黒田清隆による産業の振興

開発次官、後に開発長官として1870年(明治3年)から1882年(明治15年)まで北海道開発をリードしてきた黒田清隆は、北海道における産業の振興を志し、その目的を持って1871年(明治4年)約4ケ月にわたりアメリカおよびヨーロツパ諸国を訪れました。旅行中にアメリカの農務長官ホーレス・ケプロンの顧問就任を決める他、多くの外国人の招聘をはかりました。黒田は北海道在任中、ケプロンはじめエドウイン・ダンなどの献策を取り入れ、産業の振興に力を注ぎ多くの官営農場・工場を建設しましたが、これらの産業が近代都市札幌を作る大きな役割を果たしました。所蔵 北大付属図書館[明治大正期の北海道写真編]より転載
ホーレス・ケプロン北海道開拓顧問を引き受けたホーレス・ケプロンは、1971年8月1日スタッフ一行とともにサンフランシスコを発ち8月22日横浜に到着しました。ケプロンは通算4年にわたり北海道開拓に力を尽くしました。大通公園に黒田清隆と並んで像が建てられています。 黒田清隆黒田清隆は1840年(天保11年)薩摩藩の黒田仲左衛門清行の長男として出生。1870年(明治3年)には樺太専任の開拓次官に就任しました。東久世開拓使長官辞任後は次官のまま開拓使の頂点に立っていましたが、明治7年8月2日、開拓長官に就任しています。

[官園][放牧場]の建設

1971年9月にケプロン来日後、東京に官園三ヶ所が設置されましたが、同時期に北海道でも[七重][札幌]にも官園が設置されました。札幌官園は、札幌本庁敷地の北側に三千六百坪の御手作場を設け、その後四十万坪に拡大しました。この官園では様々な農作物が栽培され[葡萄園][ホツプ園][果樹園]なども設けられていました。その後明治9年には、官園のうち三十万坪が札幌農学校に移管され、開拓使と農学校の共同研究で大きな成果を収める事となります。この時代特筆されるのは、現在の真駒内開拓の原点となった[真駒内放牛場]と、北大キヤンパスの中に復元されている[モデルバーン]です。又、当時養蚕の振興を図るため養蚕施設が整備されましたが、現在の桑園地区の地名にまつわる桑の栽培も盛んに行われていました。

[官営工場]

開拓使は、ケプロンの献策に基づき、札幌市内大通-北1条、東1丁目-4丁目の約三町四方を工業ゾーンとして設定し、様々な官営工場を建設しました。このゾーンには木挽から機械、器具製造などの機械工場を建設しましたが、明治9年以降は、農産物や麻、繭などを原料とした加工工場なども建設されています。現在のサッポロビールの原点でもある[開拓使麦酒醸造所]もこの地に誕生しています。