第六章 電波広告の変革期
1989年ー1999年 (平成元年ー平成11年)1989年1月7日午前6時33分天皇崩御の報が国内外を駆けめぐり、時代は昭和から平成へと移り変わり新時代を迎えたのである。
天皇崩御により年号も直ちに昭和から平成へと変わったが、放送業界もこの平成を一つの始発点として新しい時代へと突入した。
昭和時代の終盤、1987年から始まった景気の上昇局面は、積極的な設備投資による設備景気により「平成景気」と呼ばれる新しい局面を生み出し、この景気は1990年まで続いた。しかし翌'91年には過剰設備投資と株価、地価等の暴落と言う資産価値の激減により景気の局面は一転して「複合不況」と言われる後退局面に直面した。複合不況というネーミングは京都大学宮崎義一名誉教授によりつけられたものであるが、複合不況の意味は「平成不況は投資の行き過ぎによる不況だけでなく、資産価額の暴落という資産デフレを伴った不況である」と、同氏は当時ベストセラーとなった著書「複合不況」の中でこう述べられている。資産価値の激減は生産・消費・設備投資等、実体経済に多大の影響を与えたのである。
バブル崩壊後の日本経済はその痛手を背負って苦難の道を歩む事となるが、その後1993年10月を底として、1996年には公共投資、住宅建設が景気を下支えする中、後半には設備投資、個人消費にも明るい動きが生まれ回復の方向に向かったのである。
この間1989年には3%の消費税が導入されたが、1997年には其の率も5%にアップされるなど消費者の消費動向にも様々な影響を与えた。
宮崎勇氏(大和総研特別顧問)は著書[日本経済図説三版]の中で、この平成不況が長く深刻であったのは原因が複合的でバブルの崩壊が大きく響いていると指摘し、その原因として在庫増加⇒生産抑制⇒設備投資減退という循環的要因を第一に挙げ、加えて1993年の冷夏という自然条件、資産デフレと言われる様なバブルの崩壊を挙げられている。そして1990年代の景気変動を次の三つの期間に区分している。
@ 1993年10月を谷とする(91~93年10月)迄の景気下降期。
A 1997年03月を山とする(94~97年03月)迄の景気上昇期。
B 1999年04月を谷とする(97~99年)迄の景気下降期。
景気も1995年以降上昇機運も見られたがこの年の1月7日発生した阪神・淡路大震災は産業施設はもとより住民のライフラインをも完全に崩壊するなど壊滅的なダメージを与えた。加えて3月以降の急激な円高、株価下落、東京地下鉄を中心にして起こったサリン事件という残忍な行為など、国内に経済面のみならず社会生活の面でも暗い影を投げかけたのである。そのため景気の回復基調にも足踏み状態が見られた。バブル崩壊の傷跡は深く、1996年はその処理を巡って住専問題が大きくクローズアップし、これと関連して銀行の社会的責任が問われた1年であった。1997年はマクロ経済としては景気の回復は着実に進行し緩やかな回復基調にあると言われていたものの、消費税アップ、医療費の改定など個人の可処分所得の減少からくる消費マインドの低落、設備投資の落ち込みなどの影響から景況は厳しい状況に直面し、一部には「平成不況」と言われる景気の足踏み状態に終始した。
平成年代に入り、衛星を巡る動きは慌ただしく、1989年3月6日にはJC-ーSAT(日本通信衛星)、5月13日にはSCC(宇宙通信)が打ち上げられ、通信衛星を使用する番組供給会社、SNG、ビジネステレビ、PCM放送等の計画が逐次具体化されつつあり、将に[衛星元年時代]と呼ぶに相応しい業界環境にあった。
1990年代の10年間は21世紀の本格的放送衛星・放送デジタル化に向けた準備期間として様々な動きが加速され、本格的な衛星放送時代の助走期として位置づけられよう。10年間の動きの中から主要なものを時系列的に見ると、我が国、民間放送衛星の本格的なスタート時点となったのは衛星デジタル放送3社の設立であろう。既にNHK(1989.6月)、日本衛星放送(WOWOW1991.4月)は本放送を開始していたが、デジタル放送3社の設立がデジタル放送の機運を一挙に盛り上げる転機となつた。
