札幌本府の建設

島義勇・岩村通俊の街づくり

開拓使は、札幌を[本府]としてその建設を進めましたが、[本府]とは当時[札幌市街][開拓使本庁を含む敷地]などをさして呼ばれていたようです。この札幌建設の最高責任者は主席判官島義勇でした。

島は東久世長官等と明治2年9月21日品川を発ち25日には函館に到着しています。島はこの後陸路で銭函(札幌-小樽間)に向かい、ここに仮役所を設置しています。島判官に先行して札幌入りをした林・長岡両少主典、営繕係の富岡・阿部両少主典の4名は志村鉄一、早山清太郎を案内役として、コタンベツの岡(円山の岡)から札幌の地形を視察し、現在の大通西4丁目に仮小屋を建て事務所を開設しました。その後ここから東約1里の地に本府庁舎を建設することを決めました。島判官は、札幌の基点を[大友堀]の岸(現在の南1条創成橋付近)に定めて街造りに着手しました。島判官は現在の北1条西1丁目に官邸を建設し、銭函からここに移って街づくりを進めましたが、東久世開拓使長官と折り合いが悪く、判官を免職となり着手後間もない翌年(明治3年)の2月11日離札しました。後任には函館出張所詰判官岩村通俊が命ぜられています。岩村判官は明治4年2月10日に札幌に入りましたが、当時本府建設を巡る賛否両論が大きく、岩村は札幌本府建設の事業を打ち切る事としました。この決定に猛然と異議を唱えたのは島判官とともに建設に尽くした西村貞陽です。東久世長官もこれに理解を示し、明治4年1月2日には札幌本府建設の裁定が下され約半年の間に建設は急ピツチで進められる事となりました。
所蔵 北大付属図書館[明治大正期の北海道 写真編]より転載
写真左図は札幌市役所ロビーに建立されている島義勇の像です。
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写真右図は[札幌建設の地碑]です。島義勇は、札幌の基点をこの地に決めました。ここは銭函から藻岩山を回り篠路に行く道路の交差点です。
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明治4年3月、現在の北4条東1丁目(現JR札幌病院)の一角に[開拓使庁]を設け、東久世長官も4月24日札幌に移住し陣頭指揮を行い、庁舎を中心に一里四方を札幌の市街とし、市区を六十間としました。これが現在の札幌の区画の原点となっています。写真は、開拓使札幌本庁仮庁舎(所蔵 北大付属図書館 原写真所蔵)


岩村判官は、街づくりには人材の育成が必要であるとの観点から教育にも力を入れ、島判官が本陣内に設けた学校を明治4年10月現在の北1条東2丁目移転し[資生館]と称しましたが翌5年11月[札幌学校]と改めました。これが中央創成・西創成→資生館小学校の原点です。
また、島判官が[開拓三神]の御霊を札幌に運び鎮座した[札幌神社]の造営を1871年(明治4年)に行いました。更に明治4年には、現在[清華亭]のみが保存されている[偕楽園]の造成も行っています。

(左)
札幌神社(現在の北海道神宮)
(右)
偕楽園
所蔵 北大付属図書館)

明治6年の札幌市街図
創成河畔の関門の南を[町地]、北を[官宅地]として中央には幅58間の広街を設けて火防線としました(現在の大通公園)。また明治7年2月[大友堀]を[創成川]と改称し、市街の町名も本道の郡国名をとって名づけています。因みに現在の南1条西部は[渡島通]東部は[日高通]、大通は[南後志通・北後志通]等
(所蔵 北大付属図書館)
明治6年10月開拓使本庁が落成しました。総工費三万二千円余りをかけ1年3ケ月で竣工した庁舎は、地上より屋上八角座の尖端までの高さが14間1尺の洋風三層楼の建物です。この本庁構想はケプロンの設計で、現在の道庁を中央として、東は現在の西4丁目駅前通、西は、西8丁目通、南は、現在の北1条通、北は、現在の北6条通まで約5町四方を開拓使本庁の敷地に設定しました。写真下左は開拓使本庁舎の落成式、右は、上棟式の様子です。(所蔵 北大付属図書館)