平均は新聞50.4%、ラジオ6.2%、テレビ43.4%となっている。北海道地区での新聞広告費が1970年代後半から急増しているが、電通日本の広告統計でも1970年代の新聞広告出稿の最大の業種は不動産・住宅設備で次いで出版、サービス・レジャー、流通、小売業等がランクされ、逆に化粧品、薬品、家電等の出稿が余り多くない。これに反してテレビの場合は圧倒的に食品、飲料、嗜好品のウエイトが高く、化粧品・トイレタリー、薬品等もテレビ広告費の中ではトップランクに位置づけられる。これらの事から広告費の面にも経済の動向が色濃く反映されていることが理解できるのである。
 
 図 28 北海道地区電波収入伸び率推移
上のグラフは1971年−1980年の北海道地区ラジオ(2局)、テレビ(4局)の収入の伸び率を示したものである。1971年を100として各営業期の伸び率を見たものであるが、'71年から'76年まではテレビの伸び率が勝り、'77年は拮抗し、'78年−'80年はラジオの伸び率がテレビを上廻る健闘を示している。
<ラジオの伸長を探る> 
この時期のラジオ収入が高い伸び率を記録した要因としては、HBC、STV両ラジオ局の番組編成と販売促進企画との連動など多彩な企画展開が挙げられ様が、あたかも両局とも開局30周年、20周年を迎えるにあたり、新しい番組開発、特別企画の編成に努めた成果でもあった。中でもラジオメディアの再興を目指して展開されたHBC、STV共催の[ラジオ祭り]は1978年、'79年、'80年と続けられ利害を超えてラジオの持つメディア特性を訴え、多くの市民の共感を得た効果はその後のラジオ収入拡大に大きな力を発揮した。
 

これまで北海道における広告費の特徴は地元広告費を中心とした新聞広告費の高いシェアに阻まれ、電波広告シェアが全国レベルよりも低いシェアに甘んじてきた事を述べてきたが、この項では北海道の主要エリアである札幌・函館・旭川の媒体別広告シェアの推移を考察しその地域特性を探る事とする。1971年から'80年の地元広告費の媒体別シェアを記載する(電通道支社の調査資料を参照)が、まず先にその基本となる地元広告費の流れを下記のグラフで見ることとする。     
 
 図 29 北海道地区媒体別地元広告費推移
 
 
上のグラフは地元広告費の推移であるが、この10年間地元広告費も堅調な伸びを見せている。即ち媒体別では新聞309.7%、ラジオ323.7%、テレビ333.5%となっている。地元広告費の特徴は新聞広告費のシェアが常に3媒体での70%を維持していることである。10年間の平均シェアは新聞年平均71.7%で、ラジオ年平均6.2%、テレビ年平均22.1%と電波に対して圧倒的強さを示している。ここに北海道地区での広告費の特異性を見いださざるを得ない。このような地元
広告費が道内主要エリアではどのように推移してきたかを次に検証する事とする。                           
 図 30 媒体別地元広告費シェア推移 旭川・函館
     
 図 31 媒体別広告費投下額推移  札幌
   図 32 媒体別地元広告費シェア推移  札幌
北海道地区で広告費の大きなウエイトを持つ札幌市場の広告費の推移は上のグラフで見る通りであるが、札幌市場に於いてはオリンピック開催後、都市の肥大化と第三次産業を中心とした産業の活性化が進み、各分野での多様化に応える様に、住宅、グルメ・レジャー、リクルートなどターゲット別の出版が急速に増大し、これまで余り広告需要のなかった出版広告が脚光を浴び、新聞、ラジオ、テレビと並んで広告面でも一定の評価を与えられる事となった。(1971年までは電通調査でも北海道地区広告費算定は新聞と雑誌が合体して算定されていたが1972年からは雑誌も独自に算定される様になった。)
1970年代の札幌広告市場も60億円時代から200億円時代へと大きな伸びを見せ、この10年間で181.6億円の広告費の増加を見たのである。
 
北海道地区における広告費は1960年代、1970年代を通じて、北海道新聞という強力な活字媒体を主力として新聞広告が電波広告に対して常に優位な立場を堅持し続けて来た。本項では視点を変えて北海道地区における広告費が全国レベルの中でどのような位置づけで推移してきたかを検証する事とする。
  図 33 北海道地区媒体広告費全国対比
                