1994年11月10日には日本デジタル放送サービス(パーフェクTV)、1995年9月28日にはデイレク・ティビー(デイレクTV)、更に1996年12月16日にはジェイ・スカイ・ビー(JスカイB)が相次いで設立され、1996年10月のパーフェクTVの放送開始を皮切りに、デイレクTVも1997年12月放送を開始した。一斉に立ち上がったCSデジタル放送も1998年5月には日本デジタル放送サービス(パーフェクTV)と、ジェイ・スカイ・ビー(JスカイB)が対等合併し、サービス名を[スカイパーフェクTV]に変更したが、その後2000年に入り3月2日、日本デジタルサービス(スカイパーフェクTV)とデイレク・ティビー(デイレクTV)はCS放送事業の統合を正式に決定し、2000年末をもってデイレクTVのサービスは打ちきられた。これにより日本のCS放送事業は誕生から三年で[スカイパーフェクTV]1社に集約される事となった。又、ニューメディアの一つであるCATVについても電気通信審議会は1999年5月31日全国のCATVを西暦2010年までにデジタル化する事が望ましいとの答申を行い、21世紀2010年に向けてCS放送、BS放送、地上波放送、CATVのデジタル化計画が加速される処となつた。CATVに関してはコンサルタント会社[シード・プランニング]が2008年までのケーブルテレビの市場予測を纏め発表している。この報告書によれば1999年3月現在で794万世帯に普及しているケーブル市場は2008年までには2800万世帯まで成長すると述べている。又、2008年のケーブル市場の放送サービスの売り上げは6000億円と推定するなど、将来のケーブル市場も地上波テレビにとつては競合媒体として注意深く見守る必要があろう。一方2000末にはBSデジタル放送が開始されたが、この時代は、民放基幹局もそれぞれの系列各局、関連グループ、異業種企業の参画のもと新会社を設立するなど放送体制の整備が進められた。
1989年の日本の広告費は50.715億円であったが、1999年には其の額も56.996億円となり1989年を100とすれば1999年は112.4%と一見順調な成長路線を歩んだかに見えるが、この間日本経済は平成景気の反動からバブル崩壊と言う経済の根幹を揺るがすような大地殻変動期に直面した。広告費の面でもこれらの景気を反映して1992年・93年は二年連続の前年実績割れ、続く1994年も前年実績比100.8%という極めて厳しい伸び率に留まった。幸い1995年・96年は伸び率もやや正常な状況に戻ったものの1998年・99年は再び厳しい局面を迎える結果となった。
図 45 全国媒体別広告費推移
上の表が示す様に1992年・'93年は新聞・雑誌・ラジオ・テレビ等マスコミ4媒体は全て前年実績割れとなり、従って総広告費もこの両年は前年割れという厳しい状況下で推移した。幸い景気の回復に伴い1994年以降新聞・雑誌・テレビは前年をクリアしたとは言うものの前年実績を辛うじて確保できる状態であり、ラジオは同年も引き続き前年実績割れとなり3年連続の前年実績割れを記録した。上のグラフには表記していないが、総広告費は1992・'93年の不振から脱し1994年以降順調に推移し1997年は過去最高額の59.961(億円)を記録したが、翌年に入り国内景気後退局面の影響を受け57.711(億円)と前年実績を割り、続いて1999年も56.996(億円)と再び前年実績を下回る結果に終わった。 図 46 全国広告費媒体別シェア
マスコミ4媒体の他にSP広告費・ニューメディア広告費を加えて100となる。
上のグラフで見るように時代の流れと共に媒体別シエアは大きく変わりつつある。振り返って電通調査がスタートした1947年は電波広告費は存在せず新聞・雑誌・SP広告費のみで当時のシエアは新聞75.4%、雑誌10.9%、SP13.7%と記録されている。我が国に最初の民放ラジオ局が開局した1951年に初めてラジオ広告費が計上され僅かに1.2%のシエアを確保している。
