第一章 放送メディアとネツトワークの変遷を辿る
北海道で初めて誕生した民間放送は1951年11月30日創立された北海道放送(HBC)である。本道の民間放送の歴史を綴る前提として全国的な民間放送発足の経緯と流れについて検証することとする。 戦後日本における電波行政は日本の民主化の為には放送制度の改革が必要であるとのGHQの意向により1950年6月電波三法(電波法・放送法・電波管理委員会法)が成立施行された。これによりNHKは特殊法人日本放送協会として発足した。これより以前GHQが打ち出したNHKの公共企業体化と民間放送の開設の意向をキヤッチした新聞関係者が中心となって新しい民間放送開局の準備が進められた。大阪地区での毎日新聞、名古屋地区での中日新聞が先導的役割を果たし、このことがわが国最初のラジオ放送が大阪、名古屋地区に誕生した事に繋がるのであるが、大阪地区に於いてはこれより早く1946年10月30日、当時の松下電器産業株式会社社長松下幸之助氏等が中心になって[新日本放送株式会社]の創立発起人会が開催されたという記事が、戦後大阪で発行された業界紙[新ラジオ公論]に[在阪財界人による民間放送大阪に出現か]という見出して記載されている記録が残されている。この記録によれば当時の大阪逓信局長は[歓迎するが、出現は無理、新会社は必要ない]との談話を発表した。(ホームページより検索引用)。この間GHQの方針も二転三転したものの、1947年10月16日に連合軍最高司令部の最終方針が示された。その内容はNHKを改組して自由競争の原理に基づいて民間放送事業開設の道を開くべきであるとの方針が打ち出されこの方針を受けて全国的にも放送会社設立の機運が大きな広がりを見せ、1950年6月1日施行の新放送法に基づき同年9月末には全国での申請社は72社を数えたと言われている。そして翌1951年4月2日には電波管理委員会より16社に対し第一次予備免許が交付された。北海道地区では北海道放送がこの中に含まれている。
ラジオ放送は1951年9月1日大阪地区での新日本放送NJB(現毎日放送)と、名古屋地区での中部日本放送CBCがわが国最初の電波を発射した。この後のラジオの開局状況は1951年11月11日朝日放送(大阪)、12月1日ラジオ九州(現RKB毎日放送)、12月14日京都放送、12月25日ラジオ東京(現東京放送)等、1951年末にはラジオ局6社を数えた。1952年に入り北海道放送以下12局が開局し其の数も先発局を含めて18局に達した。ラジオ局開局の波はその後も続き1955年には40社となりこの年のラジオ広告費は98億円媒体別構成シェアも16.1%と、テレビのシェア1.5%に対し絶対的優位性を保持していた。(電通日本の広告費)これに対しわが国のテレビ放送は1953年8月28日放送を開始した東京地区での日本テレビ放送網NTVが最初である。
わが国テレビ放送の創業者正力松太郎氏は早くよりテレビ放送の構想を掲げられ1951年10月2日免許申請を提出し、翌1952年7月31日には予備免許が交付されて1953年の放送開始に繋がったのである。民間放送としてはラジオ東京(現東京放送TBS)も1953年
1月26日に予備免許を取得し1955年4月1日テレビ放送を開始する。
佐野真一氏著「巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀」の第11章に氏を巡るテレビ事業についての関わりが詳細に記述されているが、その中に「わが国の民放テレビが、朝毎読の三大新聞からの出資金を基盤として設立されたのは、当時既にテレビ放送を開始していたヨーロッパ各国はもとより、最盛期を迎えつつあるアメリカですら全く見られない現象であり、この世界に例を見ない現象がよってきたった原因は偏にテレビ導入の中心に正力という強烈な個性の持ち主がいたためである。民放テレビが新聞資本の系列化におかれた現在のメディア状況の淵源には同氏の野心が横たわっていた」との一節があるが、いずれにせよ民放発足に当たり新聞が果たした役割は大きく、創業時の鹿倉吉次氏(毎日新聞ー東京放送)平井常次郎氏(朝日新聞ー朝日放送)高橋信三氏(毎日新聞ー毎日放送)小島源作氏(中日新聞ー中部日本放送)正力松太郎氏(読売新聞ー日本テレビ)そして北海道での阿部謙夫氏(北海道新聞ー北海道放送)等が現在に至るも高名を留めていることでも実証されるのであるが、現在では新聞と放送はマスメデイアの双璧として相互に自立しながら共に媒体特性に基づく独自性を大いに発揮しているのが実体であろう。
