明治4年3月、現在の北4条東1丁目(現JR札幌病院)の一角に[開拓使庁]を設け、東久世長官も4月24日札幌に移住し陣頭指揮を行い、庁舎を中心に一里四方を札幌の市街とし、市区を六十間としました。これが現在の札幌の区画の原点となっています。写真は、開拓使札幌本庁仮庁舎(所蔵 北大付属図書館 原写真所蔵)
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岩村判官は、街づくりには人材の育成が必要であるとの観点から教育にも力を入れ、島判官が本陣内に設けた学校を明治4年10月現在の北1条東2丁目移転し[資生館]と称しましたが翌5年11月[札幌学校]と改めました。これが中央創成・西創成→資生館小学校の原点です。
また、島判官が[開拓三神]の御霊を札幌に運び鎮座した[札幌神社]の造営を1871年(明治4年)に行いました。更に明治4年には、現在[清華亭]のみが保存されている[偕楽園]の造成も行っています。
(左)
札幌神社(現在の北海道神宮)
(右)
偕楽園
所蔵 北大付属図書館)
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明治6年の札幌市街図
創成河畔の関門の南を[町地]、北を[官宅地]として中央には幅58間の広街を設けて火防線としました(現在の大通公園)。また明治7年2月[大友堀]を[創成川]と改称し、市街の町名も本道の郡国名をとって名づけています。因みに現在の南1条西部は[渡島通]東部は[日高通]、大通は[南後志通・北後志通]等
(所蔵 北大付属図書館) |
明治6年10月開拓使本庁が落成しました。総工費三万二千円余りをかけ1年3ケ月で竣工した庁舎は、地上より屋上八角座の尖端までの高さが14間1尺の洋風三層楼の建物です。この本庁構想はケプロンの設計で、現在の道庁を中央として、東は現在の西4丁目駅前通、西は、西8丁目通、南は、現在の北1条通、北は、現在の北6条通まで約5町四方を開拓使本庁の敷地に設定しました。写真下左は開拓使本庁舎の落成式、右は、上棟式の様子です。(所蔵 北大付属図書館)
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