その後ラジオ局の相次ぐ開局、そして1953年からのテレビ局開局に伴うテレビ広告費の計上など電波メディアの成長・発展、常に変わらない広告費を保持しているSP広告費、ターゲット別に益々細分化され年々広告シェアを拡大する雑誌広告費、平成時代を迎え広告ビジネスとしても脚光を浴びつつあるインターネット関連広告を含めたニューメディア広告費等、広告費の流れも時代の経済・社会環境と共に変わりつつあるが、広告費50年の流れを概括すれば、新聞広告費は1948年全広告費に対するシェアが84.9%を最高に今日まで幾つかの段階を経てきた。1960年にはこれまで長い間保持してきた70%-50%台のシェアが30%台に落ち込むのである。1959年の皇太子ご成婚時のテレビ広告費の急激な伸びについては既に述べたが同年のテレビ広告費が16.4%と前年比6.5%のシエアアップに対し、新聞は同年42.5%と前年比6.8%のシエアダウンとなり、翌年39.3%となつたのである。そしてその後年々シエアを落としながら30%台を保持してきたが、1984年シエアが30%台を割り29.0%となった。昭和の終盤から20%台を繰り返しながら現在20%台ぎりぎりのシエアとなっている。一方テレビの広告費シエアは1959年を一つの転機としてその後年々シェアを拡大し1963年には30.1%に達し、その後或時期シェアダウンを来したものの現在まで概ね30%台を保持してきた。1975年には前述のようにテレビ広告費が新聞広告費を凌駕し従ってシェアの面でもテレビがトツプの座を射止める事となったのである。しかし上のグラフはマスコミ4媒体のシエアの推移であり、これには記載していないが広告費の中で常に一定の広告費を保持しているのがSP広告費である。1999年ではマスコミ4媒体のシエアが64.7%であるのに対し、SP広告費シエアは34.5%である。販売に直結した広告費の効率的運用、流通チャンネル刺激と消費者の購買動機を刺激するDM・チラシ・折り込み・POP等これらの広告費の存在を無視することは出来ない。これらに対抗する電波媒体の営業開発、併せて他メディアと連結したメディアミツクス等今後の研究は更に必要となるであろう。
更に今後の動向に大きな関心を持たなければならないのはニューメデイア広告費である。これまで電通の広告費ではCATV・衛星放送などに投下された広告費をニューメディア広告費として計上してきたが、急速に成長を続けるインターネット広告に対応すべく1999年よりは単独のアイテムとして計上する事となった。2000年の衛星メディア関連広告・インターネット広告費は856億円前年比183.7%と極めて高い伸びを示した。電通では2000年2月今後の広告費の予測として2004年には1000億円、2007年には2000億円と、ラジオ広告に肩を並べるだろうとの報告を行っているが、テレビ・新聞・雑誌・ラジオに次ぐ第五の広告媒体の位置を占めつつあるのが現況である。一方、矢野経済研究所の[インターネット広告市場実態2000]の報告書ではインターネット利用人口の急増を背景にネット広告市場は2004年で1510億円ー2300億円で広告費の3%前後のシェアになるとの予測を出している。今後全国レベルでは急成長メディアとして注意深く見守る必要があろう。
これまでは平成に入って以降の広告費について電通資料を参考に媒体別投下額の推移、シエアの関係を検証してきたが、次に広告費の地区的投下額が年代と共にどのように変わりつつあるかを見る事としたい。
5-2「テレビ広告費の時代的変化」の項で述べた様に大都市集中化・スポット重視の動きは年々大きな流れとして定着する傾向にある事を東京・大阪・名古屋・北海道(札幌)の4地区のスポット収入シェア(1985年-88年)で比較したが、この項ではマスコミ4媒体の地区別投下額、テレビ広告費・ラジオ広告費各部門のシエアを検証する。
図 47 全国広告費メイン4媒体地区別投下額シェア