わが国のテレビ放送は1953年日本テレビ放送網の放送開始を機に1955年の東京放送、1956年の中部日本放送(名古屋)・大阪テレビ放送(大阪)続く1957年には北海道放送
、 1958年にはRKB毎日放送(福岡)以下12局、1959年にはフジテレビ・日本教育テレビ(現全国朝日放送)・毎日放送など一挙に20局が開局した。この中には同年4月1日開局した札幌テレビ放送も含まれている。
このような状況下1950年代の電波業界は中央における放送メディアの基盤整備が進む中行政面からの全国チャンネルプランの拡大政策と併せて、中央広告主サイドからの全国的広告展開が可能なネット体制が求められ、大量生産、大量消費を媒介する広告媒体としてのテレビ広告が不可欠でありこのため急速にメディアの系列化とネット体制拡大政策が進められる事となった。
我が国のテレビネットワーク形成について齋籐守慶氏(MBS毎日放送)は著書「放送が世界を動かす」の中で次のように述べている。
「1958年頃を中心にテレビ局の系列化が始まった。東京キー局と地方局との間で拘束性のある番組ネットワーク協定が結ばれ、いわゆるステーションネツトワークの時代にシフトしていったのである。テレビ系列間の競争も熾烈になり東京局中心のネットワーク体制が急速に築かれる事となった」と述べ、系列化の理由として第一には番組制作のリソース(素材・資源)が東京に集中している、第二にはテレビの番組制作が映像化を伴うためラジオに比べて大がかりとなってきた、第三にユーザーとしての広告主に対し、全国展開のマーケッテイングの枠組みを作る必要があった、そして第四には中央の新聞社がテレビのネツトワークを極めて重視し、メディア・グループの形成を考え、その展開を図ろうとしていたことを挙げている。
このように年々拡大する全国的なテレビ局の開局は本道においても1968年11月北海道テレビ放送HTBが日本教育テレビNET(現全国朝日放送ANB)の系列局として、叉、1972年11月には北海道文化放送uhbかフジテレビジョン(CX)の系列局として開局した。これから遅れる事17年テレビ東京の系列局としてテレビ北海道TVhが1989年10月1日、本道における最後発テレビ局として開局しここに中央基幹局の系列化が北海道地区においても確立し、五系列体制での熾烈な競合関係を繰り広げる事となった。現在(2002年9月1日現在)の系列は東京放送(TBS)をキー局とするJNN系列28局(北海道放送HBC)、日本テレビ放送網をキー局とするNNN系列30局(札幌テレビ放送STV)、フジテレビジョン(CX)をキー局とするFNN系列28局(北海道文化放送uhb)、全国朝日放送(ANB)をキー局とするANN系列26局(北海道テレビ放送HTB)、そしてテレビ東京(TX)をキー局とするTXN系列6局(テレビ北海道TVh)で、全国ネット体制が確立しているが、この間1974年11月19日いわゆる「腸捻転」解消の為、従来の新聞・放送の異常な関係にあったJNN・ANN系列の大阪地区における加盟社の変更が発表された。この発表に基づき1958年以来18年間JNNに加盟していた朝日新聞系の朝日放送がJNNを脱退して1975年4月1日以降ANN系列に加入し、代わって毎日新聞系の毎日放送が新たにJNNに加盟した、これが大阪地区における腸捻転の解消と言われているものである。このようなネット体制(ステーションネット)が確立する以前はキー局を中心としたネット体制は広告主を中心とするネット体制(スポンサーネット)が主流であり、北海道でもSTV開局前、開局後暫くは中央広告主(ナショナルスポンサー)の要請によってNTVの番組がHBCにネット、叉HTB・uhb開局前は中央のCX・NETの番組がHBC・STVにネットされ(現在も民教協関連番組はANBとHBCが連携している)る等複雑な関係にあった。 一方ラジオについてもHBC・STVの2局時代が長く続いたが、1982年9月15日エフエム北海道(現在のAIRーG’)続いて1993年8月1日