上のグラフは北海道地区での新聞・テレビ・ラジオ広告費の投下額の対全国シェアの推移である。各媒体を比較してみても新聞は常に4%台をクリアし'70年代終盤以降5%台に達している。これに対しテレビは1972年の新局開局により一時シェアを広げたものの全般的には3%台に留まり年々対全国シェアを下げており、広告費の大都市集中化の兆しが早くもこの時代に表れたと見るべきであろう。
1950年代は北海道経済も5%経済と言われ各種経済指標も概ね全国比5%台を維持してきたが、我が国の経済発展過程の中で年を追う毎に北海道の地盤沈下が進み4%経済時代を迎える事となる。これと歩調を合わせる様に北海道の総広告費も全国対比では1950年代前半迄は5%台をキープしていたものの1962年以降4%台に落ち込んでいる、当然メイン4媒体でも同様な結果となっている。
地方の時代、エリアマーケッテイングが声高に叫ばれる中、北海道広告業界にとって最大の課題は北海道経済の活性化を進め、地域の振興と消費市場の拡大によって広告市場の活性化を図る事である。そのためには地元広告ソースの開発と拡大、わけても電波広告にとっては新聞広告に追いつけ、追い越せと言う今後に課せられた大きな課題を残して1980年代を迎える事となる。
 
これまで述べてきたように1970年代の終盤である1979年時点ではテレビメディアとしては北海道放送(HBC)、札幌テレビ放送(STV)、北海道テレビ放送(HTB)、そして1972年北海道地区第四番目のテレビ局として開局した北海道文化放送(uhb)の四系列体制が確立しており、各局とも難視聴地区解消のため放送エリアの拡大に努めると共に独自の営業戦略の展開により収入拡大に懸命な努力が払われた。同業者間競合が激化する中でも電波メディアに携わる関係者にとっての最大の課題は限られた広告市場で電波広告費のパイをいかにして大きくするかであり、そのためにはお互いの利害を超えて最大のシエアを持つ新聞広告ソースを電波広告に引き込む努力が必要であるとの認識で一致したのである。
その一つの試みとして取り上げられたのが1977年から'78年にかけて展開されたテレビ各局の共同キャンペーンである。このキャンペーンの狙いはテレビ広告と新聞広告を比較して費用対効果の面からテレビ広告の優位性を訴え、新聞広告単独よりはテレビ広告との併用によるメディアミックスの考え方を強調したものである。このキャンペーンにはHBC、STV、HTB三局が共同で企画し、調査の実施等は電通北海道支社、ビデオリサーチに委託した。キャンペーンの具体的内容は「テレビと新聞」と言う小冊子の発行であるが、小冊子ではテレビの「視聴率」という調査基準に対し新聞広告が従来使用していた「閲覧率」を「記事視覚率」と言う基準に置き換え、テレビと新聞とのコスト比較を行ったものである。そのためのデーターは地元A紙(北海道新聞)の朝・夕刊を対象に札幌全域から男女3547名に戸別訪問直接面接方式で行い2219名から回答を得た。この小冊子は1978年3月に発行されたが、発行後全国的にも大きな反響を呼び電波・新聞業界に新たな論議を巻き起こしたのである。1979年5月には日本新聞協会広告委員会からこれに反論する形でパンフレットが発行された。その内容は次の七つの疑問に答える内容から成っている。
?テレビCMにはデーターがあるのに新聞広告にはない
?テレビのデーターは信用できるが新聞は信用出来ない
?新聞にだってテレビの視聴率と同じようなデーターか必要だ
?新聞広告の注目率は当然テレビの視聴率と比べるべきだ
?注目率の小さい新聞広告は効果も小さい
?注目率と視聴率を比べるとテレビの方が安い
?新聞広告に関するデーターを新聞社は全部出すべきだ
   そう思っておられるとしたらそれはみんな大きな誤解です。
このような反論が加えられたものの、このキャンペーンがテレビ関係者に大きな刺激を与え、新聞広告に変わりうるテレビ広告の新しい展開、CMの表現方法の開発、チラシ広告のテレビ化等各局が競って新しい企画の開発に取り組むきっかけを作った意義は大きいものがあった。

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