上のグラフは、マスコミ4媒体(新聞・雑誌・ラジオ・テレビ)の平成年度の各地区投下シェアの推移であるが、各地区の投下シエアも年度により若干の変動はあるものの総じて固定した感がある。メイン4媒体(新聞・雑誌・ラジオ・テレビ)の北海道地区シエアに関して述べれば、北海道も1950年代は5%台のシェアを保持していたが1960年代には4%台に落ち込んだ。そして平成の現在は遂に3%台に低落し、今後のシエアダウンが危惧される状況である。過去北海道は福岡地区に対し広告費の面でも優位な立場にあったが年々其の差が縮まり現在は北海道が1%強のマイナスとなっている。東南アジアを見据えた九州地区の経済発展と北海道の経済的停滞が生んだ結果と言うべきか。経済と広告費の相関関係を実証している感を強くするのである。
図 48 全国テレビ広告費地区別投下額シェア推移
年々広告費の効率的運用を指向するナショナルクライアントの宣伝方針を反映して大都市集中化の傾向が顕著になりつつある。その面からも地元広告費のシェアアップが今後の地方局の大きな課題となろう。
図 49 全国ラジオ広告費地区別投下額シェア推移 次にラジオについてその地区別投下額がどのような推移を辿っているかを検証してみたい。
前掲グラフのテレビ広告費各地区投下額シェアと、ラジオ広告費各地区投下額シェアを比較して両者の相違点はテレビとラジオ広告費の質的な違いから生じている。
テレビ広告費は年々大都市集中化の傾向を強め中央集約的色彩が濃くなりつつあるのに対し、ラジオ広告費は媒体特性がそれぞれの地域に密着したローカルメディアとしての機能が強いため、広告面でも中央投下型よりは地域集約型と言った色合いが濃い。特にバブル崩壊後中央広告主のラジオ広告予算の削減傾向に伴いラジオのネットワークによるスポンサーネットが後退した。東京キー局といえども全国ネットよりは関東ローカルエリアの営業対策に重点を置いたキャンペーン展開を図るなど増収対策に腐心する傾向が出始めた為、地方ラジオ局は中央依存型から地域に徹した独自の番組開発と営業戦略に全力を注ぐ事となり、この結果がテレビに比較してラジオ広告収入の地方シェアを高める大きな要因となったと理解すべきであろう。
1980年代の終盤、戦後最悪と言われた北海道の経済環境も、その後1988年以降景気の回復により上昇ムードの中に平成新時代を迎えた。その意味では1989年は北海道経済にとっては景気回復3年目に当たり平成時代は順調な船出となったのである。
1988年は前述のように公共事業、住宅建設、個人消費が極めて高い水準で推移し、この状況が1990年代に入ってもそのまま持続し好況感が漲っていたが、1992年以降は全国の経済の流れと同じく景気にも陰りが見え減速化傾向が顕在化し、全体として低迷気味に推移した。特にこの時期北海道経済にとっての象徴的な出来事は1997年11月17日の拓銀の破綻であった。これまで我が国金融界のビッグバンと言う大きな流れの中で、本道においても一時期拓銀と道銀の合併が取沙汰されてきた経緯があっただけに、突然のニユースは道民に大変な衝撃を与えた。西暦1900年設立され爾来本道開発の歩みと共に常に本道の経済界・産業界のリード役として中枢的な役割を果たして来た北海道拓殖銀行の破綻は北海道経済に計り知れない影響を及ぼす処となった。拓銀の破綻により営業権は北洋銀行に譲渡されその後円滑に金融システムが作動しているものの、破綻により直接、間接に影響を被った様々な分野での処理が現在も続行中でありバブルの傷跡の大きさを今尚留めているのが現状であろう。拓銀の破綻そして北洋への営業譲渡が本道金融再編成の第一幕だとすれば、第二幕は北洋・札銀(札幌銀行)の持ち株会社による全面提携であろう。今後の生き残りをかけたサバイバル戦略の一環として両社の共同持ち株会社である[札幌北洋ホールデイングス](社長 高向厳氏 北洋銀行頭取)を2001年4月2日発足し両社の経営を統合する運びとなった。更に再編成の第三幕は道内各地域の信用金庫・信用組合の合従連衡であり、既にこの合併も道内各所で展開されつつある。