NORTHWAVEが開局し、本道の ラジオ界もAM・FM 4局時代を迎える事となる。
AMラジオのネットワークは1965年5月1日発足した東京放送をキー局とするJRNネット34局と同年5月3日発足したニッポン放送・文化放送両社を中核とするNRNネット40局の二系列があるが、北海道地区では北海道放送はJRN・NRN両系列に加盟し札幌テレビ放送はNRNに加盟している。AIR-G’はFM東京をキ局とするJFN(全国FM放送協議会)ネットワーク36局に亦、NORTHWAVEはFMジャパンをキー局とするJFL(ジャパンエフエムリーグ)ネット5局にそれぞれ加盟している。
又、ラジオネットワークとしては1999年12月外国語FM局で構成するMEGAーNET(メガポリス ルディオ・ネットワーク)4社がFMラジオ第三番目のネットワークとして発足し、東・阪・名・福地区の各1社が加盟している。
北海道における放送の歴史は、1928年札幌中央放送局の電波発射に始まる。1925年東京、大阪、名古屋の三放送局が合同して社団法人[日本放送局]が設立されと同時に5ケ年計画で札幌、仙台、広島、熊本に放送局を置くこととなった。1927年札幌に日本放送協会北海道支部が設立されたが、この世話役として札幌商工会議所が大きな力を尽くした。一口2百円の出資金で638人、717口の出資を得て北海道支部が設立された。1928年6月5日AM11時[JOIKこちらは札幌放送局であります]のコメントが発せられ、本道での初めての放送がスタートした。[NHK札幌放送局の歩み]によれば当日の聴取契約数は2.851件であったが、当時の聴取料は月額1円、聴取許可料(契約金)も1円と言う記録が残されている。1952年HBCラジオ開局時の全道受信契約数は50万を突破した。NHK札幌放送局も開局当初は演奏所は中島公園に、送信所は月寒にあったが、1934年5月、日本放送協会の附則により札幌放送局は[札幌中央放送局]と改称された。1959年9月大通りの現在地にNHK札幌放送会館が竣工し、中島の演奏所は新会館に移転した。尚、テレビ放送は1956年12月22日大通テレビ塔から開始されたが、1962年には手稲山からのアンテナに切り替えている。演奏所があった中島公園には現在放送記念碑が建立され在りし日を偲ぶ縁となっている。 北海道で最初の民間放送は1951年11月30日創立された北海道放送株式会社であるが、同社は同年4月21日全国の16社に最初の予備免許が交付されたその内の1社である。北海道放送設立の母胎となったのは北海道新聞社であり、開設免許作業から実際の免許交付に至る迄の想像を絶する至難な道程は北海道放送10年史に克明に記録されているので省略するが、現在マスメディアの広告費シェアでは王座を保持しているテレビメディアがその誕生に際しどのような苦しみの中から産まれたかを知ることは今後のメデイアが経済的、社会的にどのような役割を担うべきかを考える上からも極めて重要であろう。 当時民放の開設を巡る国会議論の中でも民放の採算性が議論の焦点となり、大都市の民放設立計画に対しても[日本の産業界の現状を見れば、広告放送だけで放送事業を維持する収入を得ることは不可能であろう]と言う見方が多く特に北海道における民放の採算性に関しては否定的な意見が主流であった。これに対し当時の北海道新聞は次のように道民に訴えている。[民間人の資本で民間人が経営し、民間人がプログラムを組む北海道放送会社設立については、色々と困難な条件があり、この点から、時期尚早の声がないでもないが、北海道が本州から取り残され、ひとり、この全国的な民間放送開始の波に遅れることは、北海道文化のためにも、その自負心と良心とにおいて、断じて許されぬ事だ]。この主張は丁度電波三法が成立した1950年北海道開発法が成立し、これに基づき北海道総合開発第一次五ケ年計画が実施される事となったが、北海道は地場資本の蓄積は全く弱体であり、自立的経済活動が見られずこのまま推移すれば民放開局も中央局の中継局設置地域として着目されその勢力圏に納めようとする動きに対し、危機感を持って北海道の自立を道民に訴えたものであろう。このような経済的にも弱い北海道では独自の民放設立計画は無理であろうと見ていた中央の関係者も多かった。しかしあらゆる困難を乗り越えて民放を設立するとの決意が日に日に高まりゆく中、電波三法が成立し、同年10月には[放送局開設の根本的基準]により、一地域一局、他地域に跨るネットワークはこれを認めない、と言う方針が決定した。この段階では北海道での民放出願社は北海道放送1社となったが、行政当局が北海道に民放1社が成り立つと判断するかどうか、懸念する理由は十分にあった。その理由は政府の北海道民放設立についての反応が鈍く、視察に訪れる国会関係者や、電波監理委員からも明確な方針が提示されなかった。しかし開設の根本基準となった免許方針は北海道地区での北海道放送の開設をほぼ決定的なものとした。しかしその後資金計画の面でのチェツクにより免許審査は予断を許さない厳しい状況となった。資金計画と出資についての涙ぐましい展開が当時の阿部道新社長以下幹部により続けられた結果、時間切れぎりぎりで第一次予備免許獲得の条件を完備することが出来た。
待望の第一次予備免許は1951年4月21日、北海道放送以下全国16社に交付された。因みに交付された局名は以下の通りである。
北海道放送(札幌)ラジオ仙台(仙台)ラジオ東京(東京)日本文化放送(東京)中部日本放送(名古屋)朝日放送(大阪)新日本放送(大阪)京都放送(京都)神戸放送(神戸)北日本放送(富山)北陸文化放送(金沢)福井放送(福井)広島放送(広島)ラジオ九州(福岡)西日本放送(久留米)四国放送(徳島)。
1952年3月10日、北海道放送ラジオが本放送を開始、1957年4月1日同社がテレビ放送を開始したが、2年後の1959年4月1日、北海道で2番目の民放札幌テレビ放送が開局した。同社のラジオ放送は1962年12月15日放送を開始するが、その後北海道地区では北海道テレビ放送(1968年11月3日開局)北海道文化放送(1972年4月1日開局)エフエム北海道(1982年9月15日開局)テレビ北海道(1989年10月1日開局)ノースウエーブ(1993年8月1日開局)など、ラジオ、テレビ局が相次いで誕生した。各局の誕生の経緯についての概略を述べてみたい。 <札幌テレビ放送(株)>
札幌テレビ放送設立の経緯は道内二局目の免許交付を目指した様々な動きの中で最終的に同社に一本化されたものであるが、「STV10年の歩み」によれば、発行部数75万部を有する北海道新聞が基盤となって北海道放送を発足させた事から同業の北海タイムス社(発行部数30万部)も電波進出の機会を窺い、1957年4月15日免許申請を行い着々と準備を進めた、しかし当時道内テレビの新たな免許を巡って様々な動きが進行していた。1956年12月には産経新聞北海道支社を中心に北海テレビジョン、1957年2月には東急・毎日新聞の連携によるテレビ北海道、同57年4月には日本テレビ放送網が札幌・函館に放送局開設、北海日々新聞(1958年1月北海タイムス社と合併)が本間興行と提携して旭川にニュー北海道テレビの免許申請を行うなど競願状況が続いていた。しかし1957年6月19日全国チャンネルプランが決定し、北海道は既に放送開始のNHK・HBC二波があるとの理由から新規割り当ては見送られた。その後9月3日一部プランが修正され田中角栄郵政大臣時代、札幌地区にも一波割り当てられる事となり競願社の一本化により札幌テレビ放送が誕生する事となった。当時の大量一括免許の経緯について田原総一郎氏は氏の著書[テレビ仕掛け人たちの興亡]の中で次のように記述している。
[1957年7月田中角栄が郵政大臣に就任した当時、運営していた民放は日本テレビ放送網、ラジオ東京、北海道放送、中部日本放送、大阪テレビの五局でいずれも活況を呈していた。そして新規に参入を図ろうという地方新聞社、地元の有力企業などが日本全国で名乗りを挙げていた。しかし一つの放送区域について免許が下りるのは一社だけだが、全国至る所で複数の企業が申請を出し、どこに免許を与えるかという調整は困難を極めていた。大量の免許を与えることには郵政内部、特に電監を中心とする技術部門が強硬に反対していたが、田中大臣は就任3ケ月後テレビ局43局に対し一括予備免許を与え世間を驚かせた]。
このような状況のもとで札幌テレビ放送(STV)は1959年4月1日テレビ放送を開始し、1962年12月15日にはラジオ放送を開始したが、同社の創立の経緯については既に述べているので割愛し、ラジオ開局の経緯を同社が発行した社史「札幌テレビ放送20年史」(1978年12月25日発行)を参考にしながら簡単にコメントする。
STVラジオ開局の動きは1954年の北海タイムス社による「ラジオタイムス」の免許申請に始まる。その後1959年3月24日札幌市民を中心としたラジオ局開設の陳情書が提出されたが、この時点での札幌地区ラジオ局開設の申請は、ラジオ北海道、ニッポン放送、北海道新聞の3社であった。札幌テレビ放送は1959年9月免許申請を行うも申請はすべて拒否される。しかし1962年に入り全国中波ラジオ放送再編成の動きがあり、郵政省から周波数変更計画が発表され、7月10日札幌テレビ放送に予備免許が交付された。同年12月ラジオ放送を開始したが当初は札幌ローカルエリアの放送を余儀なくされていたが、1964年3月旭川・函館・帯広局を開局し、札幌ローカル放送から全道放送へと前進し、全道カバー率53%、エリア内人口280万人に達した。その後1976年には室蘭・釧路・名寄・北見・網走の5局を開局しラジオ放送開始14年目で全道エリアをカバーする事が出来たのである。
次に北海道で第三局目、我が国で初めてのUHF民放局としてスタートしたHTB設立の経緯について若干記述する事とする。
<北海道テレビ放送(株)>
HTBは1968年11月3日開局した。其の経緯を同社社史「25年の歩み」を参照しながら記述する。同社設立の契機となった1967年はテレビ周波数割り当て基本方針と第一次・第二次チャンネルプランが修正され、「いざなぎ景気」を背景に開局申請が殺到し、同年10月末にはその数も全国で190件に達したと言われている。HTBは「道民放送」の名で初代社長に就任した岩澤靖氏(当時札幌トヨペツト社長)が札幌地区で最後の申請を行った。札幌地区では七社の競願であったが、政治的解決により一本化に成功し、1967年10月17日免許申請、同年11月1日予備免許が交付された。そして会社名を現在の北海道テレビ放送と定め1968年11月3日開局したのである。
UHF局としてのHTBにとって開局当初の最大の課題はテレビ視聴のために必要なコンバーターの普及であり、その普及のためには社員は勿論のこと岩澤氏の系列会社も総力を挙げてこの販売に努力したのである。そして既存のHBC・STVに対抗するためには当然視聴エリアの拡大も大きな課題の一つであった。開局後12月15日小樽放送局、同月24日には旭川局を開局したが翌1969年11月26日網走局、27日帯広局、28日釧路局、12月1日室蘭局、2日函館局を相次いで開局し、1970年2月末には視聴世帯80万を突破し同年末には90万を突破するのである。