電波広告もこれら経済環境とは切っても切れない関係にあり、現在の広告費の流れを検証する上でも平成年代初頭から今日に至る北海道・札幌経済環境がどのように推移してきたか分析することが極めて重要である。その一つとしてこの年代の実質経済成長率を北海道・全国と対比して下記にグラフ化した。
図 50 実質経済生長率の推移
上のグラフが示す様に1992年以降全国・北海道共にバブル崩壊の痛手を受けて実質成長率も極めて低率で推移した。
其の意味から言えば北海道経済は1992年不況のどん底に喘いだと言えよう。それ以降北海道の成長を支える公共投資、観光が景気の牽引力となって全国平均よりは高い成長率を保持することが出来た。その後景気は上昇局面に転じたものの1997年には再び全国的な景気後退により、全国・北海道共にマイナス成長となった。北海道の過去の成長率を見ても1980年ー1985年は冷害に伴う影響を受けて81年・83年にはマイナス成長を記録したが、1985年後半入ってからは一転して高成長に転ずる事となった。その後1990年代に入り緩やかな成長を持続してきたが、1992年にはマイナス0.5%、1997年にはマイナス2.7%
を記録した。
図 51 札幌市の経済生長率・市民総支出伸び率 上のグラフは札幌市の実質経済生長率と市民総支出の前年伸び率を示したものだが、1992年以降いずれも下降線を辿り一時期契機の回復基調も見られたものの1997年、98年はマイナス成長を記録する事となった。 亦、住宅関連では新規着着工件数も、1991年、'92年更には'97,'98,'99年と減少しているが、これらの指標からも景気の陰り現象を窺い知る事が出来るのである。
図 52 札幌市の経済指標
上のグラフで見る通り、その内の一つである百貨店販売額について言えば札幌市の商業統計による百貨店販売額は1992年以降年々減少傾向を示し、代わってスーパーの売り上げが年々増加傾向にある。この現象は消費者の購買行動の変化と大型店の立地条件など新しい都市像を浮き彫りにしている。
この傾向はグラフには表していないが全道各地域に見られる現象である。
因みに1999年の商業統計調査による道内の大型小売店数は1174店と、東京、大阪、愛知、埼玉に次いで全国五番目となっており、前回1997年の調査時に比べても6.1%の増加となっている。この中でも最近は道内人口10万人規模の地方都市への出店増と、札幌市の新興住宅地への出店が目立っている。この様にスーパー店の売上げが増加し併せてスーパー、コンビニ店が主要都市郊外型店舗として増加している背景には本道の地域性とも関係しており、カーショツピングの増加に伴う駐車場スペースの確保、物流等の立地条件もこれに拍車をかけているとも言えよう。そう言う意味では北海道という広域圏でのマーケッテイング活動には全道に亙るスーパー・セルフ店への流通アプローチも極めて重要である事が理解出来よう。
人口の増加と併せて札幌市の大きな変化の一つは産業構造の変化である。
3-3「1960年代の北海道・札幌市の経済動向」の中で参考資料として1960年・'65年・'70年の産業構造に触れたが、1970年時点における札幌市の第三次産業のウエイト
は全就業者数の72.7%と高く、特にサービス産業が大きく成長していることを指摘したがその後の流れを示すデーターとして1991年・1996年実施の総務庁「事業所調査」と札幌市の「経済計算年報」を参考に記載する。
(参考) 産業別事業所・就業者数分布状況 単位 %
上表の様に1991年と'96年の産業構成比率は概ね同率であり、前述の様に第二次産業が全国に比較して少なく、第三次産業の比率が大きいことが北海道・札幌市の産業構造の特徴である。札幌市の場合第三次産業の中でもこれを大きく分類すると「卸売・小売・飲食店」のウエイトが高く43.3%を占め、次いで「サービス業」が25.6%と、この二業種が第三次産業の大きなシェアを占めている。
亦、1999年に実施した「工業統計調査」で見ると第三次産業の分野での最近の傾向として出版・印刷とこれに関連する産業が伸びており、そのシエアでは札幌が高いことが目立っている。因みにシェア関係では札幌の事業所数は391で、全道の862に対して45%、従業員数でも全道の55%と、札幌に集中していることを示している。雑誌広告費の伸びに関連して1970年代の札幌市における市場の動向については4-5「北海道主要エリア別広告費」で記述したが、広告費の伸長もこのような産業動態の変化から窺い知る事が出来るのである。
本道の景気の牽引力として大きなものは公共事業と観光であることは既に知られる通りであるが、観光に関連して札幌市の観光二大イベントとして脚光を浴びているのが恒例の冬の雪まつりと、YOSAKOIソーランまつりである。これに夏の風物詩として定着した大通ビアガーデンも加わって観光効果と共に経済効果も大きく評価されつつある。 札幌市観光部調べの実績を参考資料としてグラフで表示する。
前章で1980年代終盤から1990年代に亘る北海道・札幌市の経済環境についてその概要を述べたが、この間広告費はどのような推移を辿って今日を迎えているかを検証して見たい。
1989年のメイン4媒体の広告費は、前年に対し伸び率128.7%の増となった。その中でも新聞の伸び額が前年比162.4%と伸び額総体の80.5%を占めている。1989年のメイン4媒体の伸び率が128.7%と言う高い伸び率を上げているのも一にかかって新聞の伸長によるものである。
我々にとって新聞広告費がこの年極めて高い伸びを見せたのは何に起因するのかは極めて興味のある処であるが、私は次のような指標からも地元経済の好況が新聞広告費にダイレクトに良好な影響を及ぼしたのではないかと推測している。即ち1989年の北海道経済は1985年からの景気の回復基調をそのまま持続しつつ推移した。札幌を中心とする全国と比較しての高い成長率と併せて特に顕著な点は民間設備投資が前年度比9.9%上昇し、この為事業の拡大に伴う労働力の確保が各企業にとっても大きな課題となり労働力の需要度が急速に高まった為、新規求人数も前年比19.4%、有効求人倍数も0.61と、1974年以来の高水準に達したのである。更に新聞広告とって大きな広告ソースである住宅建設、中でも分譲住宅(分譲マンションを含む)の建設は1966年ー1970年の「いざなぎ景気」以来と言われ、これらが大きく新聞広告の出稿増に寄与したと理解している。しかし平成景気からバブルの崩壊は広告費の面にも大きな傷跡を残した。1992年続く93年の連続2年に亙る各媒体の前年実績割れは各業界関係者に痛烈なダメージを与えた。幸い1994年以降回復の兆しを見せたものの好景気は長続きせず1997年以降再び厳しい局面に遭遇した。特に1998年はメイン4媒体いずれもが前年実績をクリア出来ず、続く1999年も雑誌・テレビが辛うじて前年実績をクリアしたものの4媒体の総計では前年割れの結果となった。このような広告費の流れを見るにつけ伸び率はかっての2桁成長には程遠く、いよいよ多メデイア時代における低成長時代の到来を実感させられるのである。
電波媒体の推移については別途分析を行うが、平成に入って新聞とテレビの関係は再びマスコミ4媒体のトップの座を新聞が奪回し、以降其の座を維持して来たが、年々格差は縮小の傾向を示し、1998年に至り待望久しくテレビ広告費が新聞広告費を凌駕する事が出来た。幸い引き続き'99年、'00年も持続する結果となったが、今後更なる努力によりこの流れを持続する事がテレビ営業活動に課せられた大きな課題であろう。(下のグラフ参照)
図 53 北海道地区メイン4媒体広告投下額推移
この結果主要3媒体のシェアはどのように変化したかを投下額シエアの推移で見ることとする。 図 54 北海道地区メイン3媒体広告費シェア推移
前述の様に北海道地区で初めて1980年代後半テレビ広告費が新聞広告費を凌駕したが、1989年新聞が奪回、1998年以降再びテレビが優勢を保ちつつある。
各媒体別に今日までの流れを概括すると、新聞広告費シェアは1957年64.4%であったが1950年代、60年代、70年代を通じて概ね50%台を保持してきた。1980年代後半に入り40%台に低落したものの1990年代に入り再び50%台を中心に推移している。
テレビ広告費シェアは1957年HBCテレビ開局時の6.0%からスタートし年々確実にシェアを拡大し40%台を保持してきたが1980年代後半一時期30%台まで後退したものの1985年以降再びシエアを戻し40%後半から1999年では50%を上廻るシェアとなった。これに対しラジオ広告費シエアは1957年時点では新聞に次ぐ29.6%のシエアであったが1960年テレビに追い抜かれて以降年々シエアを下げ、1963年にはシングルの8.8%に留まった。以降年々低落傾向が続いたが、1970年6%に回復しその後は6%を維持しつつ、1980年代には7%台にシェアアツプした。しかし1990年代に入ってからは5%台から4%台へと下降線を辿っており現在ラジオメディアは厳しい環境に曝されている。
6-7では電通推計の日本の広告費を中心に1989年以降の北海道地区マスコミ4媒体広告投下額の推移と、新聞、ラジオ、テレビ3媒体の広告費シェアを検証してきた。1985年以降北海道地区でも長い間の念願であったテレビ広告費が新聞広告費を追い抜きリーデイングメデイアとしてのポジションを手中に納めたが、1989年以降再びその地位を新聞に譲ってきた。しかしながらバブル崩壊後両者のシエアは僅少ながらもその差を縮めつつ推移してきた。平成元年3媒体を100とするシェアは新聞51.8%に対しテレビ42.7%と9.1%の開きがあったが1997年にはその差も1.3%と縮まったのである。そして1998年待望のテレビ広告費優勢の時を迎えた。今後この優勢を保持していくために何としても札幌を中心とする道内市場でのシェアアップが絶対条件となるであろう。 このことは、これまで何度か指摘した処である。この項ではテレビ各社の決算報告書に基づく収入の推移を検証するが、北海道地区も1989年10月1日テレビ北海道が開局し五系列体制が確立した今日、5局という多局化時代を迎えてテレビ広告費を巡る系列間、同業者間の競合はその極に達していると言っても過言ではない。
図 55 北海道地区テレビ局営業収入推移
上のグラフは北海道地区テレビ局の収入推移と、伸び率の推移を示したものである。* TVhのスポット収入は1991年度より計上している。
グラフの収入推移は比較して見ていただければテレビ収入が日本、北海道の経済、景気の動向と密接に関連して推移している事が理解頂けるだろう。
又、スポット収入のウエイトは年毎にはテレビ各局の収入の中で増加の傾向にあることを裏付けている。1988年度、道内テレビ4局時代の地区スポット収入は23.413百万円、そして1989年
新たにTVhが加わり5局体制となった。5局の集計が始まった1991年度の地区スポット収入は26.961(百万円)であったが、1999年度はその数字も31.798(百万円)となりこの間4.837百万円(117.9%)の伸びを示した。
一方ラジオについては1982年北海道地区第三番目ラジオ局としてエフエム北海道が開局したが、北海道地区ラジオ収入も1988年度三局合計で6.966百万円となり順調に収入を伸ばして1990年代を迎えた。
図 56 北海道地区ラジオ局営業収入推移
上のグラフは北海道地区ラジオ各社の収入の推移を示したものである。
北海道地区では1952年からHBCラジオ1局時代、1962年のSTVラジオの開局により2局時代となり、そして1982年のエフエム北海道の開局、続く1993年にノ-スウエーブが開局し時系列的には1952年、1962年、1982年、1993年と10年、20年刻みで開局され、ここでAM2局、FM2局の4局体制が確立した。
ここで視点を変えてAM・FMラジオの収入動向を対比して見ると、下のグラフの様にAMラジオ2局 は年々シェアを落とし、FMラジオ2局がシェアアップで推移している事が理解出来よう。
図 57 AM・FMラジオ収入シェア
ラジオAM・FM局の収入トレンドについて検証してきたが、角度を変えてその収入の地域的シェアはどのようになっているのかを分析することも今後のラジオの営業活動の活性化と収入拡大を指向する上で極めて重要なテーマー
であろう。
図 58 北海道地区ラジオ局地域別収入シェア
上のグラフからも判る通り、ラジオ収入も近年は札幌圏を中心とした収入シエアが高まっており、この面からも札幌の営業対応が収入を左右する大きな要因であることが理解できよう。とは言え札幌を除く地方エリアの収入もAM局のケースでは20%近いシェアを有しており、今後のAMラジオのもつ特性(情報)を生かした地域の広告ソースの更なる発掘も重要なテーマーである。
経済産業省が全国広告業事業所を対象にして実施している「特定サービス産業実態調査」は、電通日本の広告費とは違った角度から広告産業の実態を浮き彫りにしている調査資料である。直近の資料(2000年)を参考に平成年代の北海道広告市場を検証する。
対象は道内広告業事業所であるが1989年の事業所数95が1999年には134と10年余りで40%強の増加を見ている。尚、広告費はこれら事業所の年間の売上高を集計したものであるが、ここでは広告費の投下額として取り扱う。この項に記載するグラフは上記調査報告の集計に基づいたものである。この統計は地元事業所の売上額を基準としているので実際の媒体収入とは異なり、概念的には地元広告費と理解すべきものであろう。
*経済産業省 特定サービス産業実態調査 広告業編より抜粋
図 59 北海道地区メイン3媒体広告費投下額推移
図 60 北海道地区メイン3媒体広告投下額シェア推移 図 61 札幌市の媒体別広告投下額推移 上のグラフは北海道エリアから投下された広告費であり、前段で説明を加えた様に電通の広告費との比較では道外広告費・道内広告費の内の道内広告費に相当するものである。この調査によっても新聞広告費の北海道地元広告投下量は3媒体中60%を占めており、地元広告費の面でも優位性を保持していることが理解できる。次に札幌市の広告業事業所の年間売上高の推移を見ることとする。下のグラフが示すように札幌市の広告投下額も平成年度に入り1992・'95年・'98・'99・'00年には、新聞・テレビ・ラジオの三媒体とも前年実績をクリア出来ず厳しい逆境に曝された。 ここで常に広告市場としても札幌と対比される福岡について幾つかの資料を基に検証してみたい。
グラフは電通調査資料を引用 したが、1997年北海道VS福岡の4媒体のシェアは 44.6%vs55.4%であったが、2000年には北海道42.4%に対し福岡は57.6%と格差が拡大している。 図 62 札幌・福岡広告費シェア比較 これに関連して1998年2月28日の[週刊ダイヤモンド]に特集記事として札幌市VS福岡市経済力比較が載せられているが、その記事を掻い摘んで紹介したい。それによれば人口は札幌市175万人、対する福岡市は123万人(96年住民基本台帳)で全国ランキング4位と7位に位置している。しかし市内総生産(GDP)の面では札幌市6兆5151億円、福岡市6兆1771億円でこれを人口で割ると札幌市約372万円、福岡市502万円と相当の開きがある。又、生産面の指標である製造品出荷額等も可成りの差があり、総体的に札幌市は福岡市に比べて工業生産力が低く、製造業が少ない側面を表している。(この事は先に産業構造の項で第二次産業の少ないことを記述した)。これに対し市内総支出についてであるが、個人消費を比較すると札幌市4兆2063億円、福岡市2兆8512億円と大きな差がある。この事は札幌市民の消費性向の高さを物語っている。その他様々な比較がなされているが、市場性・経済力については時代的流れはあるにせよ、まだまだ札幌にとっても優位な面が多々あるものと考えられ、広告面で札幌市の優位性を勝ち取る為にも今後の経済面での活性化による広告市場の拡大に努めなければならない。
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