(註)2018年(平成30年)9月18日HTB本社は開局以来の豊平区南平岸から新たに開発された中央区北1条西1丁目(創成1.1.1区)の超高層ビル[創成スクエア地上28F地下5F)の1-7階に移転しました。 更に1970年代に入り北海道地区テレビ第4波として1972年4月1日北海道文化放送が(uhb)開局した。同社が発行した「uhb20年の歩み」を参照しながら開局に至る経緯を簡単に記述する事とする。
<北海道文化放送(株)>
uhb設立の動きは郵政省から北海道地区に新しいテレビ電波が割り当てられた1969年10月に遡る。この発表から申請締め切りの1年間の免許申請は実に59件に達したと言われている。1967年10月決定されたチヤンネルプランはこれまでのVHF局に新たにUHF局が加わるオールチャンネル時代の到来を意味し、このプランにより1967年12月北海道テレビ放送が設立され翌1968年11月3日放送を開始したのである。時を同じくした1968年11月1日が北海道新聞の創立記念日に当たり、同社役員会はテレビ第四波の獲得を最大の経営課題として決定しフジテレビと手を結んで推進することを決定したのである。道内第4局を目指しての北海道新聞社とフジテレビの提携は、それぞれの戦略志向がぴたりとかみ合った結果であった。道内マスコミ界のトップの座にある北海道新聞社として、電波媒体と結合して報道体制を立体的に強化する事は必然的な命題でもあった。一方、フジテレビ側にとって新局の設立・系列化は二つの大きな意義があった。一つはFNN(フジ・ニュース・ネットワーク)に北海道の送り出し拠点が出来ること。もう一つは営業的拠点が確立することによって、フジネットワークの媒体価値が大きく上がること。このように新局の出現は報道・営業両面でフジネットワークの基幹地区配置を全国的に完成させると言う大きな意義を担っていたのである。
その後政治的に競願各社の調整作業も終結し、1971年5月14日北海道新聞社に対し予備免許が手交された。その結果同年6月24日北海道文化放送株式会社が正式に設立され、キーステーションをフジテレビ(プライムタイムの比率90%)とし、東京12ch(プライムタイム10%)とも一部ネット関係を持つこととなった。新たに開局したuhbも豊富な資金量を背景に中継局の新設に努め開局時点で全道世帯カバレージ66%を有し、開局初年度末には世帯カバレージ82%に達する急スピードで視聴エリアの拡大に努めた、其の結果1975年度にはその率も92%に達したのである。
<(株)テレビ北海道>
北海道地区での最後のテレビ局として開局したのがテレビ北海道である。テレビ北海道開局に至る経緯について1989年10月1日の北海道新聞開局特集によれば、設立の動きは1985年に遡る。同年6月当時の札幌商工会議所副会頭の伊藤義郎氏等が北海道にチャンネルプランを割り当てるよう郵政大臣に陳情を行ったが、同年12月郵政省は全国のテレビ4局化と南北中枢都市の5局化を発表した。そして翌1986年2月電波審議会がテレビ局置局可能地区として札幌・福岡市を加えた5地区が適当であると答申し、札幌地区に送信規模3KW、チャンネル17を割り当てた。直ちに申請1号として「テレビ札幌」として伊藤義郎氏が申請したが申請社が176社に達したため、郵政大臣からその一本化の調停作業について北海道経済連合会四ツ柳会長に要請があり、結果1988年6月設立されたテレビ北海道が1989年10月1日北海道5局目のテレビ局として放送開始に至ったのである。テレビ北海道設立に当たり代表取締役社長には前述の伊藤義郎氏(札幌商工会議所会頭)が代表取締役社長に就任された。
<(株)エフエム北海道>
北海道地区でのラジオ局は1962年のSTVラジオ開局以来20年ぶりで、第三局目のラジオ局としてFMラジオ局[エフエム北海道]が誕生した。同社誕生の経緯を北海道新聞40年史から引用して記述する。エフエム局の認可については、超短波放送用周波数の割り当て計画(チャンネルプラン)に基づき、1968年秋に第一次決定がなされたが、その後1978年12月の追加割り当てにより札幌にも置局が認められる事となった。この決定に先立ち札幌地区では同年1月より申請が相次ぎ申請件数は240社に達した。1980年5月郵政省は当時の堂垣内北海道知事に一本化の調整を要請し、知事斡旋により1981年6月20日一本化が成立し、新会社の発起人として今井道雄氏他7名が選出され、発起人代表に建部直人氏(北海道新聞)が選出され[(株)エフエム北海道]が設立された。1981年7月8日免許申請を行い17日には予備免許の交付され、1982年9月15日放送を開始した。放送開始時のサービスエリアは札幌・旭川を中心に全道エリアの74.5%であった。同社はその後1992年には愛称を[AIR−G”]と改めている。
<(株)エフエム・ノースウエーブ>
1990年、所謂平成年代に入り新たにFMラジオ局としてエフエム・ノースウエーブが1993年8月1日開局した。同社の設立総会の記事が北海道新聞(1992.9.15)に記載されているので紹介する。この記事によると'92年9月14日開催され社長に地崎昭宇氏(地崎工業社長)を選任した。地崎社長は記者会見で[80%以上を音楽番組とし、来年八月頃旭川、函館でも放送を開始し、帯広、釧路でも出来るだけ急ぐ]と放送開始を明言している。開局時のサービスエリアは88万5千795世帯を予定となっている。
このようにして1951年創立された北海道放送から最後発のエフエム・ノースウエーブに至るまで半世紀に民放テレビ5局、AMラジオ2局、FMラジオ2局が開局し、これにケーブルテレビ、コミュニティラジオなどを加えると全国的にもトップクラスの情報メディアを有するエリアと化したのである。
1-6 北海道地区でのCATV・コミュニティ放送の現況我が国でのCATVは1955年群馬県伊香保温泉の温泉旅館40軒を対象にテレビの難視聴対策として誕生したのが始まりである。このように当初は難視聴対策施設として産まれたが、1960年代には再送信サービスに加えて地域情報番組の制作が加わり、更に1980年代には都市型CATVと呼ばれる20〜30チャンネルの放送を行うCATVが誕生した。1998年10月26日発表された地上デジタル放送懇談会の報告書にもケーブルテレビについて次のように位置づけている。[ケーブルテレビについては、有線系メディアとして、通信機能を備えた双方向型メデイアとしての特徴を発揮すると共に他の放送メディアの再送信に自主放送を含めた多チャンネル放送サービスの統合型放送メディアとして発展している]。現在北海道には都市型CATVとしては(株)ジェイコム札幌(1983.8.19日創立、当初は札幌ケーブルテレビと呼称していた)、(株)帯広シテイケーブル(1981.11.16日設立し1985年に開局した最古参局)、(株)旭川ケーブルテレビ(1990.4.1日開局)が代表的であるが、その他地区にも(株)時事タイムス放送社(釧路1991.12.4日開局)、(株)ニューメディア(本社は山形市で1986.6.5日創立、函館市にセンターを設けサービスを行っている)、苫小牧音楽放送(有)、又自治体関連では池田町、泊村、白滝村、西興部村ではそれぞれ独自のサービスが行われている。一方、コミュニティ放送は1992年1月当時の郵政省により制度化された、市町村に開設するFMラジオ局で、住民参加型、地域密着型のメディアとして全国的にも数多く開局されており、2002年8月現在の局数は155局に及んでいる。北海道地区の先陣を切ったのは函館の[FMいるか]で1992年12月24日開局し、ユニークな番組編成で一躍全国的にも名を高めた。現在道内には15局が開局しているが各社とも独自の番組編成に努力を続け地域コミュニティラジオとして定着しつつある。以下社名と開局年月日のみを記載する。
2006年9月:現在
これまではメデイアの誕生の経緯とその後の発展に伴う北海道地区でのネットワークの拡大の経緯について述べてきたが、次章以下では時代的な電波広告の変遷の流れを検証することとしたい